安野光雅は、確かに絵本作家としてデビューし、多くの人々に知られるようになった。しかし、氏の作品には、比較的初期の時点から幼児や子供向けのいわゆる<絵本>とは違う要素や性格も見られた。
もちろん、初期作品では、絵のスタイルそのものが子供向けに配慮されている面が目立っている。しかし、幼児や子供を楽しませると同時に、大人がそれを覗いてみた場合、文学的な感興や美術的な創意、もしくは、様々な知的・教育的関心からも新鮮な驚きをもって迎えられるように工夫されていた。
むしろ、氏の作品は、早い時点から成人の読者をも強く意識し、幼児や子供向けの<絵本>という概念を超えていたのではなかろうか。
実際、氏の作品では、絵と同時に、絵に添えられた氏のエッセーにこそ強い魅力を感じた人も多かったに違いない。可憐なタイトルとファンタジーを伴った写生的な植物画、それらとはやや不釣合いなほどの先鋭なエッセーを添えた『野の花と小人たち』(昭和51年)も、比較的初期のこうした作品であろう。
また、一見したところ、これよりも、いっそう幼児向けに見える、筋書きや物語性のある『きつねのざんげ』(昭和54年)にしてもそうである。これを幼児向けの絵本として読むと、かなりの驚きを禁じえない。
『きつねのざんげ』、この作品において人間は、狐にとっての理想像である「偉大な偽善者」と見做されており、筋書きにはメス狐も登場させ、若干のペーソスも絡ませるが、狐の独白全体には非常にアイロニカルな言い回しが目立つ。
この<絵本>の最後で、狐が「え? 私の名前 それだけはどうか おきき下さいますな」と言っているが、このせりふに「なぜなら、それは私自身だから」という作者の、あるいはそれ以上に、人間一般や読者自身の「伝記的」な意味が含まれていると読まねばならないのなら、この作品のアイロニーは、なお一層苦い。
幼い子供向け<絵本>としては、もはや限界に達しているようにすら思われる。しかし、絵そのものには、童画風なものや、色彩の滲みが美しい効果を見せる風景場面が展開され、これが、きつねの独白に見られるあざとい皮肉な調子を救っている。
絵は、安野作品において好まれる冒頭部と終結部とがシンメトリカルに呼応する構成となっており、小川芋銭の狐に関連したある種の作品を思わせるような広漠たる神秘的な風景場面に始まり、主要な筋書きの展開部を経て、また何事もなかったように最初の反転画像である神秘的で広漠たる風景場面に戻って行くことで終わる。
この反転画像の効果は、ここでは特に大きく、実は「何事もなかったように」ではなく、実際には「もはや世界が反転してしまった」ということも暗示しているように読める。
一方、上記のような成人までを対象とした作品には、『旅の絵本』シリーズのように、全く文章に訴えないで、楽しく絵そのものを俯瞰的に追っていくものがある。これは、まさに絵だけの<絵本>であるが、もちろん「画集」ではない。
むしろ「絵巻物」を本の体裁にしたもの、画巻として現代の読者に提供した複製出版物、あるいは独自な形式による文字ガイドなき観光ガイドともなっている。
時々、あそび絵的な要素や、クイズ、謎解き的な画像も織り込まれているから、氏の作品にすでに親しい読者は、その問いそのものを探し、自ら答えながら進むという楽しみ方もある。
さらに、安野の作品には、『津和野』や『安曇野』、そして外国ものでは『オランダの花』、『スイスの谷』、『ドイツの森』、『イタリアの陽ざし』などのように、ほとんど隠し絵やあそび絵的な要素を含ませないで、専ら実景を淡彩で描いた国内外の風景画スケッチと氏自身のエッセーとを組み合わせた分野があって、これは、<風景画文集>と呼ばれることがある。
淡彩による実景のスケッチとエッセーとを組み合わせたものでなく、それ以外の、空想的な要素も交えた写生画、文学作品などの諸場面に関連して描かれた絵、視覚的なトリックを組み込んだ絵などと氏自身のエッセーとを組み合わせた作品も多く、これは、<画文集>という、より包括的な言葉で分類される。
すなわち、『野の花と小人たち』から『絵本即興詩人』などに至るまでの各種の広範な作品がこれに相当する。
さて、最も広範な意味での<絵本>という言葉には、いわゆる幼児・子供向けの<絵本>のほか<画文集>や<風景画文集>までをも含むことができるが、単に<絵本>と言えば、今日では、やはり主に幼児・子供向けの<絵本>を指すことが多い。
しかし、安野の作品において、幼児あるいは子供向けの<絵本>にも、筋書きや物語性のある文学的な<絵本>や、それらの要素が比較的少ない「数」、「ことば」、「うた」、「科学」などに関連した教育的な<絵本>もある。
また、先に触れた『旅の絵本』シリーズのように、あそび絵的要素もあって、成人まで対象にした<文字のない絵本>もあるし、『きつねのざんげ』のように物語性のあるむしろ成人向けの絵本もある。
このように安野作品の場合、<画文集>、<風景画文集>とも区別される<絵本>だけでも多様な世界があることが分かる。
もちろん、初期作品では、絵のスタイルそのものが子供向けに配慮されている面が目立っている。しかし、幼児や子供を楽しませると同時に、大人がそれを覗いてみた場合、文学的な感興や美術的な創意、もしくは、様々な知的・教育的関心からも新鮮な驚きをもって迎えられるように工夫されていた。
むしろ、氏の作品は、早い時点から成人の読者をも強く意識し、幼児や子供向けの<絵本>という概念を超えていたのではなかろうか。
実際、氏の作品では、絵と同時に、絵に添えられた氏のエッセーにこそ強い魅力を感じた人も多かったに違いない。可憐なタイトルとファンタジーを伴った写生的な植物画、それらとはやや不釣合いなほどの先鋭なエッセーを添えた『野の花と小人たち』(昭和51年)も、比較的初期のこうした作品であろう。
また、一見したところ、これよりも、いっそう幼児向けに見える、筋書きや物語性のある『きつねのざんげ』(昭和54年)にしてもそうである。これを幼児向けの絵本として読むと、かなりの驚きを禁じえない。
『きつねのざんげ』、この作品において人間は、狐にとっての理想像である「偉大な偽善者」と見做されており、筋書きにはメス狐も登場させ、若干のペーソスも絡ませるが、狐の独白全体には非常にアイロニカルな言い回しが目立つ。
この<絵本>の最後で、狐が「え? 私の名前 それだけはどうか おきき下さいますな」と言っているが、このせりふに「なぜなら、それは私自身だから」という作者の、あるいはそれ以上に、人間一般や読者自身の「伝記的」な意味が含まれていると読まねばならないのなら、この作品のアイロニーは、なお一層苦い。
幼い子供向け<絵本>としては、もはや限界に達しているようにすら思われる。しかし、絵そのものには、童画風なものや、色彩の滲みが美しい効果を見せる風景場面が展開され、これが、きつねの独白に見られるあざとい皮肉な調子を救っている。
絵は、安野作品において好まれる冒頭部と終結部とがシンメトリカルに呼応する構成となっており、小川芋銭の狐に関連したある種の作品を思わせるような広漠たる神秘的な風景場面に始まり、主要な筋書きの展開部を経て、また何事もなかったように最初の反転画像である神秘的で広漠たる風景場面に戻って行くことで終わる。
この反転画像の効果は、ここでは特に大きく、実は「何事もなかったように」ではなく、実際には「もはや世界が反転してしまった」ということも暗示しているように読める。
一方、上記のような成人までを対象とした作品には、『旅の絵本』シリーズのように、全く文章に訴えないで、楽しく絵そのものを俯瞰的に追っていくものがある。これは、まさに絵だけの<絵本>であるが、もちろん「画集」ではない。
むしろ「絵巻物」を本の体裁にしたもの、画巻として現代の読者に提供した複製出版物、あるいは独自な形式による文字ガイドなき観光ガイドともなっている。
時々、あそび絵的な要素や、クイズ、謎解き的な画像も織り込まれているから、氏の作品にすでに親しい読者は、その問いそのものを探し、自ら答えながら進むという楽しみ方もある。
さらに、安野の作品には、『津和野』や『安曇野』、そして外国ものでは『オランダの花』、『スイスの谷』、『ドイツの森』、『イタリアの陽ざし』などのように、ほとんど隠し絵やあそび絵的な要素を含ませないで、専ら実景を淡彩で描いた国内外の風景画スケッチと氏自身のエッセーとを組み合わせた分野があって、これは、<風景画文集>と呼ばれることがある。
淡彩による実景のスケッチとエッセーとを組み合わせたものでなく、それ以外の、空想的な要素も交えた写生画、文学作品などの諸場面に関連して描かれた絵、視覚的なトリックを組み込んだ絵などと氏自身のエッセーとを組み合わせた作品も多く、これは、<画文集>という、より包括的な言葉で分類される。
すなわち、『野の花と小人たち』から『絵本即興詩人』などに至るまでの各種の広範な作品がこれに相当する。
さて、最も広範な意味での<絵本>という言葉には、いわゆる幼児・子供向けの<絵本>のほか<画文集>や<風景画文集>までをも含むことができるが、単に<絵本>と言えば、今日では、やはり主に幼児・子供向けの<絵本>を指すことが多い。
しかし、安野の作品において、幼児あるいは子供向けの<絵本>にも、筋書きや物語性のある文学的な<絵本>や、それらの要素が比較的少ない「数」、「ことば」、「うた」、「科学」などに関連した教育的な<絵本>もある。
また、先に触れた『旅の絵本』シリーズのように、あそび絵的要素もあって、成人まで対象にした<文字のない絵本>もあるし、『きつねのざんげ』のように物語性のあるむしろ成人向けの絵本もある。
このように安野作品の場合、<画文集>、<風景画文集>とも区別される<絵本>だけでも多様な世界があることが分かる。