中村彝作品の初期コレクターとして、今村、伊藤、洲崎に次いで、高島なる人物が現れた。それは、昭和16年の中村彝回顧展図録や同年に公刊された森口多里の本を見ると確認できる。
しかも、それは、1,2点にとどまらない。さらに、高島家のコレクションとされている作品にはかなり重要なものが含まれているのである。
前のこのブログ記事で、それは、高島なる人物が伊藤隆三郎のコレクションを受け継いでいるからではないかと推測した。
では、この高島なる人物とは誰だろう。本稿では、それは、中国美術のコレクションで名高い高島菊次郎のことではないかと思うのである。
「高島菊次郎氏(1875~1969)は、日本の製紙業界に大きな貢献を残しました。またそのかたわら、50歳を過ぎた頃から老子・荘子を中心に漢学を研究し、書画に関する関心を次第に深め、中国書画の収集に力を注がれました。その収集品は、早くから高島コレクションとして内外に喧伝され、その分野の研究に果たした功績はきわめて大きなものがあります。」
上に引用したのは、東京国立博物館が2005年に展示した中国美術に関連した「高島コレクション」の紹介文章からの一節である。
ここには高島が、洋画家たち、特に中村彝の作品もコレクションしたなどとは一切書かれていない。けれども、彼が製紙業界に大きな貢献をしたという部分に注目されたい。
実際、製紙業界が彝の作品を所蔵していた証拠は今日においても確認できるのである。
例えば明治44年作の「読書」や、<大正八年六月彝>の年記と署名のある優れた作品の「静物」がそうした製紙業界に関連した作品である。
では、この2作品は、伊藤蔵として大正14年の遺作展に出ているかと言えば、それは出ていない。伊藤がこれらの作品を持っていたが出さなかったのか、持っていなかったから出なかったのかは今のところ分からない。
逆に遺作展51番の、ルーベンスから自由に部分模写した彝の小品「水浴の女」は、伊藤蔵であったが、これが、高島コレクションに一時的に入ったかどうかもまだ分からない。(鈴木良三によれば、この小さな作品だけはかなり後まで伊藤が愛蔵していたようである。現在では確か多摩信金蔵となっている。)
一方、「ステーションの雪」や「椅子によれる女」のように伊藤蔵から高島蔵に移った作品があることも確かである。
このようなわけで、伊藤蔵の彝作品が全て直接に高島コレクションに入ったのかは、まだ十分には確認できているとは言えないかもしれない。
けれども、高島菊次郎は、王子製紙で高橋箒庵の後を継いだ人物であることも注目すべき事実である。
高橋義雄箒庵は、水戸の出身で彝の支援者の一人である。彝没後シスレー模写が鈴木良三氏によって箒庵に届けられた。
だから高島菊次郎が高橋箒庵などから聞いて水戸の画家彝の名前を以前から知っており、その作品を伊藤などからまとめて買い取ることがあったとしても不思議ではなかろう。
むしろその可能性は、これまで述べた様々な状況から、かなり大きいと言えるのではなかろうか。(©︎舟木力英)