直木賞作家 西加奈子氏が “幸せって何だろう”の題で小冊子(JAFニュース)に文章を載せていたので、その一部を紹介したい。
『2011年の春、雑誌の仕事でブータンに行った。幸せな国の秘密を知る、というテーマだった。ブータンはGNH(GROSS NATION HAPPINESS)という物質的な豊かさではなく精神的な豊かさを幸福と捉える独自の概念で国づくりを行っている。
2005年の国勢調査で国民の97%が「幸せ」と回答したこともあり、当時「幸福度一
位の国」と言われて注目されていた。
旅立ったのは東北大震災の直後だった。ブータンで出会った人たちは、私たちが日本から来たことを知ると、皆「祈っています」と言ってくれた。本当に皆が。
ブータンでは、祈りが身近にあった。「祈り」という「」に入れられたものではなく、生活の一部として、とてもナチュラルに存在していた。もしかしたら、幸福度一位の秘密なのだろうかといろんな人にその理由を聞いた。
当然ながら、答えは様々だったけれど、一番心に残っているのはある村で出会った一人の女性だ。その人はジャガイモが大量に詰め込まれた袋を背負っていた。少し持たせてもらったが、大げさではなく、ほとんど彼女ほどの重さがあった(ブータンは女性が本当によく働く。こんな風に重いものも持つし、まき割りや家の修繕などの力仕事もするという)。
あなたにとって幸せとは何ですか。そう聞くと、彼女は不思議そうな顔をした。質問の意味が分からない、という感じだった。通訳の方が一生懸命説明してくれて、彼女も長く考えて、やっと「家族がいること」とか、「ご飯を食べられること」などと答えてくれたのだけど、きっとそれはこちらのために何とか考え出してくれた答えなのだと思う。
本当は彼女は、「幸せとは何か」なんて考えもしないのだ。日々やることに追われて考えることなんて出来ない、ということももちろんあるだろうし、それ以上に幸福と言うものが生活の襞(ひだ)の中にごく自然に存在しているからだろう。祈りと同じように。 (中略)
幸福を求める前に、生活を大切にしよう。そう思った。幸福はその存在を忘れているときに一番輝くのだと、ブータンの村の名前も知らないその女性が教えてくれた。』
この文章を読んで、次のように思った。日本では、自分と同じくらいの重い荷物を持てる女性は少ないだろう。自分は不幸だと思っている人も多いのではないだろうか。
また、ひとり暮らしで家族を持たない人も多いだろう。ご飯を食べられることを幸せだと思う人もそれほど多くないだろう。日本は豊かで(?)、食べ物や物に溢れ、修繕すればまだ使えるものも厄介だから捨ててしまう人も多い。
先日、千葉県に住んでいる4歳年上の先輩に電話した。彼は、豊かさについて次のように言っていた。「我々のような世代は、太平洋戦争の敗戦により貧しさを知っている。学校給食は、GHQの配給した粉ミルクだったし、バナナは運動会でしか食べられなかった。
しかし、今の子供はバナナに見向きもしないし、孫にいたっては寿司屋に行ってマグロのトロばかり食べている。日本は、東日本大震災以上の規模の災害に遭遇しないと、価値観は変わらないだろう」と。
また、先日参加した上田紀行東京工業大学教授の講演では、「戦後の日本の高度経済成長について今後はあり得ないだろうし、貧しい国になっていくだろう」と語っていた。“幸せって何だろう”を、もう一度考えてみたい。
「十勝の活性化を考える会」会長
注) カール・ブッセ 「山のあなた」 上田敏訳
山のあなたの空遠く
「幸」住むとひとのいふ。
噫、われひと﹅尋めゆきて、
涙さしぐみ、かえれきぬ。
山のあなたになほ遠く
「幸」住むとひとのいふ。
メーテルリンク:「青い鳥」の要約
幼い兄弟チルチルとミチルが、隣に住んでいる娘のために、幸せの「青い鳥」を求めて遠い旅をします。結局、幸せの「青い鳥」は見つからないままに、家に帰ってくると、探していた「青い鳥」は家で飼っていたハトだったことに気づきます。
【角田泰隆禅師】
この詩、童話は「幸福」を求める人間の願いと、それを求めても得られない切なさをいっているのですが、逆説的に幸福は遠くにあるのではなく、今、ここにあることを気づかせようとしているようです。幸せは、ないわけではない。どこかに必ずあるのです。しかし、その場所は遠くではない。すぐ近くにあるのです。すぐ近くにあるのですが、とても遠いのです。それに気づくことが難しいのです。