美術の学芸ノート

中村彝などを中心に近代日本美術、印象派などの西洋美術の他、独言やメモなど。

安野光雅の世界(8)

2016-01-27 16:37:41 | 日本美術
安野の作画スタイル、画像、描法などには様々な要素が見られる。童画的、イラスト的、細密画的、淡彩スケッチ的、没骨彩色的、きりがみ的、タロット的、漫画的、浮世絵的、大和絵的、トリック・アート的、その他、引用やパロディ的要素など、非常に多岐にわたる。

これらは、氏の作画全体において目立った要素を思いつくまま列挙したもので、作家の個人様式とは異なる。

作家の個人様式は、同種の作品にあっても、その制作年代によって当然変化するが、安野の場合、それ以上に作品である絵本の内容、性格、対象年齢などによっても、かなり激しく変動するので、実際上、氏の個人様式の展開を把握するのは、容易なことではない。

安野が絵本のために制作する絵(原画)は、個々の作品(絵本)の内容、および作品のジャンル(絵本、画文集、風景画文集、装丁・挿画・カット、ポスター、イラストレーション)などにより、同時期の作品においても、異なって現れてくる場合が多い。

作者は、想定される読者の対象年齢や筋書きの内容などに応じて様々な要素から主要なものを直観的に選んだり、幾つかの要素を作家としての本能に従いながら複合させ、描いていくのだろう。
しかし、シリーズ作品などにおいて、すでに先行する作画スタイルのあるものは、そのスタイルを踏襲することも多い。

例えば『旅の絵本』シリーズは、基本的に同じ作画スタイルと構成で描かれており、童画的・イラスト的・淡彩スケッチ的・引用的・あそび絵的などの要素が総合された安野様式となっている。

『ABCの絵本』や『あいうえおの絵本』には細密画的な要素が主要なものとなり、童画的・イラスト的な要素が若干加わる。また、しばしば安野作品に見られる装飾的なスタイルが各ページを縁取っている。木製文字には、トリック・アート的な要素も見られる。

<風景画文集>のスタイルは、その実景を描く性格からして、専ら生真面目な淡彩スケッチ的要素が単発的に前面に出たものとなる。水彩によるいわゆる「淡い色調」の安野様式の典型は、このジャンルにおいて見られる。

しかし、一方で様々な深読みができる筋書きや内容をもちながらも、他方で読者の対象年齢が非常に異なって想定されることもある<絵本>や<画文集>においては、個々の作品に応じて、強調される作画スタイルの要素も当然異なってくる。

時には、漫画的なキャラクターを取り入れて作画しているものもある。また、『繪本シェイクスピア劇場』(松岡和子・文)などの作品を見ると、透明水彩的な効果ばかりでなく、グワッシュ(不透明水彩)、またはそれ以上の厚塗り的な技法も一部の原画や原画の一部分に駆使されている。

<絵本>、<画文集>、<風景画文集>の仕事は、当然、絵によって表現されたものが不可欠であり、絵がなければ、これらのジャンルは成立しない。
しかし、その絵は、言葉を伴って、もしくは全く伴わないか、極端に制限されて、「本」という形態で多くの人々の目に触れるようになった。

つまり、これらは、「作品」が、まず何よりも複製出版物の「本」なのである。

<絵本>、<画文集>、<風景画文集>などにおける「絵」の部分は、「原画」として、近年、美術館などにおいて、多くの人々の前にその姿を見せるようになった。
その中には『繪本平家物語』のように、大和絵的な「原画」部分において、絹本彩色の技法で挑戦したものもある。こうして、ようやく画家・安野光雅が前面に登場してきた。

安野作品における<絵本>、<画文集>、<風景画文集>、これらは順次、「絵」と「文」とが次第に一体的なものからそれぞれが独立的な傾向を帯びてくるものとしても捉えることができる。

このうち<絵本>は、「絵」と「文」とがもとより分かちがたく一体化したものであると考えられる。これは、「挿し絵」入りの本とは明らかに違う。「挿し絵」入りの本は、その「挿し絵」を取り除いても、作品として成り立ちうる場合が多いが、<絵本>は、複製された「絵」ではあるけれども、それがなければ「作品」としては成立しない。

従って<絵本>の中の「絵」または「文」だけを独立して取出し、鑑賞するのは、必ずしも望ましいことではない。特に多くの安野作品のように「絵」と「文」の作者が同一の場合は、「絵」と「文」とはいっそう密接したものと考えられる。

<絵本>における「絵」と「文」との切り離しが許されるのは、すでに<絵本>に親しんでいる読者が、「原画」の鑑賞者として想定される場合であろう。

しかしながら、安野作品の<画文集>や<風景画文集>では、当初「本」という形式で発表されたものであっても、「絵」の部分が、もとより、その「エッセー」部分から独立的に、もしくは実際上独立して制作されたものも多くあると思われるから、そうしたものは、単独の絵画作品として鑑賞することも許される。「エッセー」部分の方も同様である。
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1月26日(火)のつぶやき

2016-01-27 03:27:30 | 日々の呟き

マスコミで35年働いてきた。今まで学生さんなどから「報道への政府圧力とかあるんですか?」なんて質問されても「あー無い無い、そんなすごい取材してる記者もいない」と笑ってきたが、昨年から「あります。大した記事でもないのに、間違いなくある」に回答を変更する羽目になるとは思わなかった。

Riki67さんがリツイート | 6429 RT

今日の新聞に二松学舎大が漱石の殆んど知られていない屏風を購入(写真)と出ていた。これと同じ漢詩文からの画賛を持つ作品が茨城県近代美術館にある。 pic.twitter.com/bbXt8tJGDJ

1 件 リツイートされました

二松学舎大が漱石の屏風を購入したと本日26日の新聞に出ていた。これと同じ漢詩文から画賛をとった小川芋銭の作品が茨城県近代美術館にある。ここに芋銭のその画像がリンクされている。 goo.gl/bhTr3b


漱石のこの屏風と同じ漢詩文からとった画賛をもつ小川芋銭の作品が茨城県近代美術館にある。 twitter.com/mainichiphoto/…

1 件 リツイートされました

スキンヘッド元県議は頭を野々村にしており、法廷にどよめき。 の認知的解析。 lineblog.me/mogikenichiro/…

Riki67さんがリツイート | 110 RT

@ARTEfr @kwd16 @museodelprado
こんな可愛いロケットなら日本まで飛んできてもOKです。
Cette petite fusee, toujours la bienvenue au Japon!


@kmzwhrs @G_Shincho
レンブラントのこのヤン シックスの肖像は好きな作品だ。
ここに見られる片手だけ手袋をしている肖像画のポーズというのは、他の画家の肖像画にも見られるが、どの辺からの伝統なのだろう?


芥川賞の滝口悠生さんが言っている。
「こう書けば褒められる、という誘惑は常にある。しかし小説は、読者に応じるものではなく、常に読者に呼びかける側にあるべきだ。」


芥川賞の奥泉選考委員が今日の新聞で言っている。
「芥川賞は傍若無人に他の賞の受賞作も候補にする。他の賞は芥川賞受賞作を候補にしないが、してもいいのではないか。そうしないと、いつまでも芥川賞だけが偉いように映ってしまう。」


直木賞の宮城谷昌光選考委員の言葉。次点となった宮下さんの作品について。「司馬遼太郎さんは自己に執着した人が書く作品が芥川賞の純文学であり、社会や他者との関係に目を向けたものが直木賞だとおっしゃった。ならば宮下さんの作品は芥川賞(候補の方)でしょう」だが芥川賞候補だったら、、、


@tikarato
宮下さんの作品がもし芥川賞候補だったら、
「なめらかでトゲが少ない作品なので、案外スルーされてしまうかもしれない。だから直木賞で受け止めてあげたかった」
以上、宮城谷昌光選考委員の言葉、今日の読売「記者ノート」から


文字で読むと比較的易しいフランス語とされている。ドビュッシーの音楽は、昔、遠山一行さんが、最大限に評価していたのでCDを買ったことがある。 twitter.com/ayagonmail/sta…


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夏目漱石の屏風と小川芋銭の「長沙散歩」

2016-01-26 13:17:50 | 小川芋銭
今日(2016年1月26日)の読売新聞に漱石直筆の「ほとんど知られていない」屏風が二松学舎大に購入されたと出ていた。それでこれと同じ詩文の賛がある小川芋銭の作品長沙散歩が茨城県近代美術館にあるのでリンクして紹介しておく。

漱石と芋銭の関係と言えば『三愚集』(明治45年)がよく知られている。
がこの屏風でさらにもう一つの繋がりが見つかったことになるかもしれない。

ただし、芋銭の作品は昭和10年の作だ。また漱石(大正5年没)のこの屏風は晩年の揮毫と推定されている。

漱石のこの屏風と芋銭の「長沙散歩」は20年の隔たりがあるが、二人の芸術家が以前から互いに通じ合う自然観を持っていたことを探るのも興味深い。

以上、簡単なとりあえずのメモである。
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1月25日(月)のつぶやき

2016-01-26 03:28:09 | 日々の呟き

ブログにおけるTwitterのまとめ記事では、Twitterの脱字や間違いを訂正できるのでありがたい。


続)フェルメール作品32点、帰属微妙な4点についての小林頼子氏解説は個人的に痛快。青野純子氏によるフェルメールの後の時代の風俗画に関する記事は読み甲斐あり。

Riki67さんがリツイート | 2 RT

●努力よりほかにわれわれの未来をよくするものはなく、また努力よりほかにわれわれの過去を美しくするものはないのである ~ 幸田露伴

Riki67さんがリツイート | 1 RT

偽善も善のうち、下品も品のうち、性愛も愛のうち、それらの事は世の常だ。それに、偽善が善に昇華し、下品の中から品性が生まれ、性愛から始まった関係が本物の愛に変わった例に幾度も遭遇した。人生は心がちぎれそうなぐらい辛い事が起きるけれど、やはりこの世は素晴らしいところだと思いたい。

Riki67さんがリツイート | 1539 RT

A shamsa (literally, sun) traditionally opened imperial Mughal albums. met.org/1MkgqZA pic.twitter.com/7JL4lthFz5

Riki67さんがリツイート | 139 RT

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安野光雅の世界(7)

2016-01-25 15:31:51 | 日本美術
安野光雅は、確かに絵本作家としてデビューし、多くの人々に知られるようになった。しかし、氏の作品には、比較的初期の時点から幼児や子供向けのいわゆる<絵本>とは違う要素や性格も見られた。

もちろん、初期作品では、絵のスタイルそのものが子供向けに配慮されている面が目立っている。しかし、幼児や子供を楽しませると同時に、大人がそれを覗いてみた場合、文学的な感興や美術的な創意、もしくは、様々な知的・教育的関心からも新鮮な驚きをもって迎えられるように工夫されていた。

むしろ、氏の作品は、早い時点から成人の読者をも強く意識し、幼児や子供向けの<絵本>という概念を超えていたのではなかろうか。

実際、氏の作品では、絵と同時に、絵に添えられた氏のエッセーにこそ強い魅力を感じた人も多かったに違いない。可憐なタイトルとファンタジーを伴った写生的な植物画、それらとはやや不釣合いなほどの先鋭なエッセーを添えた『野の花と小人たち』(昭和51年)も、比較的初期のこうした作品であろう。

また、一見したところ、これよりも、いっそう幼児向けに見える、筋書きや物語性のある『きつねのざんげ』(昭和54年)にしてもそうである。これを幼児向けの絵本として読むと、かなりの驚きを禁じえない。

『きつねのざんげ』、この作品において人間は、狐にとっての理想像である「偉大な偽善者」と見做されており、筋書きにはメス狐も登場させ、若干のペーソスも絡ませるが、狐の独白全体には非常にアイロニカルな言い回しが目立つ。

この<絵本>の最後で、狐が「え? 私の名前 それだけはどうか おきき下さいますな」と言っているが、このせりふに「なぜなら、それは私自身だから」という作者の、あるいはそれ以上に、人間一般や読者自身の「伝記的」な意味が含まれていると読まねばならないのなら、この作品のアイロニーは、なお一層苦い。

幼い子供向け<絵本>としては、もはや限界に達しているようにすら思われる。しかし、絵そのものには、童画風なものや、色彩の滲みが美しい効果を見せる風景場面が展開され、これが、きつねの独白に見られるあざとい皮肉な調子を救っている。

絵は、安野作品において好まれる冒頭部と終結部とがシンメトリカルに呼応する構成となっており、小川芋銭の狐に関連したある種の作品を思わせるような広漠たる神秘的な風景場面に始まり、主要な筋書きの展開部を経て、また何事もなかったように最初の反転画像である神秘的で広漠たる風景場面に戻って行くことで終わる。

この反転画像の効果は、ここでは特に大きく、実は「何事もなかったように」ではなく、実際には「もはや世界が反転してしまった」ということも暗示しているように読める。

一方、上記のような成人までを対象とした作品には、『旅の絵本』シリーズのように、全く文章に訴えないで、楽しく絵そのものを俯瞰的に追っていくものがある。これは、まさに絵だけの<絵本>であるが、もちろん「画集」ではない。

むしろ「絵巻物」を本の体裁にしたもの、画巻として現代の読者に提供した複製出版物、あるいは独自な形式による文字ガイドなき観光ガイドともなっている。

時々、あそび絵的な要素や、クイズ、謎解き的な画像も織り込まれているから、氏の作品にすでに親しい読者は、その問いそのものを探し、自ら答えながら進むという楽しみ方もある。

さらに、安野の作品には、『津和野』や『安曇野』、そして外国ものでは『オランダの花』、『スイスの谷』、『ドイツの森』、『イタリアの陽ざし』などのように、ほとんど隠し絵やあそび絵的な要素を含ませないで、専ら実景を淡彩で描いた国内外の風景画スケッチと氏自身のエッセーとを組み合わせた分野があって、これは、<風景画文集>と呼ばれることがある。

淡彩による実景のスケッチとエッセーとを組み合わせたものでなく、それ以外の、空想的な要素も交えた写生画、文学作品などの諸場面に関連して描かれた絵、視覚的なトリックを組み込んだ絵などと氏自身のエッセーとを組み合わせた作品も多く、これは、<画文集>という、より包括的な言葉で分類される。

すなわち、『野の花と小人たち』から『絵本即興詩人』などに至るまでの各種の広範な作品がこれに相当する。

さて、最も広範な意味での<絵本>という言葉には、いわゆる幼児・子供向けの<絵本>のほか<画文集>や<風景画文集>までをも含むことができるが、単に<絵本>と言えば、今日では、やはり主に幼児・子供向けの<絵本>を指すことが多い。

しかし、安野の作品において、幼児あるいは子供向けの<絵本>にも、筋書きや物語性のある文学的な<絵本>や、それらの要素が比較的少ない「数」、「ことば」、「うた」、「科学」などに関連した教育的な<絵本>もある。

また、先に触れた『旅の絵本』シリーズのように、あそび絵的要素もあって、成人まで対象にした<文字のない絵本>もあるし、『きつねのざんげ』のように物語性のあるむしろ成人向けの絵本もある。

このように安野作品の場合、<画文集>、<風景画文集>とも区別される<絵本>だけでも多様な世界があることが分かる。
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