東北本線,東海道本線沿線 全線全駅歩き旅のブログ

旧東北本線と田沢湖線,花輪線,釜石線,八戸線,山田線、北上線、東海道本線、奈良線、大船渡線沿線歩き旅の記録。

JR大船渡線沿線を歩く旅。(15)

2024年06月19日 | JR大船渡線沿線を歩く旅
2024年5月 JR大船渡線沿線を歩く旅。(15)

2024年(R6)5月26日(日)

新月駅 ―> 気仙沼駅 6.7JR営業キロ


新月駅を後にして100メートルも行くともうそこは宮城県だ。









気仙沼市は港町なので道路にはサメがいて歓迎してくれる。





気温は23度、歩いていると少し汗ばむ。





去年(2023年)も暑かったが、今年も暑い。
まだ初夏というのに岩手県の盛岡市では最高気温が32度にもなった。

このぶんだと政府は高齢者の定義を見直すだけでなく“夏日、猛暑日”の定義も見直すかもしれない。

今後「夏日は40度、猛暑日は50度以上とします」とか、、、

そうしたら小学校でも「今日の最高気温の予想は32度なのでみんな元気で外で運動しましょう」となりそうだな。
熱中症で倒れる子供がいたら「南方で戦っている兵隊さんのことを思いなさい。そんなことでは立派な兵隊になれないぞ!」と叱られたりするかも(笑)


歩いていくと「メロディーライン」という看板があった。





さらに進んでいくと50Kmで走行するとうさぎとかめのメロディーが流れるよとある。



当然だが時速4Kmで歩いている歩行者にはメロディーなど全く聞こえないのであった、残念。













そろそろ気仙沼市の郊外かなと思われるところにパチンコ店があった。





じつにわかりやすい。



そして気仙沼市内へと入っていく。













と、、、左側になにやら物騒な物体が見えた。



近寄ってみると、恐竜だった。



だがこの恐竜あまり恐そうでない。



なにかで見たことあるなあ、、、と思い出したのがディズニー映画「トイストーリー」出てくるレックスというおもちゃに似ているような気がした。(あとでよく見るとかなり違ったけど)

どうやらこの恐竜は中古品店の宣伝をしているようだ。



年季が入っていて老年のようで柵に掴まってやっと立っている感じ(のように見えた)
この恐竜も中古品なのかもしれない。

気仙沼市のマンホールには松原とかもめの絵、さすがは港町。



気仙沼駅が見えてきた。







進んでいき気仙沼市復興住宅の前を通る。







気仙沼駅はやや高台にあるので2011年の津波の被害は免れたそうだ。





気仙沼駅に到着。

駅前には港町らしく灯台が建っている。





そして「かつお」「カジキマグロ」「サメ」をかたどったモニュメントもある。





駅舎の屋根にはカジキマグロの絵が描いてあるほどのこだわりだ。







もちろんピカチュウがお出迎え。







駅は町の中心部から少し外れたところにある。





時間があれば港の近くまで行ってみたかったが16時15分発の一ノ関行きで帰りたい。



しかたがないので待合室で40分ほど座って待つ。

東日本大震災で大きな被害を受けた大船渡線は線路があるのはこの気仙沼駅までであとはBRTとして運行されている。
線路沿いを歩くことにこだわるわたしの旅はこの駅までとなる。

この駅には今では貴重となった? みどりの窓口があった。



JRではみどりの窓口を減らそうとしているというが、わたしのような老人には人が対応してくれる窓口というのはありがたい。
スマホでとか機械の端末でというのは馴染めないし応用がきかないから困るのだ。

先日のことだがあるアプリをインストールしたのだが、本人認証のため登録電話番号へ認証コードを送りますという。
ところがわたしは登録していた自宅の固定電話を解約してしまっていたので「認証できません」という表示。
「認証できない方はこの電話番号へ・・」とあるので電話をするとコンピューター音声が流れて正しい電話番号を入力せよというのだ。
なんどやっても同じことを繰り返すのみで先へ進めない。とうとうあきらめてアプリをアンイストールするはめになった。

人が対応してくれるなら「以前、固定電話を解約したので・・」と伝えれば済むのだが機械(コンピューター)はこんなとき融通がきかないのだ。


さて、一ノ関駅へ戻ったら大船渡線のゼロキロポストを探す。



が、、どこを見ても見つからない。
「ゼロキロポストの旅」という方のホームページで見ると、、どうやら「停車場中心」とある標識、これがそうらしい。





これでJR気仙沼線の62.0キロを歩き終えた。


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JR大船渡線沿線を歩く旅。(14)

2024年06月18日 | JR大船渡線沿線を歩く旅
2024年5月 JR大船渡線沿線を歩く旅。(14)

2024年(R6)5月26日(日)

折壁駅 ―> 新月駅 5.6JR営業キロ


折壁駅を後にしていく。





室根神社参道の前を通る。







石碑に文化五年の文字が見える。



ほお!216年も前のものだな。
室根神社は1200年以上もの歴史を持つという。
北東北の地は京都、奈良などに引けを取らない歴史を持つ地なのだがそれを知る人は多くはない。



進んでいくと右手に工場が見えた。





看板に「室根からあげ」とある。からあげグランプリの最高金賞を3度取ったと誇らしげ。



からあげ大好き人間のわたしは看板を見ただけでよだれが出そうになる。



気仙沼方面へと緩やかな下り坂が続く。



ときおりディーゼル列車の音が聞こえるだけで静かなところだ。



歩道はあるが草ぼうぼう、ちょっと歩きにくい。





御袋神社の参道前を通る。





ここも歴史のある神社のようだ。
わたしの年代だと御袋という言葉からつい森進一さんの歌が思い浮かぶのだった。









進んでいくと浜横沢小学校の石碑がありその脇に、、、





ミッキーマウス初号機かな?



大きな袋を背負っているように見えるぞ、もしかしてネズミのサンタクロース?

学校への石段が草ぼうぼうだったのでもしかして廃校になったのではと思いネットで検索すると、
やはり廃校になり平成21年に浜横沢、折壁、上折壁、釘子、津谷川の5校が統合されたとのこと。
5校あった小学校をひとつに統合するなんて少子化を象徴するようなできごとだな。



このあたりにはお城かと思うような大きなお宅もある。





田舎には違いないが豊かな土地なのだ。



元文の文字が見える石碑もある。





280年経ってもくっきりと読める。

やっと一ノ関駅から55キロ地点まで来た。



一ノ関方面へは13.3パーミルとややきつめの上り坂である。



新月駅に到着。







この駅は昭和の時代に造られたままの駅のようでトイレが今では珍しいトッポントイレだった。





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JR大船渡線沿線を歩く旅。(13)

2024年06月17日 | JR大船渡線沿線を歩く旅
2024年5月 JR大船渡線沿線を歩く旅。(13)

2024年(R6)5月26日(日)

矢越駅 ―> 折壁駅 2.1JR営業キロ

今日は気仙沼駅まで歩く予定だ。

JRの営業キロで14.4キロ、歩く距離もほぼ同じだろう。

始発でいかなくても帰りは午後4時15分の一ノ関行きに間に合うだろう。





気仙沼行きの列車も混んでいないから車内でゆっくりと朝食だ。



矢越駅で降りて駅前にあるトイレを見ると、
頭上にツバメの巣があった。





もう巣立ちがちかいのか大きくなってしまい巣からはみ出している。





少し歩くと折壁駅への案内が見えた。





駅間距離が2.1キロしかないのだ。

太鼓店の看板があった。





盛岡市内の太田橋近くにも2軒太鼓屋さんがあって、店の前で太鼓の革を干しているのを見たことがある。

太鼓はそんなに壊れるものではないだろうと思うのだがどれだけ需要があるのかな。

知り合いに太鼓が大好きな人がいて毎年「全国太鼓フェスティバルを毎年見に行ってるよ。」と言ってたっけな。

長かった上り坂が終わって平坦な道を歩いていく。













左方面に見えるのが室根山で今はつつじ祭りの真っ最中だ。





室根山は標高895メートルで天文台やキャンプ場もある岩手県南の観光地だ。

ここはパラグライダー、ハンググライダーを楽しめるところなのだ。
みると快晴の空にパラグライダーが飛んでいる。



距離があるのでカメラのズームを最大にしてもほんの点にしかならない。



折壁の町内へと入っていくとここにも立派な蔵があった。





そして元祖白あんぱんのお店もある。



規模の大きな町ではないが歴史を感じるな。



折壁駅に到着。



真新しいこじんまりとした駅舎だ。



待合室もきれいに清掃されている。



あと2駅で目的の気仙沼駅だ。





プラットホームには植木でピカチュウの像。







ちょっと地味。


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JR大船渡線沿線を歩く旅。(12)

2024年06月16日 | JR大船渡線沿線を歩く旅
024年5月 JR大船渡線沿線を歩く旅。(12)

2024年(R6)5月19日(日)

小梨駅 ―> 矢越駅 4.2JR営業キロ


さて、、一ノ関方面行の列車の時刻を確かめてみよう。

隣の矢越駅発は16時33分となっている。
もしそれに乗り遅れると次は18時11分発になってしまう。

まだ間に合うな、よし矢越駅まで歩こう。

まだまだ続く上り坂。



途中でまたポケモントレインを見かけた。



坂を上り、後ろを振り返ってみる。



急坂ではないんだけどなあ・・ ずーっと上り坂はしんどい。



右手に「HILL TOP」と書いた看板が見えた。





もしかしてあそこが頂上(笑)なのか。

炭火焼と書いてあるからレストランに違いない。

そのレストランのすぐ近くに「一関市 室根町」の標識があった。





ここでやっと上り坂が終わった。

そうか! ここが本当にヒルトップ、道の頂上だったんだな。

やれやれ本当に長い上り坂だったなあ。

もしかしたら太平洋までずーーっと上り坂なのではと思ってしまったぞ(笑)

後日Googleマップで確認したら一関の標高は25メートルで矢越は294メートルだった。
ゆっくりだけど山登りをしたんだな。





もう汗だくである。自宅から持ってきた水2本は飲んでしまったのでコンビニでお茶を買う。







矢越駅に到着。





ここの待合室もきれいに保たれていた。







乗客の数は少ないだろうけど大切にされているのだ。




今日はこの駅までとして帰ることにする。





一ノ関駅での接続はよくなくて1時間以上も待たなければならない。

売店では岩手県の出身の大谷翔平選手関連グッズが売られている。





Tシャツが3980円、マグカップが2200円などさすが大リーガー価格という感じだな。



大谷翔平+源義経+武蔵坊弁慶とコラボしたTシャツもある。



たしかに奥州平泉と義経、弁慶はゆかりの地ではあるけれどちょっとムリヤリな感じがあるなあ。

義経、弁慶との契約関係はどうなっているんだろうか(笑)、

わたしとしては同じ岩手出身の菊池雄星投手、佐々木朗希投手も入れたTシャツを作ってほしい。(ムリだろうけど)


時間があるので駅前を少し歩いてみたのだが、ほとんど人がなかった。



日曜日の夕方、さみしい街並みに冷たい風が吹いていた。

ホームへ出ると派手なラッピングの列車が入線してきた。





これは「仙台あおば祭り号」だな。
乗ってみたかったが車内は混雑で座れそうにない。

今回も普通列車での帰宅となった。

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JR大船渡線沿線を歩く旅。(11)

2024年06月15日 | JR大船渡線沿線を歩く旅
2024年5月 JR大船渡線沿線を歩く旅。(11)

2024年(R6)5月19日(日)
千厩駅 ―> 小梨駅 3.6JR営業キロ

千厩駅を後にして歩いていく。



まだ緩い坂道が続くのだ。







その坂道がやっと終わったかと思われるところに小梨駅があった。





ウィキペディアで見ると千厩駅の1日平均の乗客数は2022年が156人となっている。
もっとも乗客数が多かったのは1967年(S42)で1700人とのことだ。
50年で10分の1にまで減少しているのだ。

小梨駅は1974年のが最新データで170人とのこと、それ以降のデータが無いところをみると現在はごく少ないのではと思う。

ちなみに岩手県の県都の駅、盛岡駅はどうかとみると2018年(H30)が11593人とのこと、現在は1万人を下回っているらしい。

人口の減少と自動車の普及のなかで地方の鉄道は本当に苦戦しているのだ。






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JR大船渡線沿線を歩く旅。(10)

2024年06月14日 | JR大船渡線沿線を歩く旅
2024年5月 JR大船渡線沿線を歩く旅。(10)

2024年(R6)5月19日(日)

摺沢駅 ―> 千厩駅 9.2JR営業キロ

摺沢駅を後にして町中を歩いてあるいていくのだが、、、だーれもいない。





しばらく行くと立ち話をしている2人のお婆さんがいたので無人の町ではないようだ(笑)







岩手県の昨年の出生率は1.16で6年連続で低下し過去最低なのだそうだ。

地方だけでなく大都会でさえも人口の減少という状態で、あの国の将軍様は「ほおっておいても近いうちに日本は消滅するであろう」と言っているとかいないとか。

笑い話では済まないのだ。

若い世代が未来に希望を見いだせなくなってきているということが一番の問題だろう。
政府は高齢者の定義を見直し「70歳以上を高齢者とする」と決めたとの報道があった。

「自分たちは70歳まで働かされるんだろうな、、、」と思ったら、結婚なんかしないで今を楽しく生きれればいいやと考えてしまうのかな。

実際のところ高齢者の定義を75歳にするというのも議論されているそうだ。

いや、もしかしたらこのままだと近い将来政府が「高齢者の定義を90歳以上に引き上げます」「年金は100歳から受け取れるようにします」と言いかねないなと考えているかもしれない。

わたしの現在の姿は、今の若い世代の30年後、40年後の姿だ。
なんとかギリギリ生活できているという、そんな未来が待っているとしたら結婚なんて、、、、、、

ここで盛岡市から103Km。やはり岩手県は広いなあ。





街道沿いということもあり歴史をしのばせる建物も残っている。









国道456号線を東へと歩いていく。







またも坂道が延々と続くのだった。
緩い坂道は自動車ならどうってことはないのだが歩く身にはとてもつらい。

途中の踏切の向こうに集会所のような建物が見えた。





看板を見ると「松原自警団屯所」とある。



へぇ~ 自警団か。

もしかしたら銃や刀で武装しているのかな。
「ここを通るには通行手形が必要であるぞ!」とか、、、まさかね。

消防団などでも使っている「屯所」という言葉はいかにも古い時代のものだと思わせてくれるなあ。
とは言え他に適当な言葉は見当たらないし。









途中の千厩川の近くには「サケの放流地点」の看板が立っていた。





わたしの田舎町でもサケの養殖、放流をしていて小さな小屋があったけな。
と、どうしても古い子供のころに記憶がよみがえってくる。

やっと坂を上り切り千厩町へと入っていく。



町名の由来が厩の数が千もあったということらしい。
名馬の産地岩手、南部の地にふさわしい町名ではないだろうか。



時刻は12時を回ったところだ、お腹がすいてきたのでこのあたりで食堂を探そう。

中華料理店があったので味噌ラーメンで昼食だ。





わたしが食べていると家族連れがやってきた。
近所の人たちだろう子供連れなので一気ににぎやかになる。

駅とは反対方向だがちょっと千厩町の町内を見ていこう。



やはりといってよいのか、日曜日だからなのか人の姿もなければ車も通らない。
地方の田舎町はどこへ行ってもこんな状態だな。



町中に彌榮神社があってその前に大きな岩がある。





東洋一の奇岩、夫婦石とのこと。



たしかに大きいのだが東洋一とはチト大げさなような気がするな。



昭和の時代はどんな小さな町にもあった写真館と電気店。





東芝、ナショナル(現パナソニック)、三洋電機、日立、三菱などなど世界をリードしてきた日本の電機産業はいまでは見る影もない。
企業の寿命は40年と言われていたっけなあ。栄枯盛衰とはよく言ったものだ。

さて千厩駅へと行こう。
この駅前もずいぶんと広いな。





きっとバスが何台も停まっていて賑わっていたのだろう。

その千厩駅もいまでは無人駅だ。


ピカチュウが迎えてくれる待合室もがらーんとしていてさみしい限り。








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JR大船渡線沿線を歩く旅。(9)

2024年06月13日 | JR大船渡線沿線を歩く旅

2024年5月 JR大船渡線沿線を歩く旅

2024年(R6)5月19日(日)

柴宿駅 ―> 摺沢駅 4.5JR営業キロ

柴宿駅の道路向かいには産直施設「季節館」があった。



ここで買い物をすることもできないので見るだけで素通り。

東山町のマンホールには町の花であるやまゆりが描かれている。



しばらくいくと「火産霊神社」の参道前を通る。





はて? どう読むのだろう。
「ほむすびのかみ」と読むのか、、なるほど。

火の神様とのことだ。愛宕神社の主祭神という。

火、水、大地、太陽は人間だけでなく生けるものすべての基だから太古から大切に祭られてきたのだ。

そして大東町へと入っていく。




描かれているのは大東町の名産シイタケだ。



マンホールにはウグイスとつつじ。



29キロのキロポストが見えた。だがまだ行程の約半分しか歩いていない。



砂鉄川の向こうを列車が軽い音をさせながら走っていく。









町へ近づいたあたりにかきつばたの花畑があった。







品種を書いた札があって「かきつばた」「文目」と書いてあるのだが素人のわたしには見た目の区別がつかなかった。

そこを過ぎて少し行くと摺沢駅が見えてくる。



摺沢駅に到着。











この駅にもピカチュウの人形がいて、プラットホームにもキャラクターの人形があった。







きっと子供たちはこの前で写真を撮りまくるんだろうなあ。



待合室には東日本大震災の行方不明者の情報提供を呼び掛けるポスターがあった。



あの大震災から13年だがいまだに2500人以上が行方不明なのだという。
その数だけでも震災、特に津波の恐ろしさがわかる。


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JR大船渡線沿線を歩く旅。(8)

2024年06月12日 | JR大船渡線沿線を歩く旅
2024年5月 JR大船渡線沿線を歩く旅。

2024年(R6)5月19日(日)

猊鼻渓駅 ―> 柴宿駅 2.8JR営業キロ

今日は猊鼻渓駅から歩き始めなければならない。

JRの「岩手ホリデーパス」は特急券を別に買ったとしても新幹線は利用できない。
普通か快速だけを利用できるきっぷだ。



盛岡から猊鼻渓駅を往復すると運賃は約3960円なので1460円もオトクなのだから新幹線利用はあきらめる。
盛岡駅の始発なら猊鼻渓駅着は7時52分だ。
その次の列車だと一ノ関駅での接続が悪くて10時49分着になってしまう。

早起きはしんどいが始発で行くしかないな。

午前4時に起きて大急ぎで駅へと向かう。





午前5時10分発の始発だから盛岡駅での乗客は多くはなかったが途中駅から部活に行く高校生が大勢乗り込んできた。



ウェアや持っている道具類で野球部、テニス部などがわかる。
スポーツをしているからなのだろうか全員体格がよい。
みると身長が180cmほどの生徒もいる。
そうか~ 日本人も随分と背が高くなったんだなあ。

わたしは戦後間もなくの生まれだからさほど身長は無い、中学生3年で背の伸びは止まってしまった。
当時は身長160cmでも「ほんと、背だけ伸びてしまって・・」と親や親せきから言われたものだった。


一ノ関駅で気仙沼行きの列車に乗り換えて自宅から持ってきたトーストなどで朝食にする。



海へ釣りに行くのだろうか釣竿を持ったインドネシア人(と思われる)男性が2人乗り込んできた。
岩手県県南にはいくつか工場もあるのでそこで働いているのだろうか。

今は円安なので以前と同じ給料を得ていても故国への仕送り額が目減りしているんじゃないかと勝手に心配したりする。

猊鼻渓駅で下車して歩き出す。



駅前の広場には使われなくなった公衆電話ボックスがある。



国民全員がスマートフォンを持つことが義務付けられているので(笑)公衆電話は姿を消しつつある。
さらに一般家庭では固定電話までもが消えていく運命にあるようだ。

わたしは以前タイを旅した時にこんなものを見かけた。





使われなくなった公衆電話ボックスを手洗い場にしているのだった。
もしかしたら新型コロナ騒ぎの時に作られたのかもしれない。なかなかよいアイデアと思う。
日本でも真似してみてはどうだろうか。


駅前には熊野神社がある。





鎌倉時代の初期の創建だそうで長い歴史のある神社なのだ。



境内も社殿も小さなものだがそれが地方の神社らしさでもある。



朝日にアイリスが美しく映えている。



少し歩くと右手に猊鼻渓レストハウスがある。



まだこの朝早いから営業前のようだ。

このあたりからも坂道が続く。





急な坂ではないが、どこまで行っても上り坂というのはじつにツライ。



やっと柴宿駅が見えた。





駅の南側には団地があるので以前はスーパーやパチンコ店もあったようだ。



ほとんどの人が車を使うようになって鉄道を利用するのは通学生や老人だけになってしまえば地元のお店はなりたたなくなってしまうよなあ。







歩き始めて1時間も経っていないが坂道で疲れたので柴宿駅で10分ほど休憩する。



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2024年5月 JR大船渡線沿線を歩く旅。(7)

2024年06月09日 | JR大船渡線沿線を歩く旅
2024年5月 JR大船渡線沿線を歩く旅。(7)

2024年(R6)5月12日(日)

陸中松川駅 ―> 猊鼻渓駅 2.0JR営業キロ

駅で一休みをしていると、ポケモントレインがやってきた。





陸中松川駅も停車駅になっているのだが乗り降りする人はいなかった。





窓からは写真を撮る親子連れの姿が見えた。
車窓の風景も楽しめるし車内で子供たちは遊べるし、なかなか良い企画と思う。



駅を後にして歩いていくと「石と賢治のミュージアム」というのがある。



看板を見るとここが「雨ニモマケズ」の道とのこと。






そしてその先の工場の前には人形が並んでいる。





「宮沢賢治と東北砕石工場の人々」と書かれた説明のパネルがある。



昭和6年に撮影された写真を人形で再現したものだ。



宮沢賢治は当時34歳とのことだが見るとみんな若い。
砕石工場だから体力のある人でないと務まらなかったんだろうか。



面白いのは右から4人目の「偶然居合わせた魚屋さん」だ。



写真を撮るときに行商に来ていたのかなあ。



工場はすでに稼働していなくて小さな博物館になっている。



工場の壁には台風の時の洪水の水位が表示されていた。



平成14年になってもまだこのような大きな水害があったのだ。







工場を見てから歩き旅に戻る。



しばらく歩き三菱セメントの工場前を通る。





いまは使われていない大きな住宅もあってこの辺りは以前はかなり栄えていたのだろうと想像できる。



この東山大橋を渡るともうすぐ猊鼻渓駅だ。





猊鼻渓と厳美渓は岩手県県南の有名な観光地で平泉とセットで観光に訪れる人が多い。



猊鼻渓駅に到着。








駅前の広場には藤棚があった。



おお、この駅もポケモントレインの停車駅なのか。



大船渡線は「ドラゴンレール」の愛称がつけられているけど看板はポケモンばかり。



どこにもドラゴンの絵が無いのはちょっと寂しいね。



きょうはこの駅まで。





猊鼻渓駅までのJR営業キロは23.3キロだが実際に歩いた距離は31.5キロだった

17時8分発の一ノ関行きで帰る。

ここはかなり田舎だと思うのだが若い白人男性が猊鼻渓駅から乗車してきた。
観光客には見えないのでこのあたりで英語の教師をしているんだろうかと思ってしまう。

一ノ関駅では乗り換えに1時間以上も待たなくてはならない。
これが鉄道の旅の不便なところだな、田舎は人口が少ないのだから仕方ないのだけれど。

駅そばを食べて空腹を紛らわせる。






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JR大船渡線沿線を歩く旅。(6)

2024年06月08日 | JR大船渡線沿線を歩く旅
JR大船渡線沿線を歩く旅。(6)

2024年(R6)5月12日(日)

岩ノ下駅 ―> 陸中松川駅 3.8JR営業キロ

プーチンが仕掛けたウクライナ戦争は一向に終結する兆しがない。

侵略されたウクライナは絶対に降伏はできないだろう。
ロシア側しても中途半端な形での停戦はプーチン大統領の政治生命を奪うことになるわけだし、大国としてのメンツにかけても戦い続けなければならないだろう。

そしてイスラエルの戦争である。

ユダヤの人々は第二次世界大戦時ナチスドイツとソビエトで大量虐殺の憂き目にあいあやうく絶滅するところだった。
その恐ろしい体験をしたのだから戦争、虐殺をしないようにと自国民にも世界の人々にも呼びかけなければならないと思うのだが、、、
報道によるとガザ地区でパレスチナ人を虐殺した形跡があるという。

人間というものは過去から学習しないものなんだろうか。

中国も台湾の周りで軍事演習をして侵攻の準備を進めているような行動をとっている。
たしかに第二次大戦まで中国は欧米、日本から侵略され続けてきたという歴史があるけれど、
その仕返しに他国への侵攻をしようと考えているんじゃないだろうな。

なんだかこの先どうなるのか恐ろしくなるな。
長年フランス政権の顧問を務めてきた思想家で経済学者のジャック・アタリという方の書いた「2030年ジャック・アタリの未来予測」という本を読むと人間の未来は決して明るくはないと思ってしまう。

地球温暖化問題だけでなく宗教がらみの紛争も懸念材料だ。
もしトランプが大統領に再選されれば独裁化して民主主義は崩壊の瀬戸際に立たされ、、、そして、、、

まあ、悲観的に考えるのはよくないとは思うのだが。



この駅でも休憩しないで歩き続ける。

右手には砂鉄川、道路はやや高い位置に造られていて堤防を兼ねているようだ。

川に近い道路下に以前の道路の痕跡が見える。



おそらくあの道路はなんども冠水したためにより高いところに現在の道路を造ったのだろう。

川の向こうの山に大きな工場が見えてきた。





地図を見るとあれが宮城石灰鉱山だろう。
ここからは一部分しか見えないがGoogle Earthで見るとかなりおおきな規模のようだ。

田植えの終わった田んぼには手入れをする人の姿。



機械で田植えをする時代でもこのようなこまめな手入れが大事なんだな。


奈良坂峠の真新しい看板があった。





奈良時代、平安時代から塩や金を運ぶ道として使われてきたのだそうだ。





陸中松川駅が見えてきた。ここで一ノ関駅から21キロ。







陸中松川駅近くに大きなお屋敷があった。



手前にある建物は旅館だったのでもしかすると昔はあの建物が旅館だったのかもしれない。

この駅は近くに工場があるので働く人、出張で来る人たちの利用が多かったので建物も大きかったんだろうと思う。


陸中松川駅に到着、













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