義母が死んで、もうすぐ1年である。早いものである。去年、ニョーボがお母さん、ワシが父を亡くしたが、ワシがめそめそと、お義母さんや父のことをセンチメンタルに思い出しては、いまだに暗くなっているのだが、ニョーボはまったくそんな気配がない。ものすごく現実的である。
ワシの実家は、お寺関係だったから、人が亡くなるということに、他人よりも比較的厳粛な思いを抱いて育った。仏教というのは、ある意味、人が死ぬことを心中で整理することに主眼を置いた宗教である。そのくせ、節々に法事などするから、よけいに個人のことを忘れられない。
ニョーボを見ているとワシが見てきた死生観というのが、実は偏っていて、本当はもっと、ドライで、人が死ぬことも生まれることと同じようにごく一般的で自然現象なのだと思うのが普通なのだろうかと反省してみたりする。少なくとも、別の考え方があるのがわかる。
あと四半世紀もしたら、娘たちが今のワシの心境になって、その時ワシが今度は野辺に送られる立場になる。そう考えると、残された時間はあとわずかである。もっと短いかもしれない。はかないとか、さびしいとかではなく、日々大事に生きていかねばならないのだと思う。それが死んだ人からもらうメッセージなのかもしれない。