女書生募集の新聞広告でやってきた女性の名は太田タキといった。バイオリン・ケース抱えてやってきた。バイオリンを弾き、暇さえあれば手紙を書いていた女性だという。曽宮一念や鈴木良三はこの女性のことを観察していて、良三はこの女性を27,8歳と見ている。「ヒモ」もいたという。
彝は一時「どういうわけか」、「多分ルーベンスのスリーグレーセスに刺激されて」、この女性に「すこし情欲を感じ出した」と告白している。(大正9年4月20日洲崎宛て書簡)
彝はこのことを自分の「健康にとっての一大事であり、又太田さんにとってもよくないことだ」と思い、「急いで(土田の)ばあやに来て貰う気になった。」
が、今は情欲の「そんな衝動も感じなくなり」、彼女も親切なので、土田のばあやが来られないなら、むしろ太田さんに居てもらったほうがよいとも洲崎に述べるのだった。(同上書簡)
しかし、4月28日の洲崎宛て書簡では、「神田のヲバサンが来ている」との重要な記述が見られる。
神田のおばさんとは岡崎キイにほかならないと考えられるから、病気療養にあった彼女は遅くともこのころまでに彝のところに戻って来たとしてよいはずだが、この事実は年譜作成者にきちんと認識されていない。
「太田さん」が彝のところにいたのはせいぜい4月末までだ。実は彼女、「婦婿の医師からも盛んに帰れ」と言われていたようだったのだ。(4月23に書簡)
(※良三が言う彼女のヒモとはこの医師だったのかもしれない。わざわざ婦婿の、と言っているからだ。)
おそらくキイは、太田嬢が彝のそばにいるのはよくないことだと察知して、彼女を追い出したのだろう。
そのため彝とケンカしたのかどうか、5月末に「吐気と動悸がひどくなって」キイはまた神田に帰ってしまった。(5月30日書簡)
そして彝は自炊生活に入るのである。
(※よく使われているある詳細な年譜には、土田トウが4月の末から5月の末まで3度目の上京をして彝の面倒を見ていたように書いてあるが、この期間は本稿で見たとおりキイが戻っているのだから、これはあり得ない。「ばあや」とか「おばさん」とか紛らわしいので、年譜作者がその典拠としている書簡の読みに混乱が起こっているのではないか。)
大正9年5月3日の書簡では塩井雨江の40歳を過ぎた独身娘「塩井さん」のことが話題になっている。
そして、6月28日書簡には、19歳の「非常に美しい少女」のことが、洲崎に報告されている。
「私を愛して、10月に学校を卒業したら早速僕のところに来て、僕の世話をしたり、僕のモデルになったりして上げ度いと言ってくれるのです。」
「肉体や顔立ちは豊満無類で、…私の趣味に実によくかなったタイプの女性です。」
そして彼はまたもやその顔立ちにレンブラントの「サスキヤ」やルーベンスの「ヘレン」を想像するのだった。
「今度こそこの人をモデルにしてほんとに立派な制作が出来そうな気で居るのですが、然し私が最も恐れるのは、私の心に恋心の燃え初めることです。」
彝の書簡で「例の少女」と呼ばれるこの女性は、実は太田タキの従妹だったらしい。
しかし、8月18日の洲崎宛て書簡を読むと、「例の少女が又しても周囲の反対と僕自身の病的な情熱に脅かされて僕から離れることになりました」と書くことになるのである。
こうして見てくると、大正9年6月下旬から8月中旬までの間、彝の心を占め、彼が「モデル」として描きたかったのは、この少女だったのかもしれない。
彝は一時「どういうわけか」、「多分ルーベンスのスリーグレーセスに刺激されて」、この女性に「すこし情欲を感じ出した」と告白している。(大正9年4月20日洲崎宛て書簡)
彝はこのことを自分の「健康にとっての一大事であり、又太田さんにとってもよくないことだ」と思い、「急いで(土田の)ばあやに来て貰う気になった。」
が、今は情欲の「そんな衝動も感じなくなり」、彼女も親切なので、土田のばあやが来られないなら、むしろ太田さんに居てもらったほうがよいとも洲崎に述べるのだった。(同上書簡)
しかし、4月28日の洲崎宛て書簡では、「神田のヲバサンが来ている」との重要な記述が見られる。
神田のおばさんとは岡崎キイにほかならないと考えられるから、病気療養にあった彼女は遅くともこのころまでに彝のところに戻って来たとしてよいはずだが、この事実は年譜作成者にきちんと認識されていない。
「太田さん」が彝のところにいたのはせいぜい4月末までだ。実は彼女、「婦婿の医師からも盛んに帰れ」と言われていたようだったのだ。(4月23に書簡)
(※良三が言う彼女のヒモとはこの医師だったのかもしれない。わざわざ婦婿の、と言っているからだ。)
おそらくキイは、太田嬢が彝のそばにいるのはよくないことだと察知して、彼女を追い出したのだろう。
そのため彝とケンカしたのかどうか、5月末に「吐気と動悸がひどくなって」キイはまた神田に帰ってしまった。(5月30日書簡)
そして彝は自炊生活に入るのである。
(※よく使われているある詳細な年譜には、土田トウが4月の末から5月の末まで3度目の上京をして彝の面倒を見ていたように書いてあるが、この期間は本稿で見たとおりキイが戻っているのだから、これはあり得ない。「ばあや」とか「おばさん」とか紛らわしいので、年譜作者がその典拠としている書簡の読みに混乱が起こっているのではないか。)
大正9年5月3日の書簡では塩井雨江の40歳を過ぎた独身娘「塩井さん」のことが話題になっている。
そして、6月28日書簡には、19歳の「非常に美しい少女」のことが、洲崎に報告されている。
「私を愛して、10月に学校を卒業したら早速僕のところに来て、僕の世話をしたり、僕のモデルになったりして上げ度いと言ってくれるのです。」
「肉体や顔立ちは豊満無類で、…私の趣味に実によくかなったタイプの女性です。」
そして彼はまたもやその顔立ちにレンブラントの「サスキヤ」やルーベンスの「ヘレン」を想像するのだった。
「今度こそこの人をモデルにしてほんとに立派な制作が出来そうな気で居るのですが、然し私が最も恐れるのは、私の心に恋心の燃え初めることです。」
彝の書簡で「例の少女」と呼ばれるこの女性は、実は太田タキの従妹だったらしい。
しかし、8月18日の洲崎宛て書簡を読むと、「例の少女が又しても周囲の反対と僕自身の病的な情熱に脅かされて僕から離れることになりました」と書くことになるのである。
こうして見てくると、大正9年6月下旬から8月中旬までの間、彝の心を占め、彼が「モデル」として描きたかったのは、この少女だったのかもしれない。