美術の学芸ノート

中村彝などの美術を中心に近代日本美術、印象派などの西洋美術の他、つぶやきやメモなど。

中村彝と女書生(2) 太田タキと「例の少女」

2015-10-14 21:48:48 | 中村彝
女書生募集の新聞広告でやってきた女性の名は太田タキといった。バイオリン・ケース抱えてやってきた。バイオリンを弾き、暇さえあれば手紙を書いていた女性だという。曽宮一念や鈴木良三はこの女性のことを観察していて、良三はこの女性を27,8歳と見ている。「ヒモ」もいたという。

彝は一時「どういうわけか」、「多分ルーベンスのスリーグレーセスに刺激されて」、この女性に「すこし情欲を感じ出した」と告白している。(大正9年4月20日洲崎宛て書簡)

彝はこのことを自分の「健康にとっての一大事であり、又太田さんにとってもよくないことだ」と思い、「急いで(土田の)ばあやに来て貰う気になった。」
が、今は情欲の「そんな衝動も感じなくなり」、彼女も親切なので、土田のばあやが来られないなら、むしろ太田さんに居てもらったほうがよいとも洲崎に述べるのだった。(同上書簡)

しかし、4月28日の洲崎宛て書簡では、「神田のヲバサンが来ている」との重要な記述が見られる。

神田のおばさんとは岡崎キイにほかならないと考えられるから、病気療養にあった彼女は遅くともこのころまでに彝のところに戻って来たとしてよいはずだが、この事実は年譜作成者にきちんと認識されていない。

「太田さん」が彝のところにいたのはせいぜい4月末までだ。実は彼女、「婦婿の医師からも盛んに帰れ」と言われていたようだったのだ。(4月23に書簡)
(※良三が言う彼女のヒモとはこの医師だったのかもしれない。わざわざ婦婿の、と言っているからだ。)

おそらくキイは、太田嬢が彝のそばにいるのはよくないことだと察知して、彼女を追い出したのだろう。
そのため彝とケンカしたのかどうか、5月末に「吐気と動悸がひどくなって」キイはまた神田に帰ってしまった。(5月30日書簡)
そして彝は自炊生活に入るのである。

(※よく使われているある詳細な年譜には、土田トウが4月の末から5月の末まで3度目の上京をして彝の面倒を見ていたように書いてあるが、この期間は本稿で見たとおりキイが戻っているのだから、これはあり得ない。「ばあや」とか「おばさん」とか紛らわしいので、年譜作者がその典拠としている書簡の読みに混乱が起こっているのではないか。)

大正9年5月3日の書簡では塩井雨江の40歳を過ぎた独身娘「塩井さん」のことが話題になっている。

そして、6月28日書簡には、19歳の「非常に美しい少女」のことが、洲崎に報告されている。
「私を愛して、10月に学校を卒業したら早速僕のところに来て、僕の世話をしたり、僕のモデルになったりして上げ度いと言ってくれるのです。」

「肉体や顔立ちは豊満無類で、…私の趣味に実によくかなったタイプの女性です。」
そして彼はまたもやその顔立ちにレンブラントの「サスキヤ」やルーベンスの「ヘレン」を想像するのだった。

「今度こそこの人をモデルにしてほんとに立派な制作が出来そうな気で居るのですが、然し私が最も恐れるのは、私の心に恋心の燃え初めることです。」

彝の書簡で「例の少女」と呼ばれるこの女性は、実は太田タキの従妹だったらしい。

しかし、8月18日の洲崎宛て書簡を読むと、「例の少女が又しても周囲の反対と僕自身の病的な情熱に脅かされて僕から離れることになりました」と書くことになるのである。

こうして見てくると、大正9年6月下旬から8月中旬までの間、彝の心を占め、彼が「モデル」として描きたかったのは、この少女だったのかもしれない。



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中村彝と女書生(1)

2015-10-14 18:35:08 | 中村彝
「男の顔」のモデル、河野輝彦は大正9年2月24日から彝のアトリエに来て「勝手の方」の世話をしてやったようである。
その前は斎藤与里のところで彼は長いこと書生をしていて、「書生」という言葉を聞いただけでも「ゾッ」としてしまうのだった。
だから彝は十分自活していけそうな彼に「書生」としていてもらうのは、気の毒だったらしい。

「書生」、今はあまり聞かない言葉になってしまったし、そういう人もほとんどいなくなってしまったが、辞書の説明をみると、「他人の家の世話になり、家事を手伝いながら学問をする者」などと書いてある。

彝のような独身者で病を抱えている人間には、身の回りを世話してくれる人は必要で、これまで岡崎キイがそうしていたのだが、1月19日に彼女自身が入院してしまったのだ。

そうなると別の「婆や」か「書生」のような人が必要になる。

それでその年の1月22日頃から約1か月ほどは、洲崎義郎が柏崎から土田トウを連れてきて彝の面倒を見させた。
そのあとに来たのが酒井億尋が紹介した河野である。

しかし彝は、2月下旬には「女書生募集の広告」を新聞に出したようである。

募集の効果はすぐには上がらなかったようで、土田トウは3月6日から2回目の上京をし、約1か月にわたって彝の面倒を見たらしい。

この「女書生募集の広告」に触れた彝の書簡があるが、そこにはこう書いてあった。「女書生、学習の余暇充分、希望により傍ら洋画を教授す」。

さて、この書簡なのだが、これを新潟県立美術館1997年発行の「中村彝・洲崎義郎宛書簡」では9月20日のものとしている。
しかしこれは何かの間違いではないか?

書簡の中には日付のみで「二十」としか書いていない。
私は書簡の実物を見たわけではないので確かなことは分からないのだが、封筒が残っていれば消印などでそれは確かめられるだろう。
だが、書簡のその他の内容からも、この書簡が9月のものとは私には考えられない。

その他の内容のひとつは、「面白い人が弟子入を申込んで来ました」という一文である。
これは塩井雨江の「オールドミス」と紹介されている40歳を過ぎた独身娘のことである。彼女と思われる「塩井さん」という名の人物は、既にこの年の9月以前の洲崎宛ての彝の書簡にも登場しているから、9月になって塩井さんが弟子入りするというのはちょっと変だ。だから、書簡の出された月は再考した方がよい。

さて、女書生募集の広告で、やっと4月になってやって来た女性はどんな人物だったか?
それは、彝が見ていたあのルーベンスの複製画「三美神」を想像させるような女性だったのである。これについは次回に語ろう。







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中村彝「男の顔」(茨城県近代美術館蔵)

2015-10-10 15:11:46 | 中村彝
画面左下に署名と年記(「大正九年二月」)。
漢字の「彝」という署名はこの作品では「彜」と書かれている。(つまり「糸」の部分が「分」の崩し字となっているが、彼の署名においては、これは特に珍しくはない。)
大正9年5月の聖徳太子千三百年忌記念展覧会に出品。
モデルは画家志望の大工河野輝彦。彼は斎藤与里の書生をしていたが、一時、彝の身の回りの世話をした。後には関東大震災で被害を受けた彝の画室を修理している。

彝自身はこの作品について「あの絵は顔面のプランが少し様式化され過ぎて居るのと、肉色に品位が乏しいのと、バックの色に深みが足りないのと、衣服の描法に生気が乏しいのとが欠点です」と4つの「欠点」を挙げ、「あの獰猛な『習作』」と呼んでいる。

彼はこの種の「習作」をさらに試みたうえ、この年の春にもっと本格的な男の等身像を描きたかったらしい。

しかし、彝自身の厳しい見方にもかかわらず、この作品は彝の全作品の中でも決して出来の悪いものではない。むしろ当時の評に見られるように、この作品は「珍しい出品で力強い確実性に富んだ佳作」であり、「その闊達な筆致と色彩が優れてよい。」

先の評で「獰猛な」と言っているのは、モデルの外見上の特徴を指しているのだろう。また「珍しい出品」とあるのは、このところ彝がいかに作品を発表していなかったかを示している。実際、彼は大正5年の第10回文展に出品(「田中館博士の肖像」と「裸体」)の後は、病状の進行によって、新しい画室で主に描いた作品は「裸体」以外、公的な展覧会には何も出品できなかったのである。

しかしこの間、彼は全く絵筆を持たなかったのではなく、大正6年頃にはアネモネを描いたと思われる「静物」(目録66)、署名のある「苺」(目録71)、セザンヌ風の斜めに走る筆触をもつリンゴを描いた「静物」(目録72)などの優れた小品があるし、大正7年には「鳥籠のある庭の一隅」を描いたり、貴重なシスレー作品の実物模写を行っている。

また大正8年も、意外な収穫期であり、同年6月の年記および漢字で「彜」の署名のある「静物」(目録80)、「静物」(目録81)、年記およびアルファベット署名のある「ダリヤの静物」(目録86)、「雉子の静物」(茨城県近代美術館蔵)等の重要な静物画、肖像画では「洲崎義郎氏の肖像」、「数藤先生の像」、プラド美術館にあるルーベンスの「三美神」の複製画からそのうちの左端の美神を簡略に模写した「裸婦立像」などを描いて裸婦像の研究も行っている。

すなわち「男の顔」が描かれるまでに、彼の画風は、一つの円熟期に向かっていた。彼の代表作「エロシェンコ氏の像」が制作されたのも、この年の9月のことである。

「男の顔」は、まさに「エロシェンコ」に先立つ彝の重要な男性肖像画であり、あらゆる感傷性や理想化を排した素描力と気迫のこもった筆力によって対象を確りと捉えた作品である。

※本文中に「目録」とあるのは日動出版『中村彝画集』(1984)における「中村彝作品目録」を指す。その番号によって作品を指示した。
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藤田嗣治「横たわる裸婦」

2015-10-08 11:59:56 | 日本美術
藤田が名声を上げたのは、第1次世界大戦が終わり、5年ぶりに復活したサロン・ドートンヌの展覧会においてであった。初めて出品した6点の作品が全部入選し、マティス、ボナール、マルケなどと同室に展示されるという華々しさであった。このころ彼はモデルのキキを知り、以後、裸婦を数多く描くようになる。

キキをモデルにした裸体画は、特徴的な乳白色の滑らかな画面により「グラン・フォン・ブラン」(素晴らしい白地)と称えられ、多くの観衆を魅了した。また彼は日本画に用いられる面相筆の細い描線で、独特のフォルムを生み出し、画家仲間を驚嘆させた。

さらに彼は色彩をあまり用いず「ぼかし」の効果ににより、他の画家がまねのできない微妙な陰影の効果をあげ、これらによって西洋の伝統的なモデリング(肉付け)に劣らない優れた芸術的効果をあげた。

このように彼の作品は描線、フォルム、色彩において全く独創的であり、その職人的技巧が、彼の芸術の質をしっかりと支えている。

茨城県近代美術館のこの作品(画像非公開のためリンクできません)は1927年作で、この年41歳になる精力あふれる時期のものである。主題は西洋の伝統を受け継いだもので、ティツィアーノからゴヤ、マネに至るまでの一連の裸婦の系譜に属するもので珍しいものではないが、その女性の肉体は非常に逞しく、あるいはミケランジェスクと言ってよいかもしれない。

ベッドのシーツや背景のカーテンのいささか煩瑣で過剰と思われる蠢くような襞が裸婦を蛹のように閉じ込めており、この作品に独特な味わいを与えている。

藤田の作品におけるこのような<過剰さ>、蠢くようなある種の<不気味さ>は、見逃すことのできない特徴であり、造形面における独創性と技巧性に加え、主題面における彼の芸術の特異さを示している。それは一種の表現主義的な芸術でもあり、20世紀のシュルレアリスムや16世紀のマニエリスムの芸術とも奇妙な親近性を持っている。

この裸体画では、強い幻想性はないが、滑らかな肉体と対比される錯綜する生命体のような有機的な襞が、不思議な世界の予兆を示すものとなっている。
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