気になる写真!

このブログはその時々の好奇心で、気になった被写体を切り取り、・・・チョットだけ考えてみようと

最後の晩餐の後、ミラノを離れる

2020-07-07 | アート・文化

スフォルツェスコ城の正面から西南西に約1.5㎞、サンタ・マリア・デッレ・グラッツィエ教会があります。

隣のドミニコ会修道院の食堂で奇跡的に戦火から残った壁画「最後の晩餐」は、1980年イタリアで2番目にユネスコ世界遺産として登録されました。

風雲急を告げ始めたミラノで、レオナルド・ダ・ヴィンチが1495年に描き始め、1498年初頭に完成とありますが、披露パーティの記録は?・・・。

(the world of leonardo  TIME LIFE LIBRAARY OF ART の画像に、売店で購入の画集を合成)

食堂は南北に縦長で、南の壁を背にして修道院長が座り、その目前はテーブルが縦に並び、皆さんが向かい合う形のようです。

その列の向こう側には、こちら向きに、キリストと12使徒が一緒に食事をしている。

(フランチェスカ・ロメイ作、セルジオ、アンドレア・リッチャルディ絵 レオナルド・ダ・ヴィンチより)

キリストの目線の高さを床から4~4.5mの高い位置に上げた最後の晩餐会場は、奥行きを傾斜させ食卓のテーブル上面が見えるように描かれている。

この結果、キリストがパンと葡萄酒を鑑賞者側に差し出していて、食事の空間は、こちら側の食堂と一体となった錯覚を覚える。

(レオナルド・ダ・ヴィンチ/ウォルター・アイザックソンより)・・・内部が明るく、話ができた大昔の風景

このように、壁画は人々の頭上より高い位置に描かれているが、単純な透視法を採用せずに、巧みな奥行き感です。

この当時、制作現場の風景は人々を楽しませる催しと同じく、見物人が訪れ完成までの成り行きを見て楽しむことができたそうです。

ある司祭の証言では「レオナルドは早朝に現場に入り足場を組み立てると、日の出から日暮れまで、食事はおろか水も飲まずひたすら絵を描き続けた。

(the world of leonardo  TIME LIFE LIBRAARY OF ARTより)素描を改めて拝見するほうが、構成を理解するのに役立ちます。

何も描かない日や、描きかけの人物に一筆か二筆加えて立ち去ることもあった。

レオナルドがミラノ公に呼び出され、(仕事が遅いとミラノ公に訴えた人がいた)創造的活動について議論となった。

レオナルドは、「働いていない時ほど大きな成果を生み出す時もある、常に頭の中でアイディアと実現する方法を考えております。」


この右下の4人は、左上に並ぶ構図です。一人だけ離れた・・・従来からある配置をまずは検討したようです。

「登場人物の顔のうち、キリストとユダの二人だけ描いていないが、ユダのモデル探しに苦労している。

修道院長が今後も作業を急かすつもりなら、ユダの顔に採用しても良い、と」・・・ミラノ公は大笑いし、レオナルドの言うことはもっともだ、

哀れな修道院長はうろたえ、・・・とヴァザーリ―(芸術家・伝記作家)が書いています。

(the world of leonardo  TIME LIFE LIBRAARY OF ARTより)

1496年頃、ミラノ宮廷に数学者のルカ・パチョーリがやって来て、レオナルドと意気投合、数学を教えています。

(レオナルド・ダ・ヴィンチ/ウォルター・アイザックソンより)

レオナルドは、ピタゴラスの定理や、多面体のデザインなど多くの資料を残しています。

活版印刷がヴェネツィアで盛んになり、書籍の出版も多くなってきました。

レオナルドは、ルカが執筆を始めた建築や美術、解剖学における比例の役割「神聖比例論」に60点の挿絵を提供し、存命中に出版されている。

(レオナルドの挿絵、セルジオ、アンドレア・リッチャルディ絵 レオナルド・ダ・ヴィンチより)

幾何学は測量から始まり、ギリシャで発達し、プラトン立体や黄金分割などの比例関係などが研究されていた。

ルカは著書の中で挿絵に賛辞を贈っている

「この挿絵は私と共にミラノ宮廷で禄を食む、あらゆる数学分野に精通した人類のプリンス、最高のフェレンツェ人、

我らがレオナルド・ダ・ヴィンチの神聖なる左手により描かれたものである」と。

その後も、「最も素晴らしい画家、遠近法の研究者、建築家、音楽家であり、あらゆる面において完璧な人物」と称えている。

・・・1497年1月3日、ミラノ公の妃ベアトリーチェが息子を死産し亡くなった。

この時代出産は命がけだった、・・・21歳の若さで亡くなった。

・・・そして、この教会に埋葬され、ミラノ公(ルドヴィーコ)は週に一度、・・・修道院の食堂で食事をするようになった。

最後の晩餐・・・完成を待ちわびる日々が続いた。

この頃、レオナルドはミラノ公に、騎馬像のブロンズの代替手配が無いことや、二年分の報酬未払いに対する不満を申し述べています、

・・・厳しい時代となったことは理解しますが、このままでは最後の晩餐の作業は中断せざるを得ません、

報酬を得るために、他の些細な仕事を受けて、助手や弟子の生活を面倒見る必要があります・・・文面から、苦労の期間だったことが分かります。

・・・粘土の騎馬像で一躍有名となったレオナルドには、壁画の完成を待ちわびる人々の声が・・・、作業を再開しました。

(売店で購入の画集より)

「あなた方のうち一人が、私を裏切ろうとしている」・・・キリストが弟子の12使徒に告げた場面、

・・・みなが驚き、「主よ、それは私ですか?」 ・・・一瞬の静寂、・・・スローモーションで、ざわめき始めた。

レオナルドは・・・人間の感情表現にしぐさを重視しています、舞台演出も得意でした、

窮屈に隣り合う三人組が、左右に4組・・・聖書に詳しくなくても・・・会話をアレコレ想像できます。

・・・多くの人々に感銘を与える、史上最高の物語絵画となりました。

1498年初頭に作品は完成し、ミラノには騎馬像 ( 素描しか残っていない)と、最後の晩餐と・・・2大名所が生まれました。

1498年4月中旬に、シャルル8世が事故死して、ルイ・ドルレアンがフランス王に即位し、ルイ12世を名乗ります。

・・・当時のヨーロッパ各国は、国王の権力が拡大し、諸侯に仕えていた騎士階級が没落し、新たに貴族制度が誕生

五爵が生まれていました、公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵・・・これらが何故か、現在もヨーロッパに残っています。

突然権力が転がり込んだルイ12世、ナポリ王位とミラノ公位の継承権が我が家系にもあると要求して、侵攻予告?

多くのイタリア人は、1494年~1495年シャルル8世の大軍から受けた屈辱は事件ではあったが、天災だったと思えば陽気になれたのでしょう。

天災は避けられない、・・・シャルル8世らの逃げ帰りにより、危険は去った・・・そして、日常に戻っていった。

この事件に巻き込まれなかったのが、自国民の海軍と傭兵の陸軍を持つヴェネツィア共和国だった。

イタリア半島で10月、フィレンツェ近郊に領土拡大を狙うヴェネツィア軍が侵攻する。

フィレンツィエは、傭兵とルドヴィーコ軍の援軍で何とか撃退するが・・・、傭兵の軍資金が不足していた。

翌1499年3月末、ルイ12世はミラノ公位の獲得宣言、・・・盟約を結んでしたヴェネツィア共和国も領土拡大を狙いミラノに宣戦布告した。

4月末、ミラノ公は東西から大軍に挟撃されては、勝機は無いでしょう・・・籠城も無意味と思ったか?

同月、レオナルドに未払いの報酬もあるし、最後の晩餐の特別手当として、・・・教会に近いブドウ園を与えています。

まもなく夏が来て、フランス軍がアルプスを越えて再度のイタリア侵入、・・・ミラノ南西120㎞ のアスティに集結し始めた。

ミラノ公は、神聖ローマ帝国王に嫁いだ姪に、夫のマクシミリアン1世に援軍を願うと頼んで欲しい旨手紙をしたためる。

8月末には、フランス軍の攻撃にアスティの東隣、アレッサンドリアが降伏した

・・・この時点でミラノ公近親者は、スフォルツァ城から財産(宝石・20~24万金ドゥカート)を積んで北のコモに向かった。

確か3万金でフランスからジェノバを買い戻したと思ったが、大金はあったが反撃できる軍事力は確保できなかった。

そして、ミラノ公も9月始めコモ経由・・・アルプス越えて、姪のいる300㎞先のオーストリア・インスブルックへと逃亡した。

(レオナルドの風景画 TIME LIFEより 1499年頃 遠方にアルプスの渓谷、雨雲が現れ激しい雨、赤チョークで描かれています)

南西から攻めあがったフランス軍がミラノを征服し、東から攻め込んだヴェネウィアはミラノ公国の領土の一部を獲得する。

遅れて10月6日にルイ12世とヴァレンティーノ公爵(チェーザレ・ボルジア)は、ミラノへ入城したきた。

教皇の次男(チェーザレ)が兵を率いていた。更に教皇の宿敵、ローヴェレ枢機卿も一緒です。

・・・なぜ呉越同舟か?・・・ヴァチカン図書館に教皇とルイ12世の協定文書が残っています。

(塩野七生女史、「チェーザレ・ボルジア あるいは優雅なる冷徹」より)

話が少し戻るが、ルイ12世は離婚と再婚の承認を教皇に再々願い出ていた。

教皇は条件を出した、息子(チェーザレ)にフランス内の領土と花嫁を・・・ルイは承諾した。

ルイも条件を追加して・・・イタリアの北部ロンバルディア地方の征服、ルーアンの大司教を枢機卿にして欲しい

・・・教皇は、先の教皇選挙の際、買収で世話になったミラノ公ルドヴィーコの弟(枢機卿)の勢力が弱まるので・・・承諾。

以上の協約に更に、付け加えられた9箇条の証文が残っているそうです。

1498年7月16日の日付で「ヴァランス等の公爵として領土を与えること」「要望に応じて軍事的な支援を行うこと」

「聖ミカエル騎士団の騎士の称号を与えること」などと収入、軍事力、名誉保証、他にナポリ案件などが結ばれた。

・・・何故、教皇は騎士の称号の約束まで、証文にしたのでしょう。

教皇は独身:公にはチェーザレ達は知人の子であった。・・・現実は妾の子、私生児。聖職者の「悪魔の子」なのです。

そこで嫡子しかなれない騎士団に潜り込み、養子縁組でフランス王家の名と紋章、フランス王の親族の公爵になろうとした。

・・・枢機卿のチェーザレは教皇の腹心だった、民の心を宗教で支配、民の上に聖職者の権力、最上位教皇は神の代理人。

国家さえも操ってきた教皇が聖域のヴァチカンで、シャルル8世に武力で脅迫された、・・・息子(チェーザレ)は限界を悟った。

教皇に逆らうイタリア弱小連合の統一は、・・・武力だ!・・・剣を持つには枢機卿職を捨てるが、教皇の権力は最大限に利用する。

7月17日、協定締結の翌日チェーザレ・ボルジア24歳、一生贅沢な生活が保障された枢機卿職の返上を申し出、認められました。

緊急招集で枢機卿達は、秘密協定文書の存在も知らず・・前例のない返上・・何かが起こる・・不安を抱えながら承認するしかなかった。

チェーザレは、大国ナポリ王女と結婚を・・・と迫るが、嫌われ断念していた。

ローマからガレー船5隻を従え、晩秋のマルセイユに上陸、チェーザレはフランス王臣下や教会関係者の歓迎を受けた。

その後アヴィニョンではローヴェレ枢機卿が出迎え、この地に十余日滞在し歓迎を受けています。

リオンを過ぎ、行列には法王教書、豪華な贈物、聖遺物もあったでしょうか・・・ローマの貴族たちも連なっています。(軍隊は欠けていた)

12月18日、フランス王がシオンで待っていた・・・チェーザレは、ルイ12世に・・・我が子 と最大の歓迎を受ける。

1499年5月10日、アンポアーズの城でナバーラ王の王女と結婚し、フランス王家と養子縁組も行い、槍騎兵隊100名も援助してもらった。

先発隊のフランス軍がイタリアに侵攻し、ヴァレンティーノ公爵と呼ばれるチェーザレも兵を率いて、9月9日グルノーブルに着いた。

・・・そして、チェーザレは王ルイに従って・・・ミラノに入場してきたのだった。

フランス軍はレオナルドには好意的だったが、粘土の騎馬像は矢の的となり無数の穴が開き、後に雨水の侵入と乾燥の繰り返しで崩れ去った。

ルイ12世はチェーザレ達と「最後の晩餐」を見に行き、部下にフランスに持ち帰れないか?・・・不可能です、と言われ断念したそうです。

この頃に、レオナルドがチェーザレと対面しているようです。

「最後の晩餐」会場で、教会関係者と共にレオナルドがルイ12世一行を出迎えて同席した可能性もあるでしょうね。

この後レオナルドは、しばらくミラノに留まり、フランス軍に同行してきた画家たちと交流しています。

ミラノ公・ルドビーコや枢機卿達が逃げ出したミラノは、リニー伯爵が新たな統治者となりました。

やがて、・・・ルドヴィーコが傭兵を集め、ミラノ公への返り咲きを画策している噂が耳に入ってきます。

12月末、レオナルドは、友人の数学者ルカや大勢の助手とこの戦場予定地を離れ、・・・フィレンツェへと旅立ちます。

1500年初頭、マントヴァでルドヴィーコの亡き妻の姉イザベラ・デステ(26歳)の歓待を受け、・・・肖像画を描いて~欲しい。

彼女はこの時代を代表する有名な女性で、ルドヴィーコはこの義姉に頻繁に手紙を出していました。

・・・レオナルドがこの地で残した、彼女の彩色前の下絵

このデッサンは、黒チョーク、木炭、パステルで描いた物ですが、後に他の画家の筆で輪郭線がぼかされたと言われています。

この段階で立ち去り、・・・ヴェネツィアに軍事技師として渡ります。

ヴェネツィアでは、トルコ艦隊を撃退する方策を各種提案していたようですが、2か月くらいでフィレンツエへ出立します。

1500年3月末、フィレンツェに到着、共和制に戻った街はサヴォナローラ処刑の後、財政はひっ迫、華やかさは消えていました。

花の大聖堂から北に約700m、現在のフィレンツエ大学の近くの修道院内に落ち着き、故郷での生活が始まります。

レオナルド氏は、絵画、彫刻、芸能、建築、医学、自然科学、工学、機構学、治水と探求心が旺盛ですべての分野に興味がつきない。

驚くことに専門性が高くノーベル賞に値する発見も数多く素描に残されていて、特に医学、1冊でも出版されたら歴史は変わっていたでしょう。

・・・当時ローマで「ピエタ」を制作中のミケランジェロは、粉塵と槌の音の中、石と格闘中でした。

派手な格好で弟子とフィレンツェ中心部を闊歩するこの人物を、もうすぐ目にすることになります。

     


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