中村彝の大正9年4月7日の洲崎宛葉書に「小供は前々からの希望で実に結構ですが」とか同年同月9日の葉書に「小供をどうぞお願いします」というフレーズがある。ここに出てくる「小供」とはどういう意味だろうか。
ここに出てくる「小供」とは、葉書の文脈から想像するほかない。
「御手紙をありがとう御坐いました。小供は前々からの希望で実に結構ですが丁度今国から来る筈になっている女中(御ばさんの身よりの人)があって、今明日中に先方へ返事を持って決定する筈になって居る為めに早速御返事出来ないのを残念に思いますが遅くとも明日中には必ず返事がある筈ですからその上で早速御答致します。何時もこういう風にいい女中のある時には必ず運悪くぶつかるので弱ります。…」
この葉書の文脈は、なんだかごてごてして混み入っており、漫然と読んでいると何を言っているのかよく解らないが、要するに言葉を補って読んでみると、こういうことだろう。
「御手紙をありがとう御坐いました。小供【の件】は前々からの【私の】希望で実に結構ですが丁度今国から来る筈になっている女中(御ばさんの身よりの人)【の別件】があって、今明日中に先方へ【提示した条件などの】返事を待って(※「持って」というのは誤植だろう)決定する筈になって居る為めに早速【あなたに】御返事出来ないのを残念に思いますが遅くとも明日中には必ず【先方からの】返事がある筈ですからその上で早速【あなたに】御答致します。何時もこういう風にいい女中の【話が】ある時には必ず運悪くぶつかるので弱ります。…」
こういうふうに文脈を補って読んでみると「小供」というのは「年端もいかない若い『女中』」を意味しているのだと思われる。
すなわち彝は洲崎から「小供」(若い「女中」)の打診があったが、おばさん(岡崎きい)の身よりの人である「国から来る筈になって居る『女中』」からの明日の返事を待って、「小供」の受け入れを決めるということである。
そして明後日の洲崎宛の葉書で彝は「小供をどうぞお願いします。なるべく早くお願いします」と書いているので、「国から来る筈になって居る女中」の話は不発に終わったことが想像される。
因みに『中村彝・洲崎義郎宛書簡』(1997)において大正9年9月20日とされる書簡(84頁)で、「水戸の女中は駄目になりました」と言及されている「女中」は、同年4月7日に言及されている「女中(御ばさんの身よりの人)」と同郷と見られるが、同一人かどうかは不明である。また、『中村彝・洲崎義郎宛書簡』(1997)の大正9年9月20日とされるこの書簡は、先にこのブログで指摘したようにその日のものでは有り得ず、同年2月20日のものと考えられる。