東北本線,東海道本線沿線 全線全駅歩き旅のブログ

旧東北本線と田沢湖線,花輪線,釜石線,八戸線,山田線、北上線、東海道本線、奈良線、大船渡線沿線歩き旅の記録。

25日目 三戸駅ー北高岩駅

2012年05月03日 | 東北本線 盛岡駅~八戸駅
2012年04月16日(月)

三戸駅ー北高岩駅 歩いた距離 14Km(山へ迷い込んでさらに8Km歩いた)

今日も車で三戸駅まで行く。
国道4号線には雪はないが奥中山付近の日陰部分にはまだかなりの雪が残っている。
この冬は日本海側を中心に近年にないほど大雪で被害も大きかった。
もしかしてこの夏は冷夏かなと思ってしまう。

三戸駅の駅前駐車場に車を停める。

ここは無料だった。広い駐車場だが停まっている車が数台しかないのだ。

午前10時30分に歩き出す。
昨日の疲れはさほどではないのだが、やはり太もも部分とふくらはぎが痛い。
だがそれも歩いているうちに気にならなくなってきた。
右足薬指の血豆は治ってしまった。
針を刺して血を抜いたのが正解だったのだ。

民家の間の細い道を抜けて国道4号線へ出る。

三戸駅北側の踏切から三戸駅をパチリ。





できるだけ旧道を歩くようにする。
旧道にはお地蔵さんがいて、道行く人を見守っていてくれる。



1時間で諏訪ノ平駅に到着。



ここも無人駅である、見た目が民家のような作りの駅舎だ。
駅舎の前に自動販売機が並んでいるのでうっかりすると駅と思わず通り過ぎてしまいそうだ。

プラットホームは3面あるのだが使っているのは2面だけ。
休憩は取らずに写真を撮っただけで歩き出す。



しばらく東北本線と国道4号線が平行して走っている。



国道を歩くよりは田んぼのあぜ道を歩くのが好きなのだが残念ながら途中で道が途切れてしまっていた。
今来た道を戻るのが正しいのだがすぐ左に線路があり、それを横切ると国道4号線なので思い切って線路を渡ってしまう。



子供の頃は線路の近くで遊んだことも多かった。
線路脇に立ち、通り過ぎる蒸気機関車の煙を浴びたり、耳を線路に当てて近づいてくる列車の音を聞いたりしたものだ。

いまは列車の速度が速くなったのでそんなことをしていたら危険である。
気がついたら列車が目の前に来ていたなどということになりかねない。

ふたたび国道4号線にもどり剣吉駅を目指して歩く。

剣吉の町へ入った。
ここにもお地蔵さんと思いきや大きな石になにか文字が彫ってあるものだった。

この町ではきょうは市日だった。



わたしの田舎町でも、その昔は町ごとに市の立つ日があり、近隣からの買い物客で賑わったものだ。
だが大きなスーパーが出来て、農機具類もホームセンターなどで購入する時代になってしまった。
だから『市日』は廃れて無くなってしまったものと思っていた。
ここには規模は小さいもののまだ市が存在していたのだった。
だが、賑わいはまったく感じられない。
客と思われる人も業者の人も老人ばかりである。
このひとたちの時代で「市日」は終わってしまうのだろう。



12時45分、剣吉駅に到着。





ちいさな駅だがちゃんと駅員のいる駅だった。
ここも駅舎内はよく清掃されて気持ちが良い。
待合室にはミニ図書館といえるほどの本が揃っている。

お年寄りが5人待合室にいたが、バスが駅前に着くとそれに乗って行ってしまった。
ここで15分休憩する。



つぎの苫米地駅までそして北高岩駅まで東北本線と国道104号線は平行して走っている。
国道4号線は方向を北へ向けて東北本線とは離れてしまうのだ。





午後1時50分に苫米地駅到着。







プラットホームだけの駅だから写真を撮って歩き出す。
南部町役場前を通過。





もう午後2時である、休憩もしたいし昼食もまだなので食事もしたい。
ラーメン店があったので迷わず入る。



ラーメンライスで630円、なかなか美味い。



北高岩駅を目指して歩く。



午後3時15分に北高岩駅に到着。



ここも無人駅だ、中央のプラットホームの向こうに国道へ抜けるための高架橋があったので、それを登って国道104号へ出る。

交差するのは東北新幹線だ。



見上げると馬渕川に架かる東北新幹線の長大な橋に驚かされる。

このまま国道104号線を行けば八戸駅に向かうのだが、国道よりも旧道を歩きたいと思っているので国道をそれて歩き出す。



進行方向に向かって左側に鉄道線路がある。
左方向へ向かえばどこかで線路に突き当たりだろうし、踏み切りもあるだろうと考えた。

これが間違いのもとだった。

国道をそれて山のほうへ向かったのだが鉄道線路が見当たらない。
見当たらないわけで、わたしの歩いているところはトンネルの上部分だったのだ。
まさか自分がトンネルをまたぐかたちで鉄道線路の上を歩いているのだとは考えなかった。

しばらく歩いても線路が見えないので「線路は自分が歩いているところよりも左の方向に曲がっているのだろう」とばかり考えていた。

40分も歩いた頃には「これはおかしい、戻ったほうがいいかも知れない」と考えたのだが。
「いや、もう少し歩いてみよう」と、どんどん山の中へ入って行ったのだった。



その道は農免道で道幅は広く、よく整備されてはいるものの道路標識は無い。
回りは山林と農地ばかりで人の姿は無い。
たまに通りかかる車はスピードを出しているので止めて道を聞くことも出来なかった。
完全に道に迷ってしまったのだ。

午後4時過ぎなのでまだ日は暮れていないが冷えてきた。
食料も水も無いし、かなり疲れている。

運良く通りかかった車を止めて国道へ出る道を聞くことが出来たのだが、なんと1キロ先の「T字路を左に行くと国道に出る」と教えられたのに右への道へ進む始末である。
もう完全に方向感覚を失っていた。

道を間違えたことに気づかないまま、さらに1キロ以上も歩いてしまってから、これは変だと感じたのだが人も車も見当たらない。

と100メートルほど先に農作業をしている老夫婦を見つけた。
親切なお婆さんで「あなたは逆方向へ歩いている、とにかくこの道を戻ってまっすぐ坂を下って行きなさい」と教えてくれた。
教えられた道を歩いていくと、どんどん下り坂になって来る。30分も歩くと人家が見えてきた。
さらに30分ほど歩くと突然に東北本線の線路が見えた。「やれやれ助かった」

民家の前にいた老人に聞くと15分ほどで北高岩駅があるという。
なんとわたしは北高岩駅を出て山の中をぐるっと回って、元の場所へ戻って来たのだった。
山の中の農道へ入ってしまい、左へ左へと大回りしてもとの北高岩駅へ1キロ手前まで戻って来ていたのだった。

午後3時30分から5時30分までの2時間、道を迷い山の中をさまよっていたのである。

陽は沈み辺りは薄暗くなってきていた、あのまま山の中をさ迷っていたならどうなっていただろうか。



やっとの思いで北高岩駅に着くとちょうど列車が来るところだった。
大急ぎで販売機で切符を買い、階段を駆け足で登ってぎりぎりで列車へと乗り込む。



あんなに疲れていたのによく階段をダッシュで登るだけの力が残っていたものだと思う。

列車内は帰宅する高校生でいっぱいだったが、座ることが出来た。



三戸駅についてから車で国道4号線沿いの銭湯へ行った。
ここはその昔入浴代金が300円だったが、今は420円になっていた。
だが中の設備は昔のままだった。



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24日目 二戸駅ー三戸駅

2012年04月26日 | 東北本線 盛岡駅~八戸駅
2012年04月15日(日)

二戸駅 ==> 三戸駅 歩いた距離21Km

東北本線に沿って歩く旅も3年目に突入だ。

冬の間は歩き旅をせずにいたがやっと暖かくなってきたので、再開することにした。

今年は北は青森まで南は福島まで歩きたい。
宇都宮まで到達できればとも思うが、怠け者なのではたしてどうなるかわからない。

北方面へは昨年に二戸駅まで歩いた。

今回は二戸駅から三戸駅そして八戸駅までを2日間で歩く計画だ。

今回のスタート地点である二戸駅までは車で行くことにしたのだが、
朝寝坊してしまったので二戸駅に着いたのは10時だった。

駅前の有料駐車場に車を置いて歩き出す。
この駐車場は24時間で200円と格安である。
だが車を停めてから向かい側に無料の駐車場があるのに気づいてしまった。
ちょっと損をした気分だ。

隣の斗米駅の手前にあるスーパーマーケット「ジョイス」でパンを買う230円なり。
飲み物は自宅から持ってきた。



晴れてはいるが風はかなり冷たい、歩いていると汗をかくほどだがウィンドブレーカーを脱ぐと寒い。
着たり脱いだりを繰り返しながら汗をかき過ぎないようにする。



このあたりは昔の農家などは姿を消してしまっている。
旧道の交差点に「昭和十一年三月 道路開鑿 記念碑」というのが建っていた。



昭和十一年にこの”細い道路”が出来て、この記念碑を建てたものだろう。
それならば、それ以前は田んぼのあぜ道程度の道路しかなかったのだろうか。
車のすれ違いも難しいようなこの狭い道だが当時は記念碑を建てるほどの大事業だったのだろう。

と考え事をして歩いていたら、
うっかり斗米駅を通り過ぎるところだった。
プラットホームだけがある殺風景な駅だった。





国道を歩かずに旧道を歩くようにする、こちらの道のほうが少しだが金田一温泉駅に近いようだ。



奥州街道の案内標識がある。
その脇に「トトメキの追分石」というのがある。
享保20年と宝暦2年に飢饉の死者を供養する目的で建てられたものとのことだ。
北東北は飢饉との戦いの歴史の地である。



近くには湧き水もある。そばにコップがあるとことろを見ると飲める水なのだろう。



金田一駅南側の踏み切りから駅を見る。



11時30分に金田一温泉駅に到着。





無人駅で駅前には2台のタクシーがいたが、客の姿はない。
トイレに入ると昔懐かしいとっぽん式のトイレだった。
うっかり物を落としたら大変だ、慎重に用を足す。
金田一温泉は廃れるいっぽうのようでパンフレットには「休業中」と書いてあるが実際は廃業してしまった旅館が数軒あった。
近隣に観光施設が無いのだから温泉だけでの集客は難しいだろうなと思う。
駅の写真を撮ってから休憩なしで歩き出す。

金田一駅付近で東北新幹線と東北本線が交差する。
下を流れるのは馬渕川だ。



昼になったので川の見える旧道へ入り線路下で買ってきたパンを食べる。
食べ終えるとすぐに歩き出す。

道路の温度計は17度だ、歩くには最適な気温である。



ここはその昔は鉄道の線路があったところだ、左側は国道4号線である。
当時の東北本線は単線だった。



トンネルが出来て複線化したので使われなくなったのだ。

岩手県と青森県の県境まで来た。
現在県境に架かる橋は「青岩橋」という名前だが、現在の橋はその昔は東北本線の鉄橋だった。


旧青岩橋から新青岩橋を見る。
新青岩橋はその昔は鉄道の鉄橋だったはずだ。



わたしは高校生の頃、この橋を通る客車の窓から写真を撮ったことがある。



当時はもちろん蒸気機関車だった、八戸から二戸(当時の駅名は北福岡駅)へ向かう列車だったが途中の三戸駅で『特急列車のすれ違いのため2時間待ち』ということがあったことを記憶している。
のんびりしていた時代とはいえ『2時間待ち』だったとは、いま思うと驚くばかりだ。

その100メートルほど上流に旧国道の「青岩橋」が架かっている。
現在は老朽化してしまったため車両は通れなくなっている。
その「旧、青岩橋」へ向かう道にあった大きなりんごのモニュメント。ここはりんごの産地である。



「旧、青岩橋」のたもとには昭和36年竣工とある。



車の通行が出来ないほど老朽化している。



だが、目時駅にあった昔の写真には昭和10年竣工とあった。
たぶん昭和10年に出来て36年に改修したのではないかと思う。

それにしても橋の道幅が狭い。
大型トラックやバスのすれ違いは無理だろう、しかも歩道が無い。
当時は車両も小さかったし、歩行者に対する配慮など無い時代だったのだ。

橋を渡ってすぐのところにはドライブインだった建物が残っている。
道路が付け替えられると旧道だったところはゴーストタウンになってしまう。

目時駅は国道からかなり入ったところにある。

午後01時30分目時駅到着。

こに目時駅も無人駅だ。駅舎内はよく清掃されていて快適である、10分ほど休憩する。
目時駅から三戸駅へ線路は山の中を通り、トンネルを抜けていく。
道があるのかわからないので国道4号線を通って三戸駅まで歩くことにする。





今日は消防団の訓練?演習日なのか駅前には消防車と消防団員が集まっていた。




三戸町はその昔なんどか車で来たことがあるのだが、うかつにも駅がどの位置にあるのか知らなかった。

三戸はシックな城下町である。



町中に入ってからコンビニや通りがかりの人に道を聞きながらたどり着いた。

三戸駅に着いたのは午後4時だった。





まだ陽は高いのだが今日はここまでとする。
右足の薬指に強い痛みがあるし、両足のふくらはぎが筋肉痛で悲鳴をあげている。

電車の時刻まで30分待ち時間があったので駅前を少し歩く。





とてもモダンな民家が残っている。



国登録有形文化財 村井家住宅とある。
なるほど文化財として残しておきたくなる建物である。

二戸駅まで電車で戻る。
三戸駅は有人駅なのできっぷを買い、改札してからプラットホームへ。



靴を脱いで右足薬指をみるとひどい血豆が出来ていた。さいわい皮膚は破れていない。
車で金田一温泉の日帰り温泉で汗を流してから帰宅する。
自宅へ戻ってから血豆になった部分に針を突き刺すと、ぴゅーっと血が噴き出した。



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23日目 小繋駅ー二戸駅

2012年04月19日 | 東北本線 盛岡駅~八戸駅
2011年9月5日 


小繋駅 ==> 小鳥谷駅 ==> 一戸駅 ==> 二戸駅(約20.7Km)

今日は小繋から二戸まで歩く予定だ。

車で自宅を出たのが遅かったので小繋駅には10時50に着いてしまった。
駅前の駐車場に車を停めて歩き出す。

快晴で気温は27度と高いがさほど暑くは感じられいなく歩く旅には気持ちの良い日だ。
国道4号を北上する。



国道と東北本線は寄り添うように走っている。
すぐに小繋トンネルへとさしかかる、車でならこのトンネルを通るのだが歩きなので脇の歩行者用トンネルを歩く。



小繋トンネルは短いが歩道が無いのだ。通学する子供たちのためにこの歩行者用トンネルが作られたのだろう。
中はひんやりとしてとても涼しい。





しばらく歩くと今度は「笹目子トンネル」にさしかかる。
このトンネルの脇には旧道が通っているので少し遠回りになるがそちらを歩く。



道の両側から樹木がせりだしてきていて、ジャングル状態になっている。
笹目子トンネル」が出来るまでは崖に沿ったこのくねくねした狭い道路が「国道4号」だったのだ。



と、道の真ん中にカマキリがいるのを発見。
まったく車が通らないので道の中央でじっとしている。



10メートル先には餌を捕まえたカマキリもいた。



どちらもカメラを数センチまで近づけても微動だにしなかった。

国道4号線に戻り途中の産直所で昼休みとする。
ここは車で4号線を通るときは必ず立ち寄る店だった。
見ると小鳥谷祭りのポスターが貼ってある、もう秋祭りのシーズンになっている。



別の壁にはベンチャーズの公演のポスターもあった。
ベンチャーズがいまだに日本でツアーをしているというのも驚きである。
しかしチケット代金が5千円とは、ちょっと高いんじゃあないの?

今回も昼食はパンと缶コーヒーだけで済ます。
食べ終えるとすぐに歩き出す。

小鳥谷の町に入る。
この町もやっとバイパス道路が完成して町の中はぐんと静かになっていた。



まるで無人の町かと思うような静けさである。



午後1時に小鳥谷駅に到着、この駅も無人駅だ。



無人駅であってもきちんと清掃や管理がされているのは、「さすがはニッポン」と感心してしまう。
途中の踏切から小繋駅を振り返る。



ひたすら国道4号を北上する。
馬渕川沿いを歩くとまだ夏だというのに涼しい風が吹いてくる。



一戸町への入り口で東京から600キロの標識を見つけた。



去年から東北本線沿線沿いを歩き始めておおよそ250キロメートル歩いたことになる。
だが、東京から青森までは740キロもあるのだと思い出し「えーっ、あと500キロもあるのか・・」とめげてしまう。

日本の最南端から最北端まで日本縦断徒歩旅行を成し遂げた人が何人もいるのだ。
しかも彼らはわたしのように日にちをおいて気が向いた日だけ歩くというような旅ではなく、テント生活をしながら一ヶ月ものあいだ毎日歩き続けてたのである。
恐ろしいほどの精神力と体力である。
それを思うとわたしの旅の荷物はカメラだけだし、疲れたら電車に乗って自宅に帰ってしまうという旅なのだ。
彼らから見たらわたしのしていることは旅ではなくて「散歩」でしかないだろうなあ。
だからといって「無理をしないこと」が肝心である。
60年間まったくスポーツと縁が無かったわたしにとっては、この「散歩」でさえも苦行なのである。

おや「奥州街道」の標識がある。



だが矢印の先は”けものみち”のようで草に覆われていて道とはいえない状態だ。
隣には「百姓一揆結集の地」ともある。
その昔から東北地方は冷害、飢饉で苦しんできたのだ。

やっと一戸の町中へと入ってきた。駅近くの馬渕川に架かる「碧橋(みどりはし)」にはこのような銅像があった。



なんだか昭和40年代を思わせるポーズである。よく壊されもせずあるものだと変に感心してしまう。


一戸駅の構内は奥中山の長い坂を登るために蒸気機関車の増結などしたもの時代があるのでかなり広い。



だが、いまでは構内は雑草だけが元気に?生えている。

駅前も近郊へのバスの発着場にもなっているので町の規模のわりには広いほうだ。
ちゃんとキオスクもある。



待合室の中央にはストーブがある。夏の間もそのまま置いてあるのだ、あと1ヶ月もすればストーブで暖を取りたくなるほど冷え込んでくるのである。



お役所の建物という雰囲気の駅舎の写真を撮って、10分ほどベンチで休んでまた歩き出す。



午後2時15分である。
歩いていると靴の先がなにかにひっかかる感じがする。
見ると右足の靴の底が剥がれかかっているではないか。
剥がれかかった先の部分が地面にひっかかるのでかなり歩きにくいのだ。



今日はここまでにして一戸駅まで引き返えせば良かったが歩き続けた。

ホームセンターがあれば接着剤を買って応急処置ができるのだが、あいにくホームセンターは見当たらない。
コンビ二もとっくに通り過ぎてしまった。
右足だけをまるで行進するときのように大きく上げてつま先が地面をこすらないようにしながら歩くのだが、とても歩きにくくて疲れるのだった。

また、旧国道を歩く。



以前の国道4号線はこんなにも道幅が狭かったのかと思う。
この道幅だと普通車なら問題なくすれ違えるが大型車のすれ違いは無理そうだ。

やっと二戸市にたどり着いた。



男神岩と女神岩が正面に見えて歓迎してくれる。



とんがった形の岩が男神岩である。

遺跡の発掘をしている現場を横に見ながら駅を目指す。



やっと「二戸駅」が見えてきた。



午後4時になってしまった、今日は約5時間歩き続けたことになる。
一日で30Km歩くことが目標だが、あまり暑くない日の午前7時に歩き出して途中休憩をしながら午後7時まで歩くのであればなんとか出来そうである。



この駅も「いわて沼宮内駅」と同じようなつくりである。
最近の流行なのだろうが新しく作られる空港ビルも駅ビルもみんなデザインが同じように見えてしまう。
二階部分に切符売り場や改札があるのも同じような構造だし、一階部分がみやげ物店や地域の集会所などに使われるようなつくりになっている場合が多い。
たしかにエレベーターは設置されているが、客はいったん2階まで行き改札を通ったらまた地上階まで降りて列車に乗り込むことになるので、時間はかかるし荷物を持っての移動には不便である。
昔の駅舎のように地上階のまま改札を通るとそのままプラットフォームへ出られるという構造のほうが便利だったと思うのだが。

こちらは駅東口である、昔はこちら側だけに駅入り口があった。



一階にはFM放送局があり「放送中」だった。



階段を二階まで登ったら市民ホールみたいなところに出てしまいまごついてしまった。

小繋駅までの切符を買う。500円だった。かなり割高だなと思う。



赤字を出さないために運賃を高めに設定しなければやっていけないだろうが、運賃が高ければ利用者は減る。
利用者が減っても経費はそんなに減らせないから、いずれまた赤字になるのだ。
鉄道ファンとしては旧東北本線は残してもらいたいのだが、運賃が高いのと自家用車で移動するほうが便利だし安上がりなのでつらいところである。


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22日目 御堂駅ー小繋駅

2012年04月13日 | 東北本線 盛岡駅~八戸駅
22日目

2011年8月30日 御堂駅ー奥中山高原駅ー小繋駅(約15.3Km)

去年の夏も暑かったが今年もかなり暑かった。
そのため真夏の期間は歩く旅を休止していた。
8月も末になり暑さも峠を越したので再び歩くことにした。

前回は御堂駅まで歩いたので、今回はこの駅がスタート地点になる。

車で御堂駅まで行き駅前に車を置いて歩き出す。
午前10時半である。



天候は晴れているのだが気温は23度前後で歩きやすい。
ひたすら国道4号線を北上する。

コスモスが咲く季節になってしまった。



ここは北上川の源流の地である。
御堂観音という社があり湧き水が北上川の源泉となっているのだ。



その御堂観音への入り口にあった民家にはなぜか郵便ポストや招き猫が飾ってあった。



途中国道を少し離れて田んぼのなかを歩く、車の騒音や排気ガスがないのだけで涼しくさわやかに感じるのだ。



東京から580Km地点になった。ここは東北本線が電化されるまで最大の難所だったところだ。

わたしが中学、高校時代に盛岡へ遊びに行くときの事をよく覚えている。
一戸駅から奥中山駅への登りにはSLの三重連だった。
この急勾配の難所のために好摩駅と北側では一戸駅で機関車の増設と切り離しが行われていた。
そのため好摩駅、一戸駅は町の規模に対して駅構内がかなり広いのだ。
そのように機関車を増設しても一気に坂を上ることが出来ず、スイッチバック方式で登っていくこともあった。

国道を歩いてみるとそのような急勾配には感じられない、もちろん車でならすいすいと通れる道である。
機関車の性能もあるだろうが当時は燃料である石炭の質が悪かったのではないのだろうか。

奥中山にあるドライブイン。



車で移動するようになってからは鉄道を利用しなくなったのだが、この路線を通るたびにこのドライブインで一休みしたものだった。
それが今ではドライブインにも寄らなくなってしまった。
道路が改良されて走りやすくなったので、途中で休憩しなくても大丈夫なのである。

わたしはは中学生のころ二戸ー盛岡間を自転車で往復したことがある。
その自転車は郵便局で集配用に使っていた中古だった。
あの当時は国道4号線はまだ舗装されておらず、盛岡近くまで行くと舗装工事をしているところだった。

思えば半世紀も前のことである、若い頃は自分が60代まで生きるなどということは想像もしなかった。

さて、
国道を少し離れて線路沿いを通り奥中山駅方面へと歩く。



いまは駅から離れたところを国道が通っているが以前は駅前の道が国道だったはずである。
いまは眠っているかのような静かな通りだった。



昼の12時だというのに道路の真ん中を歩いてもまったく平気だった、なにしろ車も人もどこにも見当たらないのだ。
しばらく行くと駅に到着、12時5分だった。



いまは奥中山高原という駅名に変わってしまっている。



たしかにここは『高原』という名がふさわしい場所である、だが観光地らしい華やかさはどこにも無い。
なにしろ駅近くの踏切名が「農場踏切」なのである。



駅の待合室では行商のおばあさんが昼食の最中だった。



いまでもこのような行商をしている人がいるということは驚きだった。
わたしが高校生の時代には通学の列車には必ず八戸方面からの行商のおばさんたちが大勢乗っていたものである。

どこの家庭でも農家でも自家用車を持ち、かなりの田舎でもスーパーマーケットやコンビニがある時代なのに行商が成り立つものだろうかと思ってしまうのだ。

本当ならこのへんで一休みしてから歩き出すのが体のために良いのだが、わたしは根がせっかちな性格なのである。

背中のディパックからパンとカップコーヒーを出して、歩きながら昼食である。
せっかちなくせに怠け者でもあるので、駅でベンチに座って休むと「ああ疲れた、今日はここまでにしておこう」などということになってしまいそうなのだ。

国道4号線最高地点を過ぎる。青森方面から「自転車旅行」の若者がやってきた。
ここは長い上り坂が続く難所である。



こんなことは若いときでなければとても出来ないだろうと思う。



カメラを向けると笑顔で「こんにちわ」と挨拶してくれた。
自分の力で長距離の自転車旅行をする若者をみると、「日本の将来も捨てたものではないなあ」とか思うのだった。

「がんばれよ、青年!」と声をかけてあげる。



ジュースや水など飲み物を持っていたなら応援の意味でプレゼントしたかったのだが、つい今しがた食べて飲んでしまったので「声援するだけ」にする。

やっと小繋駅に到着した、午後2時である。休憩なしで3時間半歩き続けたので今回はここまでとする。







小繋駅前でも自転車で旅行する若者に声をかける。



この駅は映画のロケ地にもなったところである。



駅には何冊ものノートが置かれている。
観光地に良くある「きょうは○○クンと来ました、楽しいです」というようなことが書かれているノートではない。



ノートには『命のノート』というタイトルがついているのだ。
そのタイトルにふさわしくノートには恋愛、家族、仕事、さまざまな悩みや苦しみが書かれている。
人には言えない苦しみをこの場で共有し、自分だけが苦しんでいるのではないと考えれるようにということだろう。

3月の東日本大震災のときの書き込みもあった。
震災で家族が心配になりここまで着たが、その先の交通手段が無く困っているという書き込みもあった。

無人駅だし待合室には誰もいない。ついノートをパラパラとめくり読むことになる。



列車の待ち時間が一時間近くあったが、ひとりの客も現れなかった。
ここは無人駅なので切符は国道4号線沿いの「産直・里山」というところで販売している。



上品な感じのおばあさんの手書きの切符である。



鉄道で御堂駅まで戻る。



高原にふさわしくすっきりとした青空、牧場のヘイロールが高原らしさを演出してくれる。



車で奥中山高原の温泉で汗を流してから帰宅。




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21日目 岩手川口駅ー御堂駅

2012年04月09日 | 東北本線 盛岡駅~八戸駅
21日目

2011年7月3日 岩手川口駅ー御堂駅 (約11.1Km)


さて6月になんとか仙台駅までたどりついた。

こんどは盛岡から北へのルートを歩くことにしよう。

北方面(鉄道でなら『下り』)は盛岡駅-岩手川口駅まで歩き終えている。
今日は岩手川口駅から御堂駅まで歩く予定だ。


去年の夏も暑かったが今年の夏もかなり暑い。

原発事故の影響で節電しているのでスーパーの店内も例年に比べるとさほど涼しく感じられない。
店内の照明もずいぶんと暗くなってしまったがこれでいいと思う。
いままではコンビニもスーパーもエアコンが効き過ぎだったのだ。
スーパーの店内から一歩出るとメガネが曇るほど店内を冷やしていた、照明も無駄に明るかった。
電気もガソリンも無限にあるかのように使っていたのは間違いだったのだ。

とはいえ暑い日に長距離を歩くのはしんどい。
日焼けするのもイヤなので曇りの日に歩くことにした。

自宅からは岩手川口駅までバイクで行って、駅前の駐輪場にバイクを停めて歩き出す。



前回来たときもそうだったが人影が見えない、しーんと静まりかえっている。
駅から200メートルほど歩くと旧国道4号線に出る。
いまは町を迂回するバイパス道路があるので交通量は極端に少なくなってしまった。

昔は大きな商家だっただろう家の前を通る。

川口中学校の脇には川口城跡の石碑が建っていた。



しばらく東北本線に沿って歩く。





鍛冶屋があった。



わたしが子供だったころは近所にも鍛冶屋があり鍬とかを作っていたのだが、今では鍛冶屋を探すのが難しくなってしまった。
ここも店頭に鍬や鋤が見えているから鍛冶屋だと分かるようなもので今はここでは作っていないのだろう。



沼宮内駅が見えてきた。
新幹線の停車駅でもあるので駅舎は大きく駅前も整備されている。
駅の看板を見てはじめてここが「いわて沼宮内駅」だと気がついた。
1955年に沼宮内町、川口村、御堂村、一方井村が合併して岩手町となったそうだが駅名は沼宮内のままだった。
新幹線の駅名をつけるときに旧沼宮内地区以外の人たちから不満が出たので「いわて沼宮内駅」にしたのだろうか。
どうせならシンプルに「いわて駅」にしたらよかったのに。

そういえば「花巻空港」もいつのまにか「いわて花巻空港」に名称が変わっていたっけ。

企業も市町村も合併によって社名や市町村名が長くなってしまうのは困りものである。

合併が続けば『東京朝日読売日経明治大正ハワイ・オピラニカ証券』とか『東京都南東京市西京都町東党境3丁目』などと舌を噛みそうな長ったらしい名前になってしまうかもしれない。
などとアホなことを考えながら歩いているうちに駅に着いてしまった。



駅前は人影が無くしんとしていたが、駅の中も静かだった。
立派な駅舎を作っても利用する人が少ないのは人口の少ない田舎町ではしかたないことである。
新幹線の開通を機会に地域の活性化をはかろうとするのはどの町でも同じだが、現実には新幹線建設にともなう負担が地域の経済を圧迫しているのではないだろうかと心配になる。



とは言っても駅を造らなければ過疎化がさらに進んでしまうだろう、むずかしいものだと思う。



今年(2011年)に平泉が世界遺産に登録されて岩手県の観光にはずみがつくはずだったが、東日本大震災の影響で足踏み状態の感じだ。

駅舎内に休憩所があったのでパンとバナナで昼食にする。
一休みしてまた歩き出す。

岩手町は古い民家や土蔵もありちょっとした古都の趣のある町なのだ。



町中にある柳橋の欄干に「盛岡より九里七丁」とあった。



反対側には「昭和二年十一月竣工」とある。よくこれを残していたものだと思う。

町中を抜けて国道4号線を歩く。



この時期の北東北はどこへ行っても花が咲いているので楽しい。



御堂駅すこし南側の距離表示板に東京より573.4Kmとあった。



そのすぐ脇の東北本線を見ると571Kmの表示がある。



国道と鉄道線路は近いところを走っているとはいえ東京からこれだけの距離があるのにその差は2Kmほどしかないことにちょっと驚いた。
東北本線は東京駅が起点で国道4号は日本橋が起点なのだがそれらは直線距離で600Mほどしか離れていない。
鉄道は鉄橋、トンネルなどでできるだけ直線に近いコースをとるはずだ。

だが道路は建設費のかかるトンネルは出来るだけ避けて山があれば迂回するようなコースになるだろう。

それなのに起点から600Kmちかくの距離があるというのにその差がたったの2Kmというのに驚いた。


御堂駅が見えてきた。ここは北緯40度の地点である。





御堂駅は無人駅だ。



時刻は午後2時20分、次の電車が来るまで約50分も待つことになった。



列車を待つ50分間、駅にはわたしのほか誰もいなかった。




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16日目 渋民駅ー岩手川口駅

2012年03月24日 | 東北本線 盛岡駅~八戸駅
16日目

2011年5月26日  渋民駅ー好摩駅ー岩手川口駅(約11.5Km)

東北本線に沿って盛岡から青森方面を目指して歩いている。

4月に痔の手術をしたのだが経過は順調だ。
だが医者には7月までは無理をしないようにと言われている。
気を抜いて酒を飲んだり無理な運動をしたため傷が開き大出血をして死にかけるようなこともあるのだそうだ。

経過を見るために7月までは通院が必要だと強く念をおされた。

そんなわけで自宅からそう遠くないところを歩こうというわけである。
経過はよいと言ってもやはり歩いていると少々痛みがある。
歩けばお尻の肉と皮膚が動き、手術した部分がこすれあうような感じで痛みがあるのだ。
そのため尻をかばって歩く姿勢になるので、歩き方は「すり足」状態になってしまう。
歩幅を大きくして元気よく歩くことが出来ないのだ。
まんいち具合が悪くなったらすぐに帰宅しよう。

さて、今回は渋民駅から岩手川口駅まで歩く予定である。
天気は快晴で絶好の散歩日和である。

自宅をバイクで出て北に向かい渋民駅まで行く、午前10時10分に渋民秋に到着。
駅前の駐車場にバイクを停めて歩き出す。



田植えの終わった田んぼに残雪の岩手山が映える。



線路に沿って防雪林が続く。



このあたりは岩手山方面からくる吹雪が鉄道運行の妨げになるので東北本線沿線西側にはこのような防雪林がある。



ところどころに新奥の細道の案内表示がある。



これなら迷わず歩けそうだ。
『夜更森』なんてちょっと魅力的な名前のところもある、往復6キロだ。



車なら気軽に立ち寄れるのだが歩きでは寄り道は決断がいる。
今回はパスしてそのうち車で来てみようと思う。



この川は八幡平の松川から流れてきているものだろう。



そうだとすれば40年ほど前までこの川は赤茶色に濁っていたはずだ。
当時は八幡平の硫黄鉱山の排水で川が汚染されていたのだ。

好摩駅が見えてきた。
東北本線が電化されるまでこの駅には蒸気機関車が何台も並んでいた。
この駅は東北本線と花輪線の接続駅だし、東北本線はこの先の奥中山駅までの長い登り坂がある。
花輪線も八幡平方面への長い登り坂があるので、この好摩駅で蒸気機関車を連結してから山を登るのだ。

奥中山でも花輪線でもSL三重連はよく見られたものだった。



電化されて蒸気機関車の姿が無くなった好摩駅は広すぎる構内をもてあましているように見える。
駅前にある、その昔は旅館だったと思われる建物。



遠方から列車で来て、その日に接続列車が無ければ駅前の旅館に泊まることになるのだから主要駅の駅前にはこのような旅館があった。
そういえばこの駅でも「駅弁」が売られていたはずだ。蒸気機関車も旅客もいなくなったいまの様子からは想像することもむずかしい。

駅舎は新築中だった。



以前のちょっと裏寂れたような感じの駅舎の雰囲気は好きだったがこれも時代の流れだろう。

駅舎の写真を撮るだけにして北に向かって歩く。



天気は上々だが歩いていると日差しが強いのがちょっとツライ。

最近はあまり見かけなくなった『この先踏み切り』の表示。



錆び具合とSLの絵が年代を感じさせる。




遠くに姫神山を望む、菜の花の黄色と牧草の緑が鮮やかだ。

ときどき電車が通る。ついカメラを向けてしまう。





マンホールの蓋を見つけるとシャッターを押す。



すずらんが名物ということなのだろうか、中央の絵は姫神山をデザインしたものだろうな。

この辺は国道4号線からかなり離れたところに線路がある。
線路沿いにある道は舗装はされているが農道のようで車も人も通らない。

畑と田んぼが続く道を歩いていくと、いきなり道が行き止まりになってしまった。

どうやら崖崩れが多発するので工事を途中で止めたという感じだ、どうりで人も車も通らないわけだ。

引き返すのもイヤなので岩がごろごろしているけもの道を抜けていく。

やっと岩手川口まで来た。
山桜が「はい、見ごろは今日までですよ」と言いながら咲いている。



北東北の春は終わり、これから夏に入っていくのだ。



岩手川口駅に到着。
昔風の駅舎である。意外に感じるほど駅前の広場が広い。



駅にも駅前にも人影が無く静かだった。



電車で渋民まで戻る。







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15日目 厨川駅ー渋民駅

2012年03月22日 | 東北本線 盛岡駅~八戸駅
15日目

2011年5月23日

厨川駅ー巣子駅ー滝沢駅ー渋民駅(約11Km)

2010年は盛岡を起点として歩き始めて、なんとか宮城県の県境までたどり着いた。

さて2011年はなんとか仙台まで行きたい。できることなら福島あたりまで行けたらいいなあと考えていたら・・

3月11日に突如として大地震。
『東日本大震災』が発生したのである。
さいわい家族や親戚にも被害は無くみんな無事だったし自宅もまったく被害がなかった。
停電もあり電話もまったく通じない日が続いたのでみんなのことが心配だったのだが、列車もバスも運転中止だしガソリンが無いため救援に駆けつけることも出来ず、ただラジオの情報に聞き入るしかなかったのだった。

それにしても地震と津波のために2万人近くの人の命が一瞬にして奪われるとは、なんということであろう。

震災後も数ヶ月間は余震が続いた。
とくに3月は数時間おきにグラグラっとくるで不気味で落ち着かなかった。

今年に入ってからお尻の具合が悪くなってきていた。
薬でなんとか誤魔化していたが痔の症状は悪くなるばかりで、痛みのために歩くことも座ることもままならない状態になった。

意を決して4月初めに痔の手術をした。
手術後は散歩なども出来ない日々が続いていたが、5月に入ってから近所を少し歩いたりして身体を慣らしていた。

あまり暑くならないうちに東北本線沿線を歩く旅を再開したい。

そこでIGR岩手銀河鉄道を北に向かって歩いてみることにした。
東北新幹線の八戸までの開業に伴いこの路線が民営化されたが、2002年まではJR東北本線だったのだ。
もっとも私の年代のものには『国鉄、東北本線』と言ったほうがしっくりくるのだが。



10時30分に厨川駅から北方面へ向かって歩き出す。
10分ほど歩くと厨川の新幹線の跨橋線を渡る。



東北農業試験場の脇を通ると菜の花が満開だった。



線路沿いを巣子方面へと歩く。

その昔ここは狭い道路で車もほとんど通らなかった。



この葉の木沢踏切はその当時は車がやっと一台通れるだけの踏み切りだったが今は改修されて広くなっている。
まわりは住宅地になってしまったが田んぼや畑も残っているので田植えをする姿を見かけた。
国鉄時代にはなかった新駅『巣子駅』に到着。



最近の駅は地区の集会所も兼ねた造りになっているのがある。
駅を新設する為に税金を投入しているだろうから、多目的に使えるようにしようということだろう。



滝沢東小学校前を通る。町の中心部は学校を建てるだけの広い土地が無いこともあり最近の学校は住宅地からかなり離れたところに建っている。通学する子供たちは大変だろうと思う。

そうこうしているうちに『滝沢駅』に着いた。






正午になったので駅前のローソンでサンドイッチを買って食べようと思ったが座れる場所が無い。



サンドイッチを持ったままトボトボと歩き出すことになった。



左手に残雪の岩手山と『岩手県立大学』を見ながら進むと『森林公園』があった。





この公園の中へ入ると実に静かだし、外の日差しがウソのように涼しい風が吹いている。



ベンチに腰掛けてサンドイッチをほおばる。

昼食休憩を終えて元気を取り戻したので歩きだす。
しばらく行くと『盛岡大学』の前を通り過ぎる。



県立大学といい盛岡大学といい盛岡市の中心部からはずいぶん離れて建っている。
県立大学は滝沢駅から歩いて行ける距離だが盛岡大学は遠い。
このあたりは冬は積雪も多い、ずいぶん不便なところに大学を造ったものだと思う。



やっと渋民駅に着いた。





ここは詩人、石川啄木の故郷だ。



渋民駅は町の中心から外れた不便なところにある。
これだと利用する人は少ないだろうなと思わせる駅だ。
だが観光地だからなのか無人駅ではないのだった。
駅前には清潔なトイレも整備されている、新奥の細道の案内板もある。

プラットホームには石川啄木の顔出し看板があった。



かなりショボイ感じだが記念に写真を撮るものいいかも。



IGR銀河鉄道で厨川駅まで戻る。





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