気になる写真!

このブログはその時々の好奇心で、気になった被写体を切り取り、・・・チョットだけ考えてみようと

この方、レオナルドさんの足跡をもう少し

2020-06-20 | アート・文化

・・・雑記帳を持ち歩くのが流行していた。腰のノートに街での見聞を書き記す。

他にも「やるべきこと」「学ぶべきこと」のリストを雑記帳に記録し、実行し続けた。

1489年4月2日、ノートの右側に「目を動かす神経はどれか」・・・「子宮の中で人間の始まりを説明せよ」などと・・・

( 何故疑問に思うのか? どうして調べるつもりなのか? )・・・人体の謎を探求すべき18項目が書かれている。

どうなっているのか?、考えてみるが・・・からくり人形ではないので、解るわけがない、中身を見ても解らないでしょうが

・・・死体の解剖はリスクがあり、行動に移す人は変人でしょう、しかし彼は、精密描写の才能もあった、偉大な記録が残った・・



レオナルド・ダ・ヴィンチの現存するノートは、彼の死後・・・多くがバラバラにされ売られてしまった。

ノートに日付はほとんど無く、昔のページで余白があれば追記されたり・・・順番の解明はなかなか難しいとされている。

1508年にレオナルドは、「この記録集は、私がこれまで書き写してきた大冊のノートを寄せ集めた、順序の狂ったコレクションになってしまいそうだ。

後で整理しようと思っているのだが、・・・この記録集が終わりになるまでには、何回も繰り返して整理しなければならないだろう。

だから、読者諸君、私を責めないでほしい。

ノートの題目は多岐にわたっており、いちいち覚えていられないのだから・・・。

ミラノの宮廷では「予言」の語り手でもあった・・・何かの話をします・・・何の事かと・・・後から(予言の)題(答)を言います。

「無数の人間が、神の許しもないのに、この上なく高価なものを大ぴらに売っています。

その売り物は、彼らの物でもないし、売る権利もない物なのです。

それなのに人間は、正義の名でそれを許しているのです。」

表題は「天国の売込みについて」となっている。・・・ノートに記されたこの予言は、・・・発表は控えたのではと著者

(タイム/ライフ ブックス 巨匠の世界 レオナルド S45年発行の the world of leonardo P56)

このレオナルドの手稿コレクションは、大英博物館、ビル・ゲイツなど25あるとされ、現存するのが約7200ページ

伝記作家が、レオナルドの好奇心の詰まったノートを調べ続け、最近その集大成が発刊されました。

万能の科学者に近づきたいと、・・・彼はキツツキの舌に興味を持つことは・・・できなかったそうですが

作家が学んだことは、日々目の前の世界に驚きを見いだそうとすることで、人生は豊かになるのだと。

まさに実感、読み終えて、・・・レオナルドは権威主義的な宗教絵画より、人物の内面を表現したかった・・・そして肖像画の多くが未完成。

実験・研究、類推、人体は小宇宙、天体に浮かぶ地球、・・・机上の神学とは反するであろう天地創造、哲学の世界へ

太陽は動かない!ノートに記されているようです・・・晩年ローマでは、教皇から死体の解剖禁止・・・異端裁判にならずよかった。

「レオナルド・ダ・ヴィンチ」上下巻 著者:ウォルター・アイザックソン氏 (訳土方奈美)、文芸春秋。

・・・この本も参考に、ミラノからの人生を追ってみたい。

 1487年 ミラノ政府は、建築中の大聖堂が着工から1世紀も経過してしまったが、まだ完成の見通しが立たなかった。

聖堂の身廊と翼廊の交差部にかぶせる円蓋の設計が、構造的な弱さもあり、・・・ここミラノも屋根が架けられなかった。

(現在のミラノドォーモ裏側、身廊と翼廊の交差部)

そこで設計コンペが行われ、レオナルドも応募したが結論が出ず、参加者でアイディアを出し合う状態だった。

この審査の専門家に任命されたのが、ドナード・ブラマンテ、レオナルドの8歳年長でした。

彼はこのミラノに来て演芸プロデューサーに、そして画家、技師、建築家、今はスフォルツァ宮の廷臣となっていた。

レオナルドは1487年夏、コンペの後ブラマンテの提案書に協力したことで、6回に分けて報奨金を受け取っている。

(哲学者ヘラクレイトスとデモクレイトス レオナルド・ダ・ヴィンチ/ウォルター・アイザックソン より)

画家でもあったブラマンテはレオナルドと親しくなり、古代の哲学者二人を題材に自分とレオナルドをモデルにして描いたようです。

笑っているデモクレイトス(ブラマンテ)と、左が泣いている設定のヘラクレイトス(レオナルド)服装はバラ色のチュニックとあります。

レオナルドはすでに有名人だった、才能以外に美しい容姿、筋骨たくましい体格、穏やかな性格、会話は楽しく、頭脳明晰、友人が大勢いた。

1489年春、レオナルドはルドヴィーコから鎧兜を身に着けたフランチェスコ公の巨大騎馬像の模型作りの命を受けた。

宮廷に4人しかいない主席技術者となり、廷臣として給料、大聖堂の隣のヴェッキア宮の中に自身と助手達の居室、さらに工房も付いた。

(ドォーモの南隣、・・・王宮、そしてドォーモ博物館、市立現代美術館のあるここだったのでしょうか?)

ミラノに来て7年、ルドヴィーコは芸術を愛するパトロンかと思われたが、地位の象徴として利用したかったようで、金払いは良くなかった。

さてドォーモの設計、多くの提案を受けたミラノ政府は途方に暮れ、・・・1490年4月にシエナから更に一人専門家を呼ぶことになった。

フランチェスコ・ディ・ジョルジョ、彼はレオナルドより13歳年上で画家、芸術、技術・建築と多才の人物。

結局ミラノ政府は、1490年6月フランチェスコの勧めで、ミラノの二人が提出した華麗な装飾のゴシック案を採用した。

(ここはドォーモの身廊部屋上、エレベータや階段で上がれる:有料 向こうに見えるのが円蓋)

(しかし、このドォーモ、完成にはまだまだ、・・・正面ファサード、ナポレオン登場まで、長い期間が必要となった。)

(ミラノ北方から採石され船で運ばれたのこの色大理石・・・貴重な素晴らしい素材がふんだんに使用されています。)

さて、ドォーモの設計案が決定したら、ミラノから40㎞離れたバヴィア政府から、こちらの大聖堂にもシエナの技術者ら二人派遣してと要請されます。

この要請に君主ルドヴィーコは、シエナの技術者とフィレンツェのマエストロ・レオナルドも派遣すべしと秘書官に指示しています。

(パヴィアの大聖堂 レオナルド・ダ・ヴィンチ/ウォルター・アイザックソンより)

この様な様式の教会がレオナルドの好みですが、それよりもパヴィア城内のヴィスコンティ図書館は1000点の蔵書を誇っていた。

ここでフランチェスコ・ディ・ジョルジョと、レオナルドは・・・ウィトルウィルスの「建築論」の写本を目にしています。

フランチェスコは何年も前から、・・・古代ローマ時代の「建築論」ラテン語の写本を読みやすいイタリア語に翻訳していた。

マルクス・ウィトルウィルス・ポッリオとは、紀元前80年頃、ローマ帝国の技術者で「建築論」の著者、この当時より1500年前の文献です。

「建築論」はスイスの修道院で8世紀に写本された物が1400年代前半に発見され、その後に写本が複数タイプ生まれた。

この写本を手に、ブルネルスキーはドナテッロを誘い、ローマに行き古代建築物を計測し、フィレンツェのドーモコンペに勝利していた。

・・・レオナルドは図書館に熱中し、パヴィアに6か月滞在したが、野外劇の装置の仕事でミラノに呼び返された。

ミラノに戻り、フェラーラから来ていた宮廷仲間のジャコモ・アンドレアと、ウィトルウィルスの考えを絵にすることになった。

ウィトルウィルス:円と正方形の中に、人間は治まる。

建築論では、人間と宇宙の関係性について明確に類推していた。

フランチェスコのイタリア語約「建築論」の挿絵に、彼の考えが下記3点残っています。

これは建築論から理想の教会の設計を探る。

宇宙の法則性を解き明かすために・・・両手両足を伸ばし横たわる人体図を検討することだった。

こちらは、レオナルドの友人アンドレアの考察 (この絵は、1980年代に発見された)下記

円と正方形の中心は一致していない、円の中心は男性のへそ

正方形の中心は、生殖器、これはウィトルウィルスの考えと一致するようです。

そして、ヴェネツィア、アカデミア美術館にあり、劣化を防ぐためほとんど公開されないのが、レオナルドの下図

レオナルドの ウィトルウィルス的人体図

男性のへそは円の中心に、生殖器が正方形の中心に。

レオナルドの注釈「身長が 1/14 低くなるように、両足を広げて頭の位置を下げていく。

同時に両腕を伸ばし、指先が頭長の線に触れるまで上げていく。

そうするとへそが伸ばした四肢の中心になり、両足の間にできたスペースが二等辺三角形になる」

体の寸法について、「腕を横に広げた長さは身長と等しい。・・以下11項目ありますが略

ウィトルウィルスは爪先から踵までの長さは、身長の 1/6 としているが、レオナルドは独自の実験で 1/7 としている。

このウィトルウィルス的人体図を描いたのが、レオナルド38歳、

人物像は画家に似ることが多い・・・この長髪の成人男性は、レオナルド・ダ・ヴィンチ 本人と思いますよ。

・・・レオナルドはこの頃、召使や弟子が少なくとも6人はいたそうです。

この年、10歳の巻き毛の美しいジャン・ジョコモ・デ・カカプロッティ少年が絵の見習いとして住み込んだ。

サライ(小さな悪魔)というあだ名をつけた。こそ泥、うそつき、強情で貪欲な少年とノートに記されている。

・・・レオナルドとサライ達は赤やピンクの短パンという派手な衣装で、目立ったようです・・・なかなかイメージし難い光景です。

前々回と重複しますが、1490年、ここミラノでは、ヨーロッパ一番ともいえる豪華な宴が続いていました。

君主ルドヴィーコは、甥のジャン・ガレアッツオ20歳とナポリ王女イザベラ・ダラゴナの豪華絢爛な結婚式を挙げます。

レオナルドは宮廷付き演劇プロデューサーとして、「天国の祭礼」のショーを行い「天体の仮面劇」は大好評でした。

城の広間に大きな山を組み立てて、幕でおおわれていた。

幕が開くと、十二宮と擬人化した惑星の天空が現れ、音楽に連れて三姉妹神と七主徳が姿を現し、花嫁をたたえたという。

派手なショーはミラノ市民の不満解消と、名ばかりのミラノ公の甥を政治から遠ざけ、酒浸りの生活を続けさせることだったようです。

タイム/ライフ ブックス 巨匠の世界 レオナルド S45年発行の the world of leonardo から画像を借用

 これは、翌年行われたルドヴィーコの結婚パレードでしょうか、92人編成のトランペット隊?

1491年  ルドヴィーコ39歳、・・・そうでした、レオナルドも39歳、結婚適齢期でした。

フェラーラ公国の王女ベアトリーチャ・デステ 15歳と結婚します。

この妃の絵も、15歳とは思えないですね、

大規模な馬上槍試合のトーナメントが行われ、レオナルドはそのパレードのプロデューサー、多才ですから適任者です。

誰もがいつまでも平和が続くものと信じていた。

誰もが金持ちになろうと一生懸命だった。

1492年、フェレンツェのメディチ家当主・ロレンツォの突然の死、平和が続くには、・・・金を使った外交も必要だった。

イタリア諸侯は、小国の現状でも平和は続くと思った、争いがあれば傭兵を金で雇えば解決できるだろうと楽観していた。

バチカンでコンクラーベ、ローヴェレVSボルジア枢機卿は力勝負の金権選挙、ミラノの枢機卿を買収し・・・ボルジアが新教皇に

グラナダの陥落により、カスティリャのイサベル女王、アラゴンのフェルナンド国王は、次は隣国フランス対策が必要と感じてきた。

40年間の平和がこれからも続くのか、ルドヴィーコは自分の権力の座が不安になってきた。

(現在の スフォルツェスコ城博物館)

ミラノ公国の正当な国家元首の地位は甥にあった。対立するヴェネツィア対策で、甥にナポリ王女をと縁組したが・・・

甥の妻は、ルドヴィーコから夫に権力を渡すように父親のナポリ王に訴えていた。

・・・権力者は負の記録は残さず、・・・噂が残る。・・・新婚の甥に、酒以外に少しづつ毒を・・・。

ヴェネツィアは、ナポリとミラノの同盟は避けたかった。ナポリの王位継承権が有りますよ・・・とシャルル8世に情報を流した。

ボルジアに敗北したローヴェレ枢機卿、教皇への反撃が功をなさず、危うくなりフランス南部へ逃げ、シャルル8世を煽り教皇再選挙を。

シャルル8世は、くる病によると思われる身体的ハンデキャップを乗り越えて・・・勇敢な騎士として大軍を動かしたい。

ミラノのルドヴィーコは、1492年1月シャルル8世と同盟し、ナポリに進撃する際は、中立を保証します・・・ナポリ侵攻を煽った。

1494年1月 ナポリ王が息子に王位を譲り病死した。

教皇は、シャルル8世のナポリ王の継承権を認めず、ナポリ王子の継承を認めた。

(1493年7月 教皇、ナポリ王国と和平協定、教皇の息子とナポリ王の孫娘、政略結婚させた)

フランス(シャルル8世)は周辺国対策をとる、・・・英国は金、スペインと神聖ローマ帝国には、一部領土を返還し協定を結んだ。

フランス軍は近代武器も装備し、スイス傭兵も含め一説では25000人とも、想像を絶する大軍で1494年8月23日グルノーブルから進軍開始。

イタリアの諸国は、本当に山を越えてやって来たと右往左往、

9月9日、トリノの南東45㎞にあるアスティで、ルドヴィーコ夫妻はご一行を迎えに、・・・シャルル8世にはローヴェレ枢機卿も同行していた。

シャルル8世はその後スフォルツァ城にも滞在し、パヴィアから南へ・・・ルドヴィーコは同行して進軍したようです。

10月22日頃、甥のミラノ公ジャンが亡くなったと聞き、戦列を離れ帰国しなければ、葬儀があります。

・・・亡くなったミラノ公の甥の妹は、神聖ローマ帝国のマクシミリアン1世と再婚していた。

ルドヴィーコは甥の遺産を甥の妹に渡す代わりに、自分がミラノ公を継承する許しを得たとされます。(もう一人の甥の末妹アンナや甥の子供もいますが?)

・・・シャルル8世は年末にローマに入場し、翌1495年5月ナポリ王となるが、ヴェネツェアと教皇の主導で神聖同盟が結ばれ、スペインが参戦。

5月20日、ナポリに軍の半分を残しシャルル8世以下逃げ帰る、途中寝返ったミラノ軍も加わり攻撃され半数になるも10月末グルノーブルに戻った。

さて、イタリア諸侯はこれで神聖同盟も解消し、ナポリも取り戻し、かつての平和に戻れると楽観的だった。

ミラノ公となったルドヴィーコは、自らと一族のためにミラノ市中心部に霊廟を設けるために教会の修復を命じた。

修復を命じられたのがブラマンテで、その教会がサンタ・マリア・デッレ・グラッツィエ教会でした。

(右正面が、サンタ・マリア・デッレ・グラッツィエ教会、左にある2階建ての建物が最後の晩餐のある食堂)

そして、新たに建設したドメニコ会の修道院の僧院食堂に「最後の晩餐」を描くようにレオナルドに命じた。

・・・レオナルドがミラノにやって来て間もなく、1484年から85年の1年間で約5万人が疫病で亡くなっているそうです。

レオナルドは街の密集対策として、3万人単位の10街区に区画整理、街路は広く2階建て、上段歩行者、下段馬車など、水路にゴミ・・・

ルドヴィーコに都市計画や軍事兵器の提案をするが興味は示さなかった、演芸と一族の権力の正当性を告知するために、芸術家を必要としていた。

 


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