十勝の活性化を考える会

     
 勉強会や講演会を開催し十勝の歴史及び現状などを学ぶことを通じて十勝の課題とその解決策を議論しましょう

慢心

2020-12-11 05:00:00 | 投稿

慢心とは、おごり高ぶること、自慢する気持ちをいう。慢心を戒める成功して慢心するなどと使う。この慢心、自分を含めて慢心する人が多いように感じる。特に、立場が上に上がっていくほどに多くなるように感じる。

 

企業では社長、学校では校長先生、組織では部長や課長などが持つ心である。競争社会を生き抜いていくためには、慢心も必要だろう。ただ、人間は他人と比較することによって生ずる慢心は、持って生まれた人間の性(さが)といって良いだろう。

先生と呼ばれる政治家などは上に立つ人物だと思うが、上に行くほどに慢心を持つ人が増えてくるように思う。もっと自分に対して謙虚になれば良いと思うのだが、どうしても他人と比較して周りを見てしまう。人間というものは謙虚に生きている人や陰徳な人ほど美しく見えてくるので不思議である。

 

人間を性善説に見るか、性悪説に見るかは人それぞれであるが、性善説も性悪説も本来のありようや誠に向かって、「努力すべき」ということではないだろうか。性善説は努力をしなければ善を失うし、性悪説は努力をしなければ善を得ることはないスタートは違うが、ふたつとも得るべきものは同じであるということだろう。

 

先日、東京工業大学教授 上田紀行氏の講演を聞いてきたが、この謙虚や比較について次のように言っていた。

『人間は他人とすぐ比較するが、そのようにしてはいけない。もっと謙虚に生きる意味を考えるべきだ。他人と比較しても幸せにはならない』と。

 

彼は、生きる意味という本を書いており、この本を友人に薦めたところ、とても良い本だったので他人にも薦めたそうである。また、105歳で亡くなった聖路加国際病院 の日野原重明医師はキープ オン ゴーイング(いつも前を向いて歩きなさい)と言っていたが、人生は、いつも前向きに生きることが大切であると常に思っている。

「十勝の活性化を考える会」会長

注) 上田紀行

上田 紀行は、日本の文化人類学者東京工業大学教授。専門は文化人類学。特に宗教癒し、社会変革に関する比較価値研究。

東京都出身。筑波大学附属駒場高等学校東京大学教養学部文化人類学科卒業。

19964月より東京工業大学大学院社会理工学研究科価値システム専攻准教授、20122月に東京工業大学リベラルアーツセンター教授となる。同大学大学院社会理工学研究科価値システム専攻教授を兼任。

2005年に渡米し、スタンフォード大学仏教学研究所フェローとして「今の仏教は現代的問いに答え得るか」と題した全20回の講義を行う。

日本仏教の再活性化運動にも携わり、若手僧侶の会合「ボーズ・ビー・アンビシャス!!」のアドバイザーでもある。

母は翻訳家の上田公子。妻はアナウンサーの武内陶子

著作

  • 20代の悩めるあなたに自分を見つけるワークブック』(宝島社、1992年)
  • 40代・男・転機の書自分を再創造するワークブック』(宝島社、1992年)
  • 『癒しの時代をひらく』(法蔵館1997年)
  • 『日本型システムの終焉自分自身を生きるために』(法蔵館、1998年)
  • 『がんばれ仏教!』(NHK出版2004年)
  • 『生きる意味』(岩波書店、2005年)
  • 『「生きる力」としての仏教』(PHP新書2006年)
  • 『かけがえのない人間』(講談社現代新書2008年)
  • 『「肩の荷」をおろして生きる』(PHP新書、2010年)
  • 『慈悲の怒り震災後を生きる心のマネジメント』(朝日新聞出版2011年)
  • 『人生の<逃げ場> 会社だけの生活に行き詰まっている人へ』(朝日新書2015年) 

(出典:『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋)

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“資本主義はなぜ自壊したのか“

2020-12-10 05:00:00 | 投稿

 

中谷巌著 “資本主義はなぜ自壊したのか”の紹介。この本には、日本のグローバル資本主義について書かれていたので、その一部分を参考までに載せます。

中谷巌氏は、日本の経済学者として竹中平蔵氏と共に小泉内閣のブレインの一人でしたが、彼が提言した経済政策の一部については、自ら間違った政策だったとして懺悔の気持ちで書いており、新型コロナ禍において大変参考になると思います。

 

『(前略)それは江戸時代に限ったことではない。現代社会でも、客の喜ぶ姿を見るのが何よりの生き甲斐だとか、あるいはどんなに手間がかかっても、他人には真似のできない優れた工芸品と頑張っている人はたくさんいる。しかし、こうした「利益」は「二の次ぎ」という考え方は、経済学では全てが捨象されてしまう。

アリストテレスが「人間は社会的な動物である」と言ったように、人間は本来、集団の中で生活する生き物である。人間は家族や心を許せる友人のいない天涯孤独の環境に満足して一生を終えることができる人はめったにいない。

(中略)

『あのアダムスミスの“見えざる手”を曲がりなりにもはたらせることができたのは、市場経済を「不純」にするさまざまな「外部」の存在が、その本来的な不安定の発現を一定程度おさえてきたからなのである。

外部の存在とは、中央銀行や強制力を持った政府のことである。中央銀行が通貨の管理をし、政府が所得再分配政策や環境規制をするといった、市場から見ると「不純」なことが国内経済ではそれなりに存在していた。

しかし、グローバル資本主義の下では、そのような強制力を持った「外部」は存在しない。つまり、グローバル資本主義というモンスターには、今のところ天敵はいないのだ。だが、このことを世界中の人々が認識できれば、ひょっとすると我々はこのモンスターに一定の枠をはめる知恵を見出すことができるかもしれない。怪物の動きを拘束する何らかの有効な鎖を作りあげることができるかもしれない。そのためには、まず我々は「欲望の抑制」ということを学ばなければならない。

このまま手をこまねいていれば、やがてはグローバル資本主義というモンスターはふたたび暴れはじめ、己自身をも破壊するほどの猛威を振るうだろう。そして、その厄介は間違いなく我々自身にも降りかかってくる。

だが、そのときになって初めて気づいても遅すぎるのだ。モンスターを暴走させ、人類を滅びの淵に追いやったのは、欲望を抑えることができなかった、他ならぬ我々自身である。』と。

 

思うに、共に生きる心がなければ世の中は調和しないという神仏、宇宙の真理ということであろう。みんなが感謝、謙虚な心を持ち、主義や思想を超えて感謝の心で生を全うすることが大切だろう。つまるところ地域活性化は、心の見直しなのかもしれない。

「十勝の活性化を考える会」会長

注) 中谷巌

中谷 巌は日本経済学者。専門はマクロ経済学一橋大学名誉教授

小渕内閣の首相諮問機関「経済戦略会議」に竹中平蔵らとともに参加し、議長代理を務めるなど政府の委員を多く務め、1990年代には、構造改革推進の立場から政策決定に大きな影響力を持った。

その後、2008年に著書『資本主義はなぜ自壊したのか』で新自由主義市場原理主義グローバル資本主義との決別を表明し、その立場を一転させた。

新自由主義からの転向

著書『資本主義はなぜ自壊したのか〜「日本」再生への提言』(集英社2008年、まえがきや)、論文「小泉改革の大罪と日本の不幸 格差社会無差別殺人すべての元凶は『市場原理』だ」(『週刊現代1227日・0103日号、20081215日発売)の中で、過去に自分が行っていた言動(アメリカ流の新自由主義、市場原理主義、グローバル資本主義に対する礼賛言動、構造改革推進発言など)を自己批判し、180転向したことを宣言した上で、小泉純一郎・竹中平蔵・奥田碩の三人組が実行した聖域なき構造改革を批判し、ベーシック・インカムの導入等の提言を行っている。

中谷は「新自由主義による自由取引市場の形成は、人類の滅亡を早める」と主張しており、グローバル資本主義に無制限の自由を与えるのではなく、一定の規律を設け制御する必要性を説き、統制機関として世界中央銀行・世界中央政府の設置を主張している。

(出典:『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋)

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ある高校教師の死

2020-12-09 05:00:00 | 投稿

  

先日、ある高校教師の葬儀があり参列してきた。死因はガンで、享年82歳だった。新型コロナ禍により年寄りが亡くなるケースも多いが、ガンによる死去だったので、せめてもの救いであったのもしれない。

 

彼は教育者として、また平和主義者として最後の最後まで生き抜いた方で、遺影にはその人柄があふれていた。どのようにしたら、あのような顔になるのだろう。“自分の顔に責任を持て!”と言われるが、身から出た錆ともいわれるので、自分の顔は自業自得であると思っている。

いつも思うのであるが、ノーベル賞を取った“山中伸弥氏”、“大村智氏”などの顔には、人格や人柄がにじみ出ている。日頃の行ないがそうするのだろう。逆に犯罪者の顔には、その反対の人相がにじみ出ている場合が多い。河合杏里元議員などの顔を見ると、悪いことをする人のように見えてきてしまう。

 

一方、冤罪者の顔には、冤罪であったように見えてくるのは自分だけであろうか。だから、「袴田事件」の被告である人の顔を見ると、冤罪のようにも見えてくる。人相を根拠に冤罪であるかどうかを決めるのは不可能であるが、印象は人それぞれで必ず間違いが伴うので、真実は神のみぞ知るである。“疑わしきは罰せず”という言葉があるのは、そのためである。

ただ、真実は一つしかないので、濡れ衣を着せられて生きるということは、自分の身に引き替えると想像を絶するもので、世の中への痛恨の問いがあることを心して考える必要がある。

彼の遺影を見ながら、人の為に尽くすということを改めて教えられると共に、故人の天国での幸せを心より祈った。 合掌

「十勝の活性化を考える会」会長

注) 疑わしきは罰せず

「疑わしきは罰せず」とは、刑事裁判において、事実の存否が明確にならないときには被告人にとって有利に扱わなければならないとする法諺である。ラテン語の直訳から「疑わしきは被告人の利益に(疑わしきは被告人の利益に従う)」ともいう。

刑事裁判においては検察側が立証責任を負うため被告人側が自らの無罪を証明する必要性はないが、被告人に不利な内容について被告人側がそれを覆した合理的な疑いを提示できた)場合には被告人に対して有利に(=検察側にとっては不利に)事実認定をする。

 

この言葉は事実認定の過程を裁判官の側から表現したものである。これを、当事者側から表現した言葉が推定無罪であり、ふたつの言葉は表裏一体をなしている。

検察官が挙証責任を負う範囲については、構成要件該当事実のほか、違法性有責性処罰条件・刑の加重減免・量刑を基礎付ける事実も含むと解される。したがって、例えば、殺人罪の構成要件該当事実については合理的な疑いを超える証明がなされていたとしても、正当防衛の否定に合理的な疑いがある場合は無罪としなければならない。

(出典:『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋)

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転生する三島由紀夫

2020-12-08 05:00:00 | 投稿

 

令和2年11月28日、NHKEテレ特集「没後50年、転生する三島由紀夫」を放映していた。

作家の三島由紀夫は1970年(昭和45)、東京都市ヶ谷駐屯地の自衛隊総監部で、早稲田大学生 森田必勝と共に割腹自殺した。彼は、自衛官たちに向かって白い手袋の拳を振り上げ、絶叫しながら演説を始めた。日本を守るために健軍の本義に立ち返れという、憲法改正の決起を促す演説をして、辞世の句を残して死んだ。

三島事件

金閣寺憂国豊饒の海など数々の小説を書き、ノーベル文学賞の候補者だっただけに、世界中に震撼が走ったことを、当時二十歳の私はよく覚えている。三島由紀夫の小説を読んで感じるのだが、彼はというものをいつも意識していたが、この番組を見て自殺理由が少し分かったように思った。

番組の中でも言っていたが、それは文学と行動の一致、そして輪廻転生である。輪廻転生とは、死んであの世にもどった霊魂が、また生まれ変わってくることをいう。

 

仏教の教えでは、六道(天界、人間界、修羅界、畜生界、餓鬼界、地獄界)という衆生が善悪の業によって六つの迷界に生まれ変わりながら生きていくとされ、豊饒の海はまさに、そのようなことがテーマになっている。

 

三年前、「日本人の死生観を考える」という講演を聞きに行ったが、その理由は、61歳の時に脳出血で倒れて生死をさまよったからである。東洋と西洋では死生観が異なり、宗教によっても異なるが、人生には前世、現生、後世があって、人生は善悪の業によって輪廻するそうである。

なお、知行合一とは、知識と行為が一体であるということで、 本当の知というものは、実践を伴わなければならないということである。そのような意味で、作家 三島由紀夫は、知行合一の人であったと思う。

「十勝の活性化を考える会」会長

注) 三島事件

バルコニーで演説する三島由紀夫

三島事件とは、1970年(昭和45年)11月25日に、作家三島由紀夫が、憲法改正のため自衛隊の決起を呼びかけた後に、割腹自殺をした事件である。三島が隊長を務める「楯の会」のメンバーも事件に参加したことから、その団体の名前をとって楯の会事件とも呼ばれる。

この事件は日本社会に大きな衝撃をもたらしただけではなく、日本国外でも速報ニュースとなり、国際的な名声を持つ作家の起こした異例な行動に一様に驚きを示した。

(出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋)

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死人に欲なし

2020-12-06 05:00:00 | 投稿

“死人に口なし”とは、よく言われる。死人に口なしとは、死んでしまった者は証言も意思表示もできないという諺であるが、私は、“死人に欲なし”だと思う。当たり前であるが、人間の欲は生きているから生ずるのである。

身内などの葬儀に出ていつも思うのであるが、人間は死んでしまうと欲がなくなり、みんな美しくなる。逆に言えば、我欲の強い人は醜くく見えてしまうので“小欲知足”が大切だということだろう。

知人に脳出血を機会に、この我欲を捨てた人がいる。その方はこのブログに、「我欲とは・・・」の題で、以下のように書いている。

「官僚」になるとほとんどの人は、事務次官を目指します。良い官僚とは、国益より省益を重んじる人です。私は脳出血で倒れて、行政庁でキャリアを積めず退官しましたが、一般企業に移ってから社会人として、何が一番大切かを知ることが出来ました。そして倒れてから、自分が一人で生きて行けないことを痛感し、今の自分があります。

大学や色々なところで講演していますが、「出会い」と「変容」、

即ち新しい自分に成長することで、生きる糧を得ました。名誉欲を捨てた人ほど強いということです。私は「名誉欲」だけでなく、仏教でいう「我欲」を捨てることにより、本当の自分が見えて来ました。

そこから自分がしたいこと、障害があるからこそ果たせる役割を発見出来たと思っております。障害の有無に係らず、自分がしたいことをやれることは幸せなことです。

「十勝の活性化を考える会」会長

注) 欲

欲とは、何かを欲しいと思う心。欲望、欲求などともいう。

人間ヒト)、動物が、それを満たすために何らかの行動・手段を取りたいと思わせ、それが満たされたときには快を感じる感覚のことである。生理的(本能的)なレベルのものから、社会的・愛他的な高次なものまで含まれる。心の働きや行動を決定する際に重要な役割をもつと考えられている。

仏教などでいう「欲」は、概ね生理的(本能的)なレベルのものを指しており、精神にとってをよくしていくもの、愛情を育てるもの、抑制するべきものとして説かれている。

 

仏教では、眼・耳・鼻・舌・身・意の六根から欲を生ずるとする[4]。また三界無色界色界欲界)といい、このようなさまざまな欲へ執着している者が住む世界として欲界(よくかい)があり、現実世界の人間や天部の一部の神々などがこの欲界に含まれる存在であるとする。

仏教では、欲そのものは人間に本能的に具わっているものとして、諸悪の根源とは捉えないが、無欲を善として推奨し、修行や諸活動を通じて無欲に近づくことを求めており[2]自制ではなく欲からの解放を求めている。原始仏教では、出家者は少欲知足(しょうよくちそく)といい、わずかな物で満足することを基本とした [5]。南方に伝わった上座部仏教は、この少欲知足を基本とする[5]

なお唯識仏教では、欲は別境(べつきょう、すべて心の状況に応じて起こすもの)で、そのはたらきに善・悪・無記(善と悪のどちらでもない)という3つの性(三性)を求めるとする。善欲は精進して仏道を求める心であり、悪欲は(とん、むさぼり)として根本的に具わっている煩悩1つとする。

しかし、大乗仏教の思想が発展すると、人間我・自我という欲に対し、如来我・仏性を得るという(つまり成仏すること)という大欲(たいよく)を持つことが重要視されるようになり、煩悩や欲があるからこそ菩提も生まれるという、煩悩即菩提という考えが形成された。したがって大乗仏教の中には欲そのものを全否定せず、一部肯定する考えもある。

(出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋)

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