美術の学芸ノート

中村彝などの美術を中心に近代日本美術、印象派などの西洋美術の他、つぶやきやメモなど。

中村彝のコレクターたち(3)ー今村繁三

2022-02-14 00:23:38 | 中村彝
 中村彝の没後に直ぐ開催された画廊九段での遺作展の目録によると66点が出品された。そのうち以下の11点が今村繁三所蔵の作品だった。

 巌
 海辺の村
 (明治44年の)女
 (大正3年の)静物
 (目録14番の)静物
 (同24番の)ダリヤ
   (大正5年の)裸体
 エロシェンコ氏の像
 (目録58番の)女
 朝顔
 老母像
 
 これらの作品は、その多くが主要な展覧会に出品された彝の作品であり、今村がいかに彝の重要な作品を所持していたか分かる。
 目録に写真図版がなくても、2点の「静物」と「ダリヤ」を除けば、どの作品であるかが制作年とタイトルから容易に確認できる作品群である。
 2点の「静物」のうち、大正3年とされる静物も、今村が持っていたのであるから、重要な作品である可能性が高いが、どの作品を指示しているかは明確でない。実際に大正3年の作品かどうかも分からない。
 今村が持っていた静物画で重要なのは、1911年1月15日の年記とT.N.のサインを持つ作品かもしれない。1911年は明治44年だが、この作品は、大正3年の大正博覧会に出品され、銅賞を獲得している。が、遺作展に出品されたかどうかは明確ではない。
 これは、写真図版がある昭和16年の回顧展図録ではなぜか大正2年作の「静物」として載っている。また、そこでは某家蔵とされている。しかし、同年の森口本の図版ではこれが今村蔵と明記され、制作年は、年記通りの明治44年がとられている。
 今村が持っていた作品のうち、昭和16年までに「巌」は御物となった。同じく官展出品作品の「女」と「老母像」は徳川家に移った。今村は彝のこれらの作品を、この頃までには事情があり、手放したのかもしれない。
 また、森口本の図版で大正6年作とされる佳品の「静物」も昭和16年までには徳川家の作品となっているので、あるいはこの作品も、もとは今村蔵の作品であった可能性があるかもしれない。
 遺作展58番の今村蔵の「女」は、金塔社展出品の作品と思われる。色調や作品のサイズも「エロシェンコ氏の像」と対を成すかのような作品であるから、今村が持つに相応しいし、隣り合わせに並べると本来同じ額縁に入っていたことに気付くはずだ。
 今村蔵の「裸体」や「エロシェンコ氏の像」、そして「朝顔」もそれぞれの時期の代表的な作品と言ってよく、今日ではもちろんどれも公的美術館の所蔵となっている。
 更に今村蔵の彝作品は、遺作展に出品されたもの以外にもまだあった。例えば今日ポーラ美術館にある日本の古代神話から取材したという3人の裸体女性が描かれた「泉のほとり」も今村蔵の作品であった。
 他に森口本14番の「花」、そして、今日、三重県立美術館にある「髑髏のある静物」、茨城県近代美術館にある「カルピスの包み紙のある静物」も旧今村蔵として重要である。
 そして、より興味深いのは、今日、メナード美術館にある俊子を描いた横長の大きな作品「婦人像」も森口本では、今村蔵になっている。これは、未完成ながら、彝の代表的な作品の1点と言っても過言ではない作品である。
 この作品は、彝没後にそのアトリエから発見され、鈴木良三の著書によれば、酒井億尋の所蔵となった作品である。
 が、いつの時点からか、(森口本の記述が正確なものとするなら)今村蔵となったことが推測される。
 そして、おそらくこの作品は、興味深いことに、マネのいくつかの作品からの影響が濃厚にあるものではなかろうか。(特にその「オランピア」と、おそらく彝がカラーの複製画を持っていたと思われるニーナ・ド・カリアスを描いた「団扇と婦人」からの影響が大きいのではなかろうか。)
 このように今村繁三の中村彝作品のコレクションは、実に粒揃いであったのである。
 なお、今日、茨城県近代美術館にある「裸体」は、森口本では、もはや今村蔵とはなっていない。昭和16年までには、他の所蔵家に渡っていたのかもしれない。
 
補遺:
 相馬俊子を描いた彝の「婦人像」とは反対に所有者が入れ替わった作品がある。すなわち、遺作展では今村蔵となっていた「朝顔」は、昭和16年までには酒井億尋蔵となっている。(2022-2-19記)

 
 
 
 

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