美術の学芸ノート

中村彝、小川芋銭などの美術を中心に近代の日本美術、印象派などの西洋美術。美術の真贋問題。広く呟きやメモなどを記します。

中村彝の書簡から見た相馬俊子との恋愛(1)

2016-03-21 20:24:09 | 中村彝
中村彝が新宿中村屋の娘相馬俊子と恋愛関係にあったことはよく知られている。

が、この二人の関係をめぐり、彝の大島滞在(大正3年12月から翌年3月まで)以前に相馬家との破局があって、それで彼の大島行となり、大島行は自殺のためとされている解説文を時折見かけるが、これは正確ではない。

確かに相馬俊子との間にというよりも彝と相馬家との間にはすでに大島行以前に葛藤が生じていた。

とはいえ彼は大正3年12月に相馬家の幼児哲子の名付け親となっているし、大島から帰ってきてから哲子を描いてもいるのである(この子は大正4年の12月に亡くなってしまう)。

こうした関係は保たれていたから、おそらく大島行以前にはまだ決定的な破局には至っていなかったと推測される。

もっと重要な破局が訪れたのは明らかに大島行以降の大正4年の8月ごろ、彝が「あの悲惨な爆発」と言っていることが生じてからのことだろう。

もちろん大島行以前にも葛藤があったことは、彝が「一度周囲に敗北して心の安定を失つたものはこんな風に宇宙のどこへ行つても住むべき処がないのでせうか?どこへ行っても駄目なのでせうか」と大島から大正4年3月に支援者の中村春二に書いていることからも確かめ得る。

しかし彼が大島に行ったのは、「死ぬつもりで」と画友に後年洩らしたとしても、それは必ずしも「自殺するため」とか「死ぬため」とまでは言えない。

そもそも彼は大島に行くのに初めから絵具箱を携行していたし、大正4年の元旦に大島から伊藤隆三郎に出した手紙でも、伊藤からの金を受け取り、「絵は今にきつと送ってあげます」と明確にそこで絵を描いて送ることを約束しているのだ。

そして呼吸器患者に大島はよくないと承知の上で彼は行ったのだった。

だから「死ぬつもりで」とは、明確な意図があっての「自殺」のためではなく、「死を覚悟して」、「必死の思いで、病を押して」というほどの意味にも解せる。実際、彼は大島で感冒、発熱、喀血に見舞われてしまった。

それに大島での彼の実際の行動を見ても、自らの死を模索するのではなく、かえって悩める青年を救い、何とか絵を描き、彝の最も早くからの親友多湖実輝にはそこから出した絵葉書に戯言とも読める内容を書き送っている(大正4年3月19日)ほどなのである。

 向かって左に立つてるのが有名な大島の××アンコだ。・・・
(××アンコは)・・・歌にまでうたわれただけあつて中々肉惑的な顔をして居る。風邪がなおつたら三原山は兎に角として片ッ方の方だけにでも上つて置かッと思つて居たのだが病気の方が忙しくてその閑がない。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする