中村彝は、第3回文展(明治42年)で「巌」と「曇れる朝」が初入選し、前者が褒状を得た。
翌年、第4回文展で「肖像」(現在、ブリヂストン美術館所蔵の「帽子を被る自画像」)と「海辺の村」が入選、後者が3等賞を受賞。
その翌年の第5回文展では「女」を出品し、再び3等賞を。
新人が、文展に3回連続入選で、しかも3回連続受賞に輝いたのだから、将来を嘱望されていたことは明らかである。
だが、大正元年の第6回文展と大正2年の第7回文展には不出品だった。
大正3年の第8回文展には俊子を描いた作品の中でも最も有名な「小女」を出品し、3等賞受賞。
大正4年の第9回文展には保田龍門をモデルに「肖像」を出品し、2等賞を受賞。この作品は、当時の彝の心理状態も強く反映した「傷に呻けるものの形相」とも言われる迫真の作品であったが、大震災で焼失した。
そして大正5年の第10回文展には「田中館博士の肖像」と「裸体」を出品し、前者が特選となる。
そのあと、大正6年、7年、8年と官展への出品がなく、大正9年の第2回帝展に「エロシェンコ氏の像」を出品し、絶賛を博す。
しかし、大正10年、11年の帝展には不出品、大正12年の帝展は大震災のため中止となり、大正13年の第5回帝展を迎え「老母の像」を出品、その年の12月に亡くなるのである。
以上、年譜をなぞるような記述で恐縮だが、こうして見ると、彝の官展出品作品は、やはり相当気合が入った作品の連続という感じはする。作品の質はもちろん、その大きさも、今日残されている彝の他の作品に比べれば、比較的に大きい方の作品なのである。
ところで、彝が官展に出品できなかった年に注目してみると、彼の体調の不具合、病状の進行により制作がうまく進まなかったということで、一応の納得が得られるが(実は大正8年も静物画などに優れた作品があり、意外な収穫期だったが、官展に出してもよいと思ったものは、なかったのかもしれない)、大正元年と大正2年の文展不出品については、それだけの説明では不十分な感じがしないでもない。
というのも、実はそれらの年の文展に出品を予定していたのではないかと思われる作品が存在するからである。すなわち「友の像」と、俊子を描いた「婦人像」(メナード美術館蔵)がそれらである。しかもこれらは彝の生涯の作品の中でも最も大きく、かなり野心的な作品だったのではないか。
ただ、これらは、未完成に終わった作品なので、完璧を望む彝には官展のような文展に公開するのは躊躇われたのであろう。もちろん、未完成といっても、肝心なところは相当仕上がっており、今日の鑑賞に十分堪え得る作品であって、むしろ却ってその方が面白いという人もいよう。
私はこれらの2点が彝の「文展出品に相当する重要作品」と、以前から認めていたが、しかし実はこうも書いてしまったことがある。
「とはいえ、これらが、文展出品を意図して制作されたものかどうかは明らかでない。特に第六回文展には別の作品を出品しようとしていた報告もある。それは『中村屋の子息』を描いたもので『団扇を抱いている半身像』あった。・・・この作品は相馬安雄を描いた『少年像』と想定されているが、小さな作品であり、彝としては出品を見送らざるを得なかったのだろう。」(『中村彝の芸術(上)』67‐68頁)
ここで、第6回文展に「別の作品を出品しようとしていた報告もある」というのは、私の誤読であって、彝が「是でもできたら出品しようと云ってゐた」という報告は、文展ではなく、当時、斎藤与里から出品を誘われていた<ヒウザン会>への出品のことと読むべきであった。
相馬安雄を描いた「少年像」は、俊子の妹千香子を描いた「帽子を被る少女」とともに、愛らしいとてもよい作品だが、やはり小さなもので、文展出品を意図していたとは考えられない。
彝の言葉によれば、大正元年は「春以来健康が優れんのでミッチリ製作も出来ず・・・然も最う時日も少なし、本年は文展もお休みにしやうかと思って居た」ことは事実だ。
しかし、文展出品については、全く作品が準備されていなかったのではなく、もう「時日も少な」く、完成が見込めないという意味だろう。で、何に取り組んでいたかと言えば、それは「友の像」以外にはないと思うのである。しかもこの作品は、その経緯からも知られるように、モデル側からの発注に依ったのではなく、むしろ彝の方から自発的にモデルを選び取った作品という点も重要だ。
「友の像」が始まったのは、モデルの亀岡崇が秋からと述べているが、何月からかは分からない。「段々寒むさうになつて来たので・・・翌春に描き続けること」にし、ついにそのままになってしまったと述べている。文展については何にも触れてはいない。ただ、鈴木良三は、「やがて完成して文展へ出品するつもりだったらしい」と推量形で述べている(「中村彝作『友の像について』」『三彩』337号、1975年9月)。
大正2年の第7回文展については、「小女の半身裸像」を出品しようとしていた報告がある。これは、従来見落とされていたきわめて重要な事実である。そして、これに該当する作品が、今日メナード美術館にある「婦人像」であることは、作品の規模からしても明らかだろうと、今の私は思う。
翌年、第4回文展で「肖像」(現在、ブリヂストン美術館所蔵の「帽子を被る自画像」)と「海辺の村」が入選、後者が3等賞を受賞。
その翌年の第5回文展では「女」を出品し、再び3等賞を。
新人が、文展に3回連続入選で、しかも3回連続受賞に輝いたのだから、将来を嘱望されていたことは明らかである。
だが、大正元年の第6回文展と大正2年の第7回文展には不出品だった。
大正3年の第8回文展には俊子を描いた作品の中でも最も有名な「小女」を出品し、3等賞受賞。
大正4年の第9回文展には保田龍門をモデルに「肖像」を出品し、2等賞を受賞。この作品は、当時の彝の心理状態も強く反映した「傷に呻けるものの形相」とも言われる迫真の作品であったが、大震災で焼失した。
そして大正5年の第10回文展には「田中館博士の肖像」と「裸体」を出品し、前者が特選となる。
そのあと、大正6年、7年、8年と官展への出品がなく、大正9年の第2回帝展に「エロシェンコ氏の像」を出品し、絶賛を博す。
しかし、大正10年、11年の帝展には不出品、大正12年の帝展は大震災のため中止となり、大正13年の第5回帝展を迎え「老母の像」を出品、その年の12月に亡くなるのである。
以上、年譜をなぞるような記述で恐縮だが、こうして見ると、彝の官展出品作品は、やはり相当気合が入った作品の連続という感じはする。作品の質はもちろん、その大きさも、今日残されている彝の他の作品に比べれば、比較的に大きい方の作品なのである。
ところで、彝が官展に出品できなかった年に注目してみると、彼の体調の不具合、病状の進行により制作がうまく進まなかったということで、一応の納得が得られるが(実は大正8年も静物画などに優れた作品があり、意外な収穫期だったが、官展に出してもよいと思ったものは、なかったのかもしれない)、大正元年と大正2年の文展不出品については、それだけの説明では不十分な感じがしないでもない。
というのも、実はそれらの年の文展に出品を予定していたのではないかと思われる作品が存在するからである。すなわち「友の像」と、俊子を描いた「婦人像」(メナード美術館蔵)がそれらである。しかもこれらは彝の生涯の作品の中でも最も大きく、かなり野心的な作品だったのではないか。
ただ、これらは、未完成に終わった作品なので、完璧を望む彝には官展のような文展に公開するのは躊躇われたのであろう。もちろん、未完成といっても、肝心なところは相当仕上がっており、今日の鑑賞に十分堪え得る作品であって、むしろ却ってその方が面白いという人もいよう。
私はこれらの2点が彝の「文展出品に相当する重要作品」と、以前から認めていたが、しかし実はこうも書いてしまったことがある。
「とはいえ、これらが、文展出品を意図して制作されたものかどうかは明らかでない。特に第六回文展には別の作品を出品しようとしていた報告もある。それは『中村屋の子息』を描いたもので『団扇を抱いている半身像』あった。・・・この作品は相馬安雄を描いた『少年像』と想定されているが、小さな作品であり、彝としては出品を見送らざるを得なかったのだろう。」(『中村彝の芸術(上)』67‐68頁)
ここで、第6回文展に「別の作品を出品しようとしていた報告もある」というのは、私の誤読であって、彝が「是でもできたら出品しようと云ってゐた」という報告は、文展ではなく、当時、斎藤与里から出品を誘われていた<ヒウザン会>への出品のことと読むべきであった。
相馬安雄を描いた「少年像」は、俊子の妹千香子を描いた「帽子を被る少女」とともに、愛らしいとてもよい作品だが、やはり小さなもので、文展出品を意図していたとは考えられない。
彝の言葉によれば、大正元年は「春以来健康が優れんのでミッチリ製作も出来ず・・・然も最う時日も少なし、本年は文展もお休みにしやうかと思って居た」ことは事実だ。
しかし、文展出品については、全く作品が準備されていなかったのではなく、もう「時日も少な」く、完成が見込めないという意味だろう。で、何に取り組んでいたかと言えば、それは「友の像」以外にはないと思うのである。しかもこの作品は、その経緯からも知られるように、モデル側からの発注に依ったのではなく、むしろ彝の方から自発的にモデルを選び取った作品という点も重要だ。
「友の像」が始まったのは、モデルの亀岡崇が秋からと述べているが、何月からかは分からない。「段々寒むさうになつて来たので・・・翌春に描き続けること」にし、ついにそのままになってしまったと述べている。文展については何にも触れてはいない。ただ、鈴木良三は、「やがて完成して文展へ出品するつもりだったらしい」と推量形で述べている(「中村彝作『友の像について』」『三彩』337号、1975年9月)。
大正2年の第7回文展については、「小女の半身裸像」を出品しようとしていた報告がある。これは、従来見落とされていたきわめて重要な事実である。そして、これに該当する作品が、今日メナード美術館にある「婦人像」であることは、作品の規模からしても明らかだろうと、今の私は思う。