東北本線,東海道本線沿線 全線全駅歩き旅のブログ

旧東北本線と田沢湖線,花輪線,釜石線,八戸線,山田線、北上線、東海道本線、奈良線、大船渡線沿線歩き旅の記録。

24日目 二戸駅ー三戸駅

2012年04月26日 | 東北本線 盛岡駅~八戸駅
2012年04月15日(日)

二戸駅 ==> 三戸駅 歩いた距離21Km

東北本線に沿って歩く旅も3年目に突入だ。

冬の間は歩き旅をせずにいたがやっと暖かくなってきたので、再開することにした。

今年は北は青森まで南は福島まで歩きたい。
宇都宮まで到達できればとも思うが、怠け者なのではたしてどうなるかわからない。

北方面へは昨年に二戸駅まで歩いた。

今回は二戸駅から三戸駅そして八戸駅までを2日間で歩く計画だ。

今回のスタート地点である二戸駅までは車で行くことにしたのだが、
朝寝坊してしまったので二戸駅に着いたのは10時だった。

駅前の有料駐車場に車を置いて歩き出す。
この駐車場は24時間で200円と格安である。
だが車を停めてから向かい側に無料の駐車場があるのに気づいてしまった。
ちょっと損をした気分だ。

隣の斗米駅の手前にあるスーパーマーケット「ジョイス」でパンを買う230円なり。
飲み物は自宅から持ってきた。



晴れてはいるが風はかなり冷たい、歩いていると汗をかくほどだがウィンドブレーカーを脱ぐと寒い。
着たり脱いだりを繰り返しながら汗をかき過ぎないようにする。



このあたりは昔の農家などは姿を消してしまっている。
旧道の交差点に「昭和十一年三月 道路開鑿 記念碑」というのが建っていた。



昭和十一年にこの”細い道路”が出来て、この記念碑を建てたものだろう。
それならば、それ以前は田んぼのあぜ道程度の道路しかなかったのだろうか。
車のすれ違いも難しいようなこの狭い道だが当時は記念碑を建てるほどの大事業だったのだろう。

と考え事をして歩いていたら、
うっかり斗米駅を通り過ぎるところだった。
プラットホームだけがある殺風景な駅だった。





国道を歩かずに旧道を歩くようにする、こちらの道のほうが少しだが金田一温泉駅に近いようだ。



奥州街道の案内標識がある。
その脇に「トトメキの追分石」というのがある。
享保20年と宝暦2年に飢饉の死者を供養する目的で建てられたものとのことだ。
北東北は飢饉との戦いの歴史の地である。



近くには湧き水もある。そばにコップがあるとことろを見ると飲める水なのだろう。



金田一駅南側の踏み切りから駅を見る。



11時30分に金田一温泉駅に到着。





無人駅で駅前には2台のタクシーがいたが、客の姿はない。
トイレに入ると昔懐かしいとっぽん式のトイレだった。
うっかり物を落としたら大変だ、慎重に用を足す。
金田一温泉は廃れるいっぽうのようでパンフレットには「休業中」と書いてあるが実際は廃業してしまった旅館が数軒あった。
近隣に観光施設が無いのだから温泉だけでの集客は難しいだろうなと思う。
駅の写真を撮ってから休憩なしで歩き出す。

金田一駅付近で東北新幹線と東北本線が交差する。
下を流れるのは馬渕川だ。



昼になったので川の見える旧道へ入り線路下で買ってきたパンを食べる。
食べ終えるとすぐに歩き出す。

道路の温度計は17度だ、歩くには最適な気温である。



ここはその昔は鉄道の線路があったところだ、左側は国道4号線である。
当時の東北本線は単線だった。



トンネルが出来て複線化したので使われなくなったのだ。

岩手県と青森県の県境まで来た。
現在県境に架かる橋は「青岩橋」という名前だが、現在の橋はその昔は東北本線の鉄橋だった。


旧青岩橋から新青岩橋を見る。
新青岩橋はその昔は鉄道の鉄橋だったはずだ。



わたしは高校生の頃、この橋を通る客車の窓から写真を撮ったことがある。



当時はもちろん蒸気機関車だった、八戸から二戸(当時の駅名は北福岡駅)へ向かう列車だったが途中の三戸駅で『特急列車のすれ違いのため2時間待ち』ということがあったことを記憶している。
のんびりしていた時代とはいえ『2時間待ち』だったとは、いま思うと驚くばかりだ。

その100メートルほど上流に旧国道の「青岩橋」が架かっている。
現在は老朽化してしまったため車両は通れなくなっている。
その「旧、青岩橋」へ向かう道にあった大きなりんごのモニュメント。ここはりんごの産地である。



「旧、青岩橋」のたもとには昭和36年竣工とある。



車の通行が出来ないほど老朽化している。



だが、目時駅にあった昔の写真には昭和10年竣工とあった。
たぶん昭和10年に出来て36年に改修したのではないかと思う。

それにしても橋の道幅が狭い。
大型トラックやバスのすれ違いは無理だろう、しかも歩道が無い。
当時は車両も小さかったし、歩行者に対する配慮など無い時代だったのだ。

橋を渡ってすぐのところにはドライブインだった建物が残っている。
道路が付け替えられると旧道だったところはゴーストタウンになってしまう。

目時駅は国道からかなり入ったところにある。

午後01時30分目時駅到着。

こに目時駅も無人駅だ。駅舎内はよく清掃されていて快適である、10分ほど休憩する。
目時駅から三戸駅へ線路は山の中を通り、トンネルを抜けていく。
道があるのかわからないので国道4号線を通って三戸駅まで歩くことにする。





今日は消防団の訓練?演習日なのか駅前には消防車と消防団員が集まっていた。




三戸町はその昔なんどか車で来たことがあるのだが、うかつにも駅がどの位置にあるのか知らなかった。

三戸はシックな城下町である。



町中に入ってからコンビニや通りがかりの人に道を聞きながらたどり着いた。

三戸駅に着いたのは午後4時だった。





まだ陽は高いのだが今日はここまでとする。
右足の薬指に強い痛みがあるし、両足のふくらはぎが筋肉痛で悲鳴をあげている。

電車の時刻まで30分待ち時間があったので駅前を少し歩く。





とてもモダンな民家が残っている。



国登録有形文化財 村井家住宅とある。
なるほど文化財として残しておきたくなる建物である。

二戸駅まで電車で戻る。
三戸駅は有人駅なのできっぷを買い、改札してからプラットホームへ。



靴を脱いで右足薬指をみるとひどい血豆が出来ていた。さいわい皮膚は破れていない。
車で金田一温泉の日帰り温泉で汗を流してから帰宅する。
自宅へ戻ってから血豆になった部分に針を突き刺すと、ぴゅーっと血が噴き出した。



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23日目 小繋駅ー二戸駅

2012年04月19日 | 東北本線 盛岡駅~八戸駅
2011年9月5日 


小繋駅 ==> 小鳥谷駅 ==> 一戸駅 ==> 二戸駅(約20.7Km)

今日は小繋から二戸まで歩く予定だ。

車で自宅を出たのが遅かったので小繋駅には10時50に着いてしまった。
駅前の駐車場に車を停めて歩き出す。

快晴で気温は27度と高いがさほど暑くは感じられいなく歩く旅には気持ちの良い日だ。
国道4号を北上する。



国道と東北本線は寄り添うように走っている。
すぐに小繋トンネルへとさしかかる、車でならこのトンネルを通るのだが歩きなので脇の歩行者用トンネルを歩く。



小繋トンネルは短いが歩道が無いのだ。通学する子供たちのためにこの歩行者用トンネルが作られたのだろう。
中はひんやりとしてとても涼しい。





しばらく歩くと今度は「笹目子トンネル」にさしかかる。
このトンネルの脇には旧道が通っているので少し遠回りになるがそちらを歩く。



道の両側から樹木がせりだしてきていて、ジャングル状態になっている。
笹目子トンネル」が出来るまでは崖に沿ったこのくねくねした狭い道路が「国道4号」だったのだ。



と、道の真ん中にカマキリがいるのを発見。
まったく車が通らないので道の中央でじっとしている。



10メートル先には餌を捕まえたカマキリもいた。



どちらもカメラを数センチまで近づけても微動だにしなかった。

国道4号線に戻り途中の産直所で昼休みとする。
ここは車で4号線を通るときは必ず立ち寄る店だった。
見ると小鳥谷祭りのポスターが貼ってある、もう秋祭りのシーズンになっている。



別の壁にはベンチャーズの公演のポスターもあった。
ベンチャーズがいまだに日本でツアーをしているというのも驚きである。
しかしチケット代金が5千円とは、ちょっと高いんじゃあないの?

今回も昼食はパンと缶コーヒーだけで済ます。
食べ終えるとすぐに歩き出す。

小鳥谷の町に入る。
この町もやっとバイパス道路が完成して町の中はぐんと静かになっていた。



まるで無人の町かと思うような静けさである。



午後1時に小鳥谷駅に到着、この駅も無人駅だ。



無人駅であってもきちんと清掃や管理がされているのは、「さすがはニッポン」と感心してしまう。
途中の踏切から小繋駅を振り返る。



ひたすら国道4号を北上する。
馬渕川沿いを歩くとまだ夏だというのに涼しい風が吹いてくる。



一戸町への入り口で東京から600キロの標識を見つけた。



去年から東北本線沿線沿いを歩き始めておおよそ250キロメートル歩いたことになる。
だが、東京から青森までは740キロもあるのだと思い出し「えーっ、あと500キロもあるのか・・」とめげてしまう。

日本の最南端から最北端まで日本縦断徒歩旅行を成し遂げた人が何人もいるのだ。
しかも彼らはわたしのように日にちをおいて気が向いた日だけ歩くというような旅ではなく、テント生活をしながら一ヶ月ものあいだ毎日歩き続けてたのである。
恐ろしいほどの精神力と体力である。
それを思うとわたしの旅の荷物はカメラだけだし、疲れたら電車に乗って自宅に帰ってしまうという旅なのだ。
彼らから見たらわたしのしていることは旅ではなくて「散歩」でしかないだろうなあ。
だからといって「無理をしないこと」が肝心である。
60年間まったくスポーツと縁が無かったわたしにとっては、この「散歩」でさえも苦行なのである。

おや「奥州街道」の標識がある。



だが矢印の先は”けものみち”のようで草に覆われていて道とはいえない状態だ。
隣には「百姓一揆結集の地」ともある。
その昔から東北地方は冷害、飢饉で苦しんできたのだ。

やっと一戸の町中へと入ってきた。駅近くの馬渕川に架かる「碧橋(みどりはし)」にはこのような銅像があった。



なんだか昭和40年代を思わせるポーズである。よく壊されもせずあるものだと変に感心してしまう。


一戸駅の構内は奥中山の長い坂を登るために蒸気機関車の増結などしたもの時代があるのでかなり広い。



だが、いまでは構内は雑草だけが元気に?生えている。

駅前も近郊へのバスの発着場にもなっているので町の規模のわりには広いほうだ。
ちゃんとキオスクもある。



待合室の中央にはストーブがある。夏の間もそのまま置いてあるのだ、あと1ヶ月もすればストーブで暖を取りたくなるほど冷え込んでくるのである。



お役所の建物という雰囲気の駅舎の写真を撮って、10分ほどベンチで休んでまた歩き出す。



午後2時15分である。
歩いていると靴の先がなにかにひっかかる感じがする。
見ると右足の靴の底が剥がれかかっているではないか。
剥がれかかった先の部分が地面にひっかかるのでかなり歩きにくいのだ。



今日はここまでにして一戸駅まで引き返えせば良かったが歩き続けた。

ホームセンターがあれば接着剤を買って応急処置ができるのだが、あいにくホームセンターは見当たらない。
コンビ二もとっくに通り過ぎてしまった。
右足だけをまるで行進するときのように大きく上げてつま先が地面をこすらないようにしながら歩くのだが、とても歩きにくくて疲れるのだった。

また、旧国道を歩く。



以前の国道4号線はこんなにも道幅が狭かったのかと思う。
この道幅だと普通車なら問題なくすれ違えるが大型車のすれ違いは無理そうだ。

やっと二戸市にたどり着いた。



男神岩と女神岩が正面に見えて歓迎してくれる。



とんがった形の岩が男神岩である。

遺跡の発掘をしている現場を横に見ながら駅を目指す。



やっと「二戸駅」が見えてきた。



午後4時になってしまった、今日は約5時間歩き続けたことになる。
一日で30Km歩くことが目標だが、あまり暑くない日の午前7時に歩き出して途中休憩をしながら午後7時まで歩くのであればなんとか出来そうである。



この駅も「いわて沼宮内駅」と同じようなつくりである。
最近の流行なのだろうが新しく作られる空港ビルも駅ビルもみんなデザインが同じように見えてしまう。
二階部分に切符売り場や改札があるのも同じような構造だし、一階部分がみやげ物店や地域の集会所などに使われるようなつくりになっている場合が多い。
たしかにエレベーターは設置されているが、客はいったん2階まで行き改札を通ったらまた地上階まで降りて列車に乗り込むことになるので、時間はかかるし荷物を持っての移動には不便である。
昔の駅舎のように地上階のまま改札を通るとそのままプラットフォームへ出られるという構造のほうが便利だったと思うのだが。

こちらは駅東口である、昔はこちら側だけに駅入り口があった。



一階にはFM放送局があり「放送中」だった。



階段を二階まで登ったら市民ホールみたいなところに出てしまいまごついてしまった。

小繋駅までの切符を買う。500円だった。かなり割高だなと思う。



赤字を出さないために運賃を高めに設定しなければやっていけないだろうが、運賃が高ければ利用者は減る。
利用者が減っても経費はそんなに減らせないから、いずれまた赤字になるのだ。
鉄道ファンとしては旧東北本線は残してもらいたいのだが、運賃が高いのと自家用車で移動するほうが便利だし安上がりなのでつらいところである。


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22日目 御堂駅ー小繋駅

2012年04月13日 | 東北本線 盛岡駅~八戸駅
22日目

2011年8月30日 御堂駅ー奥中山高原駅ー小繋駅(約15.3Km)

去年の夏も暑かったが今年もかなり暑かった。
そのため真夏の期間は歩く旅を休止していた。
8月も末になり暑さも峠を越したので再び歩くことにした。

前回は御堂駅まで歩いたので、今回はこの駅がスタート地点になる。

車で御堂駅まで行き駅前に車を置いて歩き出す。
午前10時半である。



天候は晴れているのだが気温は23度前後で歩きやすい。
ひたすら国道4号線を北上する。

コスモスが咲く季節になってしまった。



ここは北上川の源流の地である。
御堂観音という社があり湧き水が北上川の源泉となっているのだ。



その御堂観音への入り口にあった民家にはなぜか郵便ポストや招き猫が飾ってあった。



途中国道を少し離れて田んぼのなかを歩く、車の騒音や排気ガスがないのだけで涼しくさわやかに感じるのだ。



東京から580Km地点になった。ここは東北本線が電化されるまで最大の難所だったところだ。

わたしが中学、高校時代に盛岡へ遊びに行くときの事をよく覚えている。
一戸駅から奥中山駅への登りにはSLの三重連だった。
この急勾配の難所のために好摩駅と北側では一戸駅で機関車の増設と切り離しが行われていた。
そのため好摩駅、一戸駅は町の規模に対して駅構内がかなり広いのだ。
そのように機関車を増設しても一気に坂を上ることが出来ず、スイッチバック方式で登っていくこともあった。

国道を歩いてみるとそのような急勾配には感じられない、もちろん車でならすいすいと通れる道である。
機関車の性能もあるだろうが当時は燃料である石炭の質が悪かったのではないのだろうか。

奥中山にあるドライブイン。



車で移動するようになってからは鉄道を利用しなくなったのだが、この路線を通るたびにこのドライブインで一休みしたものだった。
それが今ではドライブインにも寄らなくなってしまった。
道路が改良されて走りやすくなったので、途中で休憩しなくても大丈夫なのである。

わたしはは中学生のころ二戸ー盛岡間を自転車で往復したことがある。
その自転車は郵便局で集配用に使っていた中古だった。
あの当時は国道4号線はまだ舗装されておらず、盛岡近くまで行くと舗装工事をしているところだった。

思えば半世紀も前のことである、若い頃は自分が60代まで生きるなどということは想像もしなかった。

さて、
国道を少し離れて線路沿いを通り奥中山駅方面へと歩く。



いまは駅から離れたところを国道が通っているが以前は駅前の道が国道だったはずである。
いまは眠っているかのような静かな通りだった。



昼の12時だというのに道路の真ん中を歩いてもまったく平気だった、なにしろ車も人もどこにも見当たらないのだ。
しばらく行くと駅に到着、12時5分だった。



いまは奥中山高原という駅名に変わってしまっている。



たしかにここは『高原』という名がふさわしい場所である、だが観光地らしい華やかさはどこにも無い。
なにしろ駅近くの踏切名が「農場踏切」なのである。



駅の待合室では行商のおばあさんが昼食の最中だった。



いまでもこのような行商をしている人がいるということは驚きだった。
わたしが高校生の時代には通学の列車には必ず八戸方面からの行商のおばさんたちが大勢乗っていたものである。

どこの家庭でも農家でも自家用車を持ち、かなりの田舎でもスーパーマーケットやコンビニがある時代なのに行商が成り立つものだろうかと思ってしまうのだ。

本当ならこのへんで一休みしてから歩き出すのが体のために良いのだが、わたしは根がせっかちな性格なのである。

背中のディパックからパンとカップコーヒーを出して、歩きながら昼食である。
せっかちなくせに怠け者でもあるので、駅でベンチに座って休むと「ああ疲れた、今日はここまでにしておこう」などということになってしまいそうなのだ。

国道4号線最高地点を過ぎる。青森方面から「自転車旅行」の若者がやってきた。
ここは長い上り坂が続く難所である。



こんなことは若いときでなければとても出来ないだろうと思う。



カメラを向けると笑顔で「こんにちわ」と挨拶してくれた。
自分の力で長距離の自転車旅行をする若者をみると、「日本の将来も捨てたものではないなあ」とか思うのだった。

「がんばれよ、青年!」と声をかけてあげる。



ジュースや水など飲み物を持っていたなら応援の意味でプレゼントしたかったのだが、つい今しがた食べて飲んでしまったので「声援するだけ」にする。

やっと小繋駅に到着した、午後2時である。休憩なしで3時間半歩き続けたので今回はここまでとする。







小繋駅前でも自転車で旅行する若者に声をかける。



この駅は映画のロケ地にもなったところである。



駅には何冊ものノートが置かれている。
観光地に良くある「きょうは○○クンと来ました、楽しいです」というようなことが書かれているノートではない。



ノートには『命のノート』というタイトルがついているのだ。
そのタイトルにふさわしくノートには恋愛、家族、仕事、さまざまな悩みや苦しみが書かれている。
人には言えない苦しみをこの場で共有し、自分だけが苦しんでいるのではないと考えれるようにということだろう。

3月の東日本大震災のときの書き込みもあった。
震災で家族が心配になりここまで着たが、その先の交通手段が無く困っているという書き込みもあった。

無人駅だし待合室には誰もいない。ついノートをパラパラとめくり読むことになる。



列車の待ち時間が一時間近くあったが、ひとりの客も現れなかった。
ここは無人駅なので切符は国道4号線沿いの「産直・里山」というところで販売している。



上品な感じのおばあさんの手書きの切符である。



鉄道で御堂駅まで戻る。



高原にふさわしくすっきりとした青空、牧場のヘイロールが高原らしさを演出してくれる。



車で奥中山高原の温泉で汗を流してから帰宅。




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21日目 岩手川口駅ー御堂駅

2012年04月09日 | 東北本線 盛岡駅~八戸駅
21日目

2011年7月3日 岩手川口駅ー御堂駅 (約11.1Km)


さて6月になんとか仙台駅までたどりついた。

こんどは盛岡から北へのルートを歩くことにしよう。

北方面(鉄道でなら『下り』)は盛岡駅-岩手川口駅まで歩き終えている。
今日は岩手川口駅から御堂駅まで歩く予定だ。


去年の夏も暑かったが今年の夏もかなり暑い。

原発事故の影響で節電しているのでスーパーの店内も例年に比べるとさほど涼しく感じられない。
店内の照明もずいぶんと暗くなってしまったがこれでいいと思う。
いままではコンビニもスーパーもエアコンが効き過ぎだったのだ。
スーパーの店内から一歩出るとメガネが曇るほど店内を冷やしていた、照明も無駄に明るかった。
電気もガソリンも無限にあるかのように使っていたのは間違いだったのだ。

とはいえ暑い日に長距離を歩くのはしんどい。
日焼けするのもイヤなので曇りの日に歩くことにした。

自宅からは岩手川口駅までバイクで行って、駅前の駐輪場にバイクを停めて歩き出す。



前回来たときもそうだったが人影が見えない、しーんと静まりかえっている。
駅から200メートルほど歩くと旧国道4号線に出る。
いまは町を迂回するバイパス道路があるので交通量は極端に少なくなってしまった。

昔は大きな商家だっただろう家の前を通る。

川口中学校の脇には川口城跡の石碑が建っていた。



しばらく東北本線に沿って歩く。





鍛冶屋があった。



わたしが子供だったころは近所にも鍛冶屋があり鍬とかを作っていたのだが、今では鍛冶屋を探すのが難しくなってしまった。
ここも店頭に鍬や鋤が見えているから鍛冶屋だと分かるようなもので今はここでは作っていないのだろう。



沼宮内駅が見えてきた。
新幹線の停車駅でもあるので駅舎は大きく駅前も整備されている。
駅の看板を見てはじめてここが「いわて沼宮内駅」だと気がついた。
1955年に沼宮内町、川口村、御堂村、一方井村が合併して岩手町となったそうだが駅名は沼宮内のままだった。
新幹線の駅名をつけるときに旧沼宮内地区以外の人たちから不満が出たので「いわて沼宮内駅」にしたのだろうか。
どうせならシンプルに「いわて駅」にしたらよかったのに。

そういえば「花巻空港」もいつのまにか「いわて花巻空港」に名称が変わっていたっけ。

企業も市町村も合併によって社名や市町村名が長くなってしまうのは困りものである。

合併が続けば『東京朝日読売日経明治大正ハワイ・オピラニカ証券』とか『東京都南東京市西京都町東党境3丁目』などと舌を噛みそうな長ったらしい名前になってしまうかもしれない。
などとアホなことを考えながら歩いているうちに駅に着いてしまった。



駅前は人影が無くしんとしていたが、駅の中も静かだった。
立派な駅舎を作っても利用する人が少ないのは人口の少ない田舎町ではしかたないことである。
新幹線の開通を機会に地域の活性化をはかろうとするのはどの町でも同じだが、現実には新幹線建設にともなう負担が地域の経済を圧迫しているのではないだろうかと心配になる。



とは言っても駅を造らなければ過疎化がさらに進んでしまうだろう、むずかしいものだと思う。



今年(2011年)に平泉が世界遺産に登録されて岩手県の観光にはずみがつくはずだったが、東日本大震災の影響で足踏み状態の感じだ。

駅舎内に休憩所があったのでパンとバナナで昼食にする。
一休みしてまた歩き出す。

岩手町は古い民家や土蔵もありちょっとした古都の趣のある町なのだ。



町中にある柳橋の欄干に「盛岡より九里七丁」とあった。



反対側には「昭和二年十一月竣工」とある。よくこれを残していたものだと思う。

町中を抜けて国道4号線を歩く。



この時期の北東北はどこへ行っても花が咲いているので楽しい。



御堂駅すこし南側の距離表示板に東京より573.4Kmとあった。



そのすぐ脇の東北本線を見ると571Kmの表示がある。



国道と鉄道線路は近いところを走っているとはいえ東京からこれだけの距離があるのにその差は2Kmほどしかないことにちょっと驚いた。
東北本線は東京駅が起点で国道4号は日本橋が起点なのだがそれらは直線距離で600Mほどしか離れていない。
鉄道は鉄橋、トンネルなどでできるだけ直線に近いコースをとるはずだ。

だが道路は建設費のかかるトンネルは出来るだけ避けて山があれば迂回するようなコースになるだろう。

それなのに起点から600Kmちかくの距離があるというのにその差がたったの2Kmというのに驚いた。


御堂駅が見えてきた。ここは北緯40度の地点である。





御堂駅は無人駅だ。



時刻は午後2時20分、次の電車が来るまで約50分も待つことになった。



列車を待つ50分間、駅にはわたしのほか誰もいなかった。




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20日目 松島駅ー仙台駅

2012年04月06日 | 東北本線 花泉駅~仙台駅


2011年6月6日(月)晴れ

松島駅 午前6時20分 - 塩釜駅 午前9時50分 約11.6Km

きょうは今回の目的駅の仙台駅まで歩く予定だ。

距離はおおよそ27キロで、いままで一日で歩いた距離としてはもっとも長い。
普段スポーツで鍛えている人とは違いカウチポテト生活をしているジイさんには少々長い距離のような気がするがやってみるしかない。
さいわい快晴である。
雨より快晴の方がもちろん嬉しいが、気温も上がるので熱中症にならないように気をつけなければならない。

午前5時過ぎに起きだしてコンビニでサンドイッチとカンコーヒー、サラダを買って朝食にする。
ここのコンビニの駐車場はかなり広い。大型トラックが何台も停まっている。どうやらトラックの運転手もここで仮眠をとっているようだ。

コンビニの店内は大震災の復旧作業に向かう作業員たちで込み合っていた。
車のナンバープレートを見ると関東、関西からの車が多い。



午前6時20分。朝食を終えてさっそく歩き出す。
まだ朝の6時すぎだというのに道路は車で渋滞している。自衛隊の車両が何台も被災地へと向かっていく。





有名な「五大堂」に立ち寄ってみた。



松島の風景を見ると「ほんとうに津波があったんだろうか?」と思いたくなるほど穏やかなものだった。



だが観光船乗り場付近の様子を見ると桟橋は壊れているし、防波堤や遊歩道は浸水している。



松島や塩釜付近では陸地が地震のため70センチ以上も沈下したという。

国道45号線を仙台方面へと向かって歩くのだが歩道が無い区間があるのだ。
しかも道路の幅が狭いところなのに交通量が多い。車をよけるようにしながら歩く。



利府町へと入る。
右手に陸前浜田駅が見えたがこれは「仙石線」の駅だから写真だけ撮って立ち寄らないことにする。
この区間は仙石線と東北本線が平行して走っている。
仙石線の列車は石の森章太郎の漫画「仮面ライダー」「サイボーグ009」などのキャラクターが描かれている、マンガッタンライナーというのだそうだ。

石巻市に近づくと津波被害の惨状がそこかしこに見えてくる。

ここは真新しい歩道が整備されていた。



並行する鉄道線路は路盤も信号機なども新しいし新しかったので、地震のあとに作り直したものだろう。

歩道を歩きながらふと下を見ると海中に「カーブミラー」が立っていた。



以前はあの部分に道路があったのだろうがカーブミラーを残したままで新たに高い位置に歩道を作ったものらしい。

漁港だったところは無残な姿のままだった。復旧はまだ先のことになりそうだ。





海から道路を越えて船が流されてきている、ここも鉄道線路の路盤は新しく作り直したもののようだ。

宅配のトラックやボートが物置などと手付かずのまま放置されていた。



道路標識も津波で曲がったままだ。



いよいよ塩釜市内に入る。



国道45線を歩いているだけでは津波の被害があったとは想像できないほどだが、一歩海側へ向かうと倉庫も住宅も壊れていてる、しかも地盤沈下のため道路に海水が上がってきている。

これは鉄道の高架の橋脚だが高さ2メートルほどのところに津波の跡が残っていた。



どこを見ても津波の泥の跡が残っている。



仙石線の東塩釜駅の前にはボートがひっくり返ったまま放置されていた。

塩釜の中心部に入る。
本塩釜駅近くの鉄道線路橋の路盤は津波でえぐられている。

道路の向こう側の店舗の壁に残された傷から一階部分は完全に水没したのだということがわかる。
観光船乗り場も壊れたままだった。観光施設のマリンゲート塩釜は一部で営業を再開していたようだが観光客が戻ってくるには1年はかかるのではないだろうか。

海岸から500メートルほどの町中でもまだこのように壊れた車が置き去りにされている。



仙石線の本塩釜駅を遠くに見ながら「東北本線の塩釜駅」を目指して歩く。

カンカン照りの快晴なので気温がぐんぐんと上がってきた。
塩釜の中心部では電気が復旧していないの区域があり信号機が作動していない。
交差点では警察官が交通整理をしていた。

塩竈神社付近を通る。
このあたりは津波の影響どころか地震の影響も顕著には見られない。
道路も普段と同じような状態なので、ここでは液状化も起こらなかったようだ。
まさに「あの津波さえこなければ・・」と思ってしまう。



塩竈神社へも寄ってみたかったが暑さと、あの石段を登るのかと思いあっさりとあきらめる。



塩釜神社付近の裏道には小さな祠もあり木陰の涼しい風とともに疲れた身体を癒してくれる。



午前9時50分、やっと塩釜駅に到着。





駅前に自転車が溢れているのは都会の駅の証拠である。






塩釜駅 午前10時 - 国府多賀城駅 午前10時25分 約2.0Km

塩釜駅から国府多賀城駅までは住宅地のなかの道を歩くことになる。
家が重なり合い鉄道線路が見えなくなってしまう、とうとう道に迷ってしまった。
とおりすがりのおばあさんに道を尋ね、なんとか駅にたどり着く。



国府多賀城駅は住宅地に新しく建てられた駅という雰囲気でモダンな造りの駅舎だった。
駅に隣接して「東北歴史博物館」があるのだが見学はパスする。
そのうちゆっくり見に来よう。



国府多賀城駅 午前10時30分 - 陸前山王駅 午前10時50分 約1.6Km

国府多賀城駅を過ぎてすこし行くと瓦礫置き場があった、ものすごい量である。



どうやらここは市の公園だったところのようだが、いまでは震災の瓦礫が小山のように積み上げられている。



鉄道はいまだに一部区間が不通のままだ。線路がすっかり錆びついている。



新興住宅地と田んぼが交互に現れる道を歩く。

陸前山王駅 午前10時50分- 岩切駅 午前11時25分 約2.4Km

塩釜駅からこの岩切駅まで6キロほどしかないのだが松島駅から塩釜駅までの約11.6キロが長かったのと、暑さのせいでだんだん歩く力が無くなってきた。

気がつくとトボトボと歩いている。もう4時間半も休憩なしで歩き続けているのだから疲れるのは当然である。
私は物事を始めると休まずに一気にやってしまうという性格なのだ。
本を読むときでも読み始めると一気に最後まで読むというようなことをする。
そのため夜を徹して読み、気がついたら朝になっていた。などということが何度もある。

だがこれでは身体がもたない。岩切駅に着いたらひとやすみしよう。

やっと岩切駅に到着した。



この駅には改札の前に客が休めるようにベンチがあった。
これはとてもありがたい、さっそくひとやすみすることにした。
となりのコンビニでコーヒーとワッフルを買ってベンチで食べながらしばらく休む。

靴を脱いで足を投げ出して座っていると、隣にいた女性が白い目で見る。だが少しでも足の疲労を回復させたいのだ。

ここでは30分休憩をして、また歩き出す。

岩切駅 午前11時50分 -(昼食)- 東仙台駅 午後1時50分 4.7Km

岩切駅を出発してしばらく行くとまた道に迷ってしまった。
市街地だと線路が住宅やビルに隠れてしまうし、方向感覚を失いがちになるのだ。
なんども地図を見ながら現在位置を確認する。

屋根瓦の壊れた家、壁の剥がれ落ちた家はあちこちで見かけた。



途中で昼食タイム、味噌タンメン780円なり。ここで昼食休憩を40分。
歩いていてまたもや駅の方角が分からなくなり、人に聞きながらなんとか東仙台駅にたどりつく。



東仙台駅 午後2時 - 仙台駅 午後3時10分 約4.5Km

東仙台駅を出てから仙台駅に着くまでもけっこう大変だった。
仙台は過去に何度も訪れているので土地勘はあるつもりだったが、車で走るのと歩くのでは大違いだった。
仙台市内の詳細な地図とコンパスを持ってくるんだったと痛感した。



だが間違いなく仙台の中心に向かって歩いているのだ。
日差しはますます強くなってくるし道は分からないしだが、なんとか駅の方向を示す看板を発見。



おやここも地震で破壊されたのかと一瞬思ったが、これは道路拡張工事だった。
遠くに見える高層ビル「おお! 大都会だ」



午後3時15分 やっと仙台駅に到着。



駅の大時計にカメラを向けてシャッターを押す。



温度計を見るときょうの最高気温27.6度とある、6月としては暑いほうだろう。

これで今回は岩手県境から仙台駅までを歩きとおしたわけである。
仙台駅から東京駅までの距離は350キロほどだ、次回はこの区間を2-3回に分けて歩こうと思う。

さて電車で松島駅まで戻ってあとは自宅へ帰るだけだ。
だがその前に汗を流してさっぱりしたい。

国道45号線を北上すると道の駅に併設されている「ふたごの湯」の看板を発見。さっそく汗を流す。



疲れも消え、盛岡へ向かって車を走らせる。







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19日目 松山町駅ー松島駅

2012年04月02日 | 東北本線 花泉駅~仙台駅
19日目

2011年6月5日(日)晴れ

松山町駅 08:20 - 鹿島台駅 09:45 約5.2Km

昨夜は温泉でゆっくりできたことと駐車場が静かで良く眠れたこともありつい朝寝坊してしまった。

今日の出発駅である松山町駅へ行く途中でコンビニに寄り朝食にサンドイッチと缶コーヒーを買う。

鳴瀬川の川原に車を停めて朝食タイム。
と、見ると「氾濫注意」の看板がある。



この川もたびたびの氾濫に悩まされてきたのだろう。

松山町駅の近くに大震災のときの瓦礫置き場があった。
壊れた家具や冷蔵庫などの家電品が小山のようになっている。
被災地の沿岸から運ばれて来たものだろうがすごい量だ。

瓦礫置き場近くの空き地に車を置いて歩き出す。

歩きながらマンホールを見かけるとシャッターを切る。







夢中になって車道へ出て行って写真を撮ろうとしたりするので、夢中になると危ないなあと反省する。

「松島は直進」の看板が元気の元になる。
このあたりはかなりゆれが強かったようで屋根瓦の落ちた家、裏山が崩れかかっている場所などがあちこちにある。

道路のひび割れ、マンホールの浮き上がりもいちいち数えていられないほどある。





松山町と鹿島台町の町境までやってきた。



この道は歩道が無いので車が来たら出来るだけ道端に寄るようにしながら歩いた。
車を運転しているときは気にならなかったが車が高速で脇を通り過ぎるのは歩行者には恐怖である。

ここを歩いて通学している小中学生とか自転車通学の高校生もいるだろうから歩道を造ってほしいものだ。

大崎市民病院鹿島台分院の前の歩道橋を渡ろうと交差点を見ると、「●●家 葬儀」の案内看板が何枚もあった。
この葬儀案内の看板はかなりあったが、まさか震災の犠牲者のではないとは思うがわからない。
歩道橋を渡る前に東北本線の誇線橋を見ると、ものすごい段差が出来ていた。



道路のひび割れもすごいがこの段差は大きい、簡単な補修がしてあるが段差は30センチ以上はあるだろう。



歩道橋もこのような状態だった。揺れで歩道橋のタイルが剥がれてしまっているのだ。



3ヶ月たってもそのままということは、被害が大きくて補修に手が回らないということだろう。

鹿島台駅に到着。



駅舎の外見は昔ながらの小さな駅なのだが中はキオスクもあるし仙台圏内というこで自動改札になっている。
ここでは駅舎の写真を撮っただけで歩き続ける。

鹿島台駅 09:50 - 品井沼駅 11:25 約6.8Km

鹿島台駅前を離れてしばらく歩くと今は営業していないようだがオーディオ専門店があった。



わたしは若いころにはオーディオに凝ったものだから、思わず懐かしさもありシャッターを押した。
JBL、TANNOY、そういえばナカミチのヘッドフォンも買ったものだ。
マクセル録音テープの看板が泣かせる。今の若い人たちはカセットテープは知っていてもオープンリールテープなんて知らないだろうなあ。
5インチとか7インチとかリールに巻いてあってテープデッキにかけて音楽を楽しんだものだった。
スピーカーの自作もしたものだが、私がオーディオに情熱を燃やしていた時代から30年以上もたってしまったのだ。
と、郷愁に浸りながらも歩き続ける。

鹿島台の町を抜けて吉田川に向かう道はものすごく広い田んぼの中を通る、距離は5、6キロ程だろうか。
田んぼの向こうがかすんで見える。



この道はまっすぐなので快適に歩けそうに思えるが歩いてみると逆につらかった。



歩いても歩いても同じ景色というのはしんどいものだ。

吉田川に架かる品井沼大橋を渡ったところで堤防に座って一休みする。



品井沼駅の案内標識が見えてきた。

11時25分に品井沼駅に到着。



こじんまりとした田舎の駅の風情だ。
ここは無人駅ではなくおばさんが切符を売っている。



プラットホームも昔のまま、駅舎の前の水飲み場など昭和の駅の面影が色濃く残っている。


品井沼駅 11:30- 愛宕駅 13:05 約4.7Km

休憩を取らずに歩き出す。

ところがまた道を間違えてしまった。
東北本線に沿って道があるはずなのにどっちを見ても線路が見えないのだ。

なんと行きたい方向とは逆方向に歩いていたのだった。
国道346号線に出てしまってから道を間違えたことに気がついた。
引き返すわけにもいかず国道をひたすら歩く。

この国道は川を挟んで旧道があったのだが持っている道路地図ではそこの部分が良く分からない。
歩き終えたあとでこの旧道の方が木陰が多く快適に歩けると分かったのだった。
アップダウンのある国道をひたすら歩く、道を間違えたことで気分的にも疲れた。

おまけに道路地図に載っていたドライブインは閉店していて昼食はおあづけになってしまうし散々である。
ここには品井沼明治排水路のトンネルがある。





観光名所というほどのものでもないが整備されている。


やっと三陸自動車道の松島北インターチェンジまで来た。



地震のために電柱が大きく傾いている。

今日の目的駅である松島駅はもうすぐだ。
海が近いので津波の影響が見られる。
小船がひっくり返ったまま放置されていた。

愛宕駅に到着。



プラットホームだけの駅だがこのような駅を見ると「都会っぽいなあ」と思ってしまう。
駅そのものは見るべきこともないので写真だけ撮って歩き出す。

愛宕駅 13:10-(昼食)- 松島駅 14:40 約2.3Km

駅近くの松島中学校前の「津波避難場所」の案内板。
いつかは地震が来る、津波も来るとわかっていたとしても、まさかあのような大震災が襲うとは思っていなかった。



海が近くなるにしたがって川には転覆した漁船が目立ってきた。



そして災害派遣の自衛隊の車両も多くみかける。



日本全国から復旧のために駆けつけてくれているわけで、ありがたいことである。

仙台まで29キロの標識があった。今回の最終目的地がなんとか射程距離内に入ってきた。

お腹がすいているので昼食休憩。
ものすごく込み合っていて店員さんがあとから入ってきた客に「混んでいるので・・」断っていた。
わたしは注文したものが出てくるのに時間がかかるほうがゆっくり休めるので助る。



親子丼の昼食、「すきっ腹にまずいものなし」である。



もう松島駅は目の前だ。

モダンな松島駅舎。



さすがに駅構内もプラットホームも広くて日本有数の観光地の駅という雰囲気だ。

午後3時前と時間的には早いが今日はここまでにして松山町駅まで電車で戻る。



歩けば7時間ほどかかる距離を電車は20分ほどで走り抜け松山駅に到着。

そして車に乗って松島駅近くまで行く。
同じルートを徒歩、電車、車で都合3回も通るわけでムダといえばムダ。
松島市内のガソリンスタンドで満タンにする。1リットル150円とかなり高いのだが仕方が無い。

歩き終えたらお風呂に入りたい。さいわい松島は大きな温泉ホテルがたくさんある。
「新富亭」というホテルの日帰り温泉で身体を癒す。入浴料500円なり。



地震の影響で観光客はいないようだ、復興事業関係者だけが泊まっているようである。
松島は地震も津波の被害は少なかったほうだが震災後3ヶ月なので観光客はいないようだった。

コンビニの駐車場で今夜もインスタントラーメンと缶詰だけの夕食を食べて、明日に備えて早めに寝てしまう。




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