十勝の活性化を考える会

     
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エゾの歴史

2020-11-06 05:00:00 | 投稿

                   

海保嶺夫 エゾの歴史には、次のことが書かかれていた。


『古代国家成立期、東北地方にあってその北進に真正面から挑んだ人びと、すなわちエミシと呼ばれる人びとがいた。

 

エミシの人種的、民族的位置づけ、さらに歴史的役割などに関しては論証・議論がなされている。エミシを学説的に整理する作業は、詳細な成果を生み出している反面、エミシの次に登場するエゾ(本書の場合、主に中世エゾ)からエミシのあり方を見ようとする方法、いわば時代を逆転させた方式で、エミシを考えてみようとする方法はどこでもなされていない。後代から見て、前代がどのようなあり方であれば、合理的でつながるのかが、考えられていないということである。

 

これは、直接的には明治期以来の、古代東北のエミシの実体はアイヌ民族か否か、否とすればなにを指すのかという問題につながる。これは興味本位の問題ではなく、日本列島の北方の歴史の解釈に大変重大な影響を与えるものである。

 

エミシ=アイヌ民族とすれば、アイヌ民族(この時代では、続縄文人というべきか)は、七世紀段階では現在の東北一体を生活圏とし、文書史料に登場して以後一貫して、「日本」と戦いつづけた民族となる。

 

生活圏は当然、北海道本島や周辺地域にもおよんでいたことになるから、いわゆる「征夷」軍がその制圧に苦戦し、たびたび敗北したのも当然である。

(中略)

エミシをアイヌ民族と理解するならば、民族的対立が1,000年以上も続いたことになり、「日本」史そのものも大きく書き換えねばならないことになろう。

 

一方、叙上の理解とは異なり、非アイヌ民族説に立てば、「征夷」戦とは単なる国内平定戦となりさほどの重要さはなくなる。

 

この問題は近代的歴史学が導入されて以後、どのように理解されたのか、中世のエゾ論のあり方を論ずる前に考えてみる必要があるだろう。エミシの問題は、いわば、アイヌ民族が「研究」の世界で、どのような実体として考えられてきたかを、明らかにすることでもあるからである。』

 

この本を読んで、次のように思った。エミシ=アイヌ民族、エミシ=非アイヌ民族説のどちらであっても構わないと思う。なぜなら、みんな日本人であるからだ。世界中には、少数民族はたくさんいるが、そのひとつの民族がオーストラリアのアボリジニであり、一時は死にゆく民族として悲劇の民族でもあった。

 

「十勝の活性化を考える会」会長」

 

注) アボリジニ

アボリジニは、オーストラリア大陸と周辺島嶼先住民である。イギリスを中心とするヨーロッパ人達による植民地化の以前からオーストラリア大陸やその周辺諸島に居住していた先住民の子孫達である。

オーストラリアにおける先住民は、多様なコミュニティや社会を構成しており、文化、習慣、言語などもそれぞれが独自の編成を持っている。現代のオーストラリアでは、先住民集団は地域コミュニティごとにさらに細分化されている。

[起源]

アボリジニの先祖がオーストラリア大陸に上陸した時期は、遺物などの分析から5万年ないし12万年以上前(議論中で定まっていない)とされているが、それ以降にも段階的に人的流入があったとされている。

オーストラリア大陸が現在のような状況になって以降は、ヨーロッパ人の到来まで、オーストラリアは外界から隔絶された場所だったという認識が強い。

(中略)

その地理的条件から、人種的に他の大陸と隔絶され、それらが混血を繰り返しながらオーストラリア全土に広まる過程で、様々な固有文化が派生したとされる。今日ではオーストラリア到着以後も、一部の集団ではポリネシア人やパプア人オーストロネシア人との部分的混血が見られる。

一括りにアボリジニといっても、多数の部族から成立っており、言語的な調査から2628程の系統に分類されているが、相互の文化的差異は多い。

 

[白豪主義とアボリジニの悲劇]

 

西洋人がオーストラリアを「発見」した段階では、50万人から100万人ほどのアボリジニがオーストラリア内に生活していた。言語だけでも250、部族数に至っては、700を超えていた。

しかし1920年には約7万人にまで減少した。人口減少の最大の要因はヨーロッパ人が旧大陸から持ち込んだ伝染病(天然痘や梅毒、インフルエンザ、麻疹など)の流行によるものと考えられている。

(中略)

1788年からのイギリスによる植民地化によって、初期イギリス移民の多くを占めた流刑囚はスポーツハンティングとして多くのアボリジニを虐殺した。「今日はアボリジニ狩りにいって17匹をやった」と記された日記がサウスウエールズ州の図書館に実際に残されている。

(中略)

これによりアボリジニ人口は90%以上減少し、ヴィクトリアとニューサウスウェールズのアボリジナルの人口は、10分の1以下になった。さらに1876年には、タスマニア・アボリジナル最後の生存者である女性のトルガニニが死亡して、多い時期で約37千人ほどいた純血のタスマニアン・アボリジニが絶滅した。

(中略)

20世紀前半には、アボリジナルは絶滅寸前の人種(死にゆく人種、死にゆく民族)として分類されるようになる。この死に行く民族という規定は、1937年まで続く。死に行く民族という規定が廃止されると、今度は積極的に白人社会に同化させる方針が強化される。

 

イギリス人らの入植開始当初は50-100万人いたアボリジナル人口は、1920年頃には約7万人にまで減少していた。同1920年、時のオーストラリア政府は先住民族の保護政策を始め、彼らを白人の影響の濃い地域から外れた保護区域に移住させたが、これはむしろ人種隔離政策的な性質があったようである。

元々オーストラリアに移住した白人は、犯罪者が大半を占めていた。そして、徹底的な人種差別政策、いわゆる白豪主義をもって、移民の制限及びアボリジニへの弾圧政策を続けた。

(中略)

近代のアボリジニ激減と、文字文化を持たなかったことから文化的痕跡を残さず消滅した部族も多く、彼らの言語や文化の系統を調査する試みは進んでいない。音声的に完全に失われた言語も多く、それらの民俗学的調査は「既に大半のピースが失われたパズル」になぞらえられている。

その後、アボリジナル人口は徐々に回復し、1996年には約35万人になった。これはオーストラリア総人口の約1.5%である。

(出典:『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋)

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