芸術家としてはあまり人々に認められず、無念の思いの中に死んでいった青木繁。その心中がよく窺える病床からの手紙。
「…致方なく当病院へ入院の身と相成申候。
…小生も今度はとても生きて此病院の門を出る事とは期し居らず深く覚悟致居候に付、今の中に皆様へ是迄の不孝不悌の罪を謝し、併せて小生死後のなきがらの始末に付一言お願申上候。
小生も是迄如何に志望の為とは言ひ乍ら皆々へ心配をかけ苦労をかけて未だ志成らず業見はれずして茲に定命尽くる事、如何ばかりか口惜しく残念には候なれど、諦めれば是も前世よりの因縁にて有之べく、小生が苦しみ抜きたる十数年の生涯も技能も光輝なく水の泡と消え候も、是不幸なる小生が宿世の為劫にてや候べき。されば是等の事に就ては最早言ふ可き事も候はず。唯残るは死骸にて是は御身達にて引取くれずば致方なく、小生は死に逝く身故跡の事は知らず候故よろしく頼み上候。火葬料位は必ず枕の下に入れて置き候に付…骨灰は序の節高良山の奥のケシケシ山の松樹の根に埋めて被下度、小生は彼の山のさみしき頂より思出多き筑紫平野を眺めて此世の怨恨と憤懣と呪咀とを捨てて静かに永遠の平安なる眠りに就く可く候…」
青木繁、明治44年3月22日危篤、3月24日没。
註:「見はれずして」の「見」は「現」と同じ意味で、「あら」と読む。もとより原文を「現」と読んでいる人もいるが、ここではブログ筆者である私の古いノートからのメモをそのまま載せておく。