「太平洋は九日までですから早く御上京なさらないと閉会して了ひます。ルノアールは是非見て置く必要があります。」
このルノワールこそが、特別出品された大原家所蔵の「泉による女」(1914年作)である。
書簡の文面から彝はこの作品を明らかに見ていたと考えてよいだろう。まだルノワール存命中の、当時の日本ではめったに見られないこの画家の最新作と言ってもよい作品だった。
この作ついては伊豆大島から同年3月に出した彝の書簡でもすでに「今度の太平洋展覧会にルノアールが出品される相ですから、それも是非見度ひし、風邪がなほつたらすぐにも東京へ帰り度く思つて居ります」と触れている。
こちらの書簡は中村春二宛てのもので、この中で彝は「○○君はその後如何ですか。一時発狂したとも言ふ噂がありましたがその後よくなつたのでせうか。今村様にも丸で手紙を書きませんからどうぞ宜しく御伝言を願ひます」と認(したた)めている。
『藝術の無限感』で○○君と伏字になっているこの○○君とは、中村春二(成蹊の校長で今村と彝との仲介の役を果たしていた人物)の息子秋一の「彝の手紙」によれば、近藤芳雄のことであり、この中村家に近藤作品もかつてあったことが知られるのである。
ちなみに近藤は大正元年12月、中村春二の成蹊実務学校で開かれたコカゲ洋画展覧会において中沢弘光、山本森之助、三宅克己、彝、相田直彦らとともに小品を展示したことがあった。
さて、ここで思い出されるのは約1年後の大正5年4月28日の彝の手紙である。
そこに書いてある「発狂自殺」した彝の友人、この手紙ではこれが誰なのか書いていないが、前年の春の中村春二宛て上記書簡から、この友人が近藤のことではないかと推測されるのである。
それほど彝と親しかったとも思われない近藤の自殺が、彝に強い衝撃を与えたのはどうしてだろう。
それは、近藤が彝と同じ肺の病を抱えて、同様に今村から援助を受けていた画家仲間であり、しかもその原因も今まさに彝自身が悩んでいた「恋愛」問題にあったからではなかろうか。彝は大正5年4月28日の書簡で近藤の自殺の原因をそう述べている。
しかも彝自身、大正4年の夏ごろには俊子との恋愛問題において、危うく周囲から狂人視されていたことがあるからと言ってもよいかもしれない。
それに近藤自身も自ら命を絶ったとはいえ、本当に発狂していたのかどうか、単に外面的にそう見えたのか、それは分からない。
人の精神や内面はそう簡単には定義付けできないだろう。そういう人の内面を知っている彝だからこそ、近藤の自殺の衝撃を深く受け止めたのではなかろうか。