みちのくの十ふの菅菰七ふには君を寝させて三ふに我寝 源俊頼
(この歌を源俊頼としておりますが、「よみひとしらず」として「夫木和歌抄」に記載されてます。これを検証するものではありませんが、参考までに加えておきます)
ダブルベッドよりは狭かったんだなぁ。(と、これは独り言です)
かの画図にまかせてたどり行ば、おくの細道の山際に、十符の菅有。今も年々十符の菅菰を調て国守に献ずと云り。
前回の続きとお考え下さいませ。
「おくのほそ道」は芭蕉の歌枕を巡る旅。それに触れる旅。自身の目で実際を見る旅。
「くだまき」では、こう申し上げます。
はたして、もう一つの歌枕がここに存在しております。「十符の菅菰」。これはなんでしょうか。
前回の曽良日記にも。「十符菅・壷碑ヲ見ル」とあります。
酔漢には想像できない品物です。
広辞苑を紐解きます。
「編み目の十筋ある菅菰」そして菅菰には「菅で編んだ菰」とあります。
ここで思い出したのが、落語「芝浜」の一節「そんな金に手ぇ出してみろ!今頃寒空の中で菰被ってガタガタ震えてなきゃぁなんねぇ」と。
これで想像つきました。いわゆる「敷物」なのです。(これは常識かと思われるかもしれませんが、少し時間がかかりました・・)
そして、十符の菅菰とは、「袖中抄」に見られます。
「顕昭云、とふのすがごもとはあみ緒干してあみたる也。すがごもとは菅にてあみたる蔦也。すが笠すが蓑すが枕すがわらだ(わらだとはなんでしょう)などと云うがごとし」
とあるように、普通名詞の体をなしております。これが、冒頭の歌により固有名詞化され、歌枕として「みちのく」に定まって来ました。
ただ。何故岩切~利府の間の地名と合致したかは、不明です。(→酔漢の読みました文献には、その経緯は書き記されておりませんでした)
一つ気になりましたのが「封内風土記」には「十府池 名跡志ニ曰ク、岩切農家高森館下ニ小池アリ。池上垂柳有リ。柳下菅草頗(すこぶる)多シ。郷人之ヲ十府ノ菅ト謂フ」とあります。(封内風土紀は仙台藩が編纂した藩領内の村村まで至る地理的古文書で22巻あります。1772年に完成をみて、これは宮城を知る上で、とても貴重な史料です)
道すがら、川沿いに生えている菅。それが延々に続き、栽培をしている土地だったのでしょうね。
十符菅 宮城郡仙台ト塩竈トノ間岩切ト云辺ナリ 君やおもふ十符の菅ごも稲の番 高野幽山
菅という植物は、今では需要がないのでしょうね。当時は傘や菰。生活に欠かせないものだったのでしょう。
それを加工し、製品にして、藩に献上しているわけですから、相当の品質であったと推察出来ます。
十府は地名であり、先にも申しました通り「十府谷」とも呼ばれます。
金澤先生の論文を拝するに、こうあります。
元禄年間制作岩切松森絵図 をみると、東光寺門前の道路を川沿いに西へ行くと道の傍らの「十符の菅」栽培の記注があり「奥ノ細道ト云。田ノワキニスゲ植テ有」とした曽良日記に一致する。
こう記述されておられます。
はたして、枕詞ともなった「十符菅」です。この菅という植物を酔漢は見たことはあるのでしょうが、記憶がありません。
そして利府町は、今「十符の里」としてあらたな観光名所と発信させております。
「おくのほそ道」をたどっている「くだまき」です。新しい発見は過去の事だけでなくて、この「十符の里」という言葉もここで知りました。
故郷の情報から離れていたんですね。
ところで「利府」という地名ですが、言い換えれば「十府」と一致するのですね。
「利」は「と」とも発音します。「利根川」(とねがわ)が例ですが。
もともと「十符」と呼ばれ「十府」となって「利府」と変化し「りふ」と発音するようになった。
こう推察した次第です。
(もしかして、今さらながらの常識だったでしょうか・・・)
多賀城へ向かいます。
酔漢が自転車で走り回ってた頃、ここの分かれ道で「どっちに行こうかな?」といつも考えておりました。
(この歌を源俊頼としておりますが、「よみひとしらず」として「夫木和歌抄」に記載されてます。これを検証するものではありませんが、参考までに加えておきます)
ダブルベッドよりは狭かったんだなぁ。(と、これは独り言です)
かの画図にまかせてたどり行ば、おくの細道の山際に、十符の菅有。今も年々十符の菅菰を調て国守に献ずと云り。
前回の続きとお考え下さいませ。
「おくのほそ道」は芭蕉の歌枕を巡る旅。それに触れる旅。自身の目で実際を見る旅。
「くだまき」では、こう申し上げます。
はたして、もう一つの歌枕がここに存在しております。「十符の菅菰」。これはなんでしょうか。
前回の曽良日記にも。「十符菅・壷碑ヲ見ル」とあります。
酔漢には想像できない品物です。
広辞苑を紐解きます。
「編み目の十筋ある菅菰」そして菅菰には「菅で編んだ菰」とあります。
ここで思い出したのが、落語「芝浜」の一節「そんな金に手ぇ出してみろ!今頃寒空の中で菰被ってガタガタ震えてなきゃぁなんねぇ」と。
これで想像つきました。いわゆる「敷物」なのです。(これは常識かと思われるかもしれませんが、少し時間がかかりました・・)
そして、十符の菅菰とは、「袖中抄」に見られます。
「顕昭云、とふのすがごもとはあみ緒干してあみたる也。すがごもとは菅にてあみたる蔦也。すが笠すが蓑すが枕すがわらだ(わらだとはなんでしょう)などと云うがごとし」
とあるように、普通名詞の体をなしております。これが、冒頭の歌により固有名詞化され、歌枕として「みちのく」に定まって来ました。
ただ。何故岩切~利府の間の地名と合致したかは、不明です。(→酔漢の読みました文献には、その経緯は書き記されておりませんでした)
一つ気になりましたのが「封内風土記」には「十府池 名跡志ニ曰ク、岩切農家高森館下ニ小池アリ。池上垂柳有リ。柳下菅草頗(すこぶる)多シ。郷人之ヲ十府ノ菅ト謂フ」とあります。(封内風土紀は仙台藩が編纂した藩領内の村村まで至る地理的古文書で22巻あります。1772年に完成をみて、これは宮城を知る上で、とても貴重な史料です)
道すがら、川沿いに生えている菅。それが延々に続き、栽培をしている土地だったのでしょうね。
十符菅 宮城郡仙台ト塩竈トノ間岩切ト云辺ナリ 君やおもふ十符の菅ごも稲の番 高野幽山
菅という植物は、今では需要がないのでしょうね。当時は傘や菰。生活に欠かせないものだったのでしょう。
それを加工し、製品にして、藩に献上しているわけですから、相当の品質であったと推察出来ます。
十府は地名であり、先にも申しました通り「十府谷」とも呼ばれます。
金澤先生の論文を拝するに、こうあります。
元禄年間制作岩切松森絵図 をみると、東光寺門前の道路を川沿いに西へ行くと道の傍らの「十符の菅」栽培の記注があり「奥ノ細道ト云。田ノワキニスゲ植テ有」とした曽良日記に一致する。
こう記述されておられます。
はたして、枕詞ともなった「十符菅」です。この菅という植物を酔漢は見たことはあるのでしょうが、記憶がありません。
そして利府町は、今「十符の里」としてあらたな観光名所と発信させております。
「おくのほそ道」をたどっている「くだまき」です。新しい発見は過去の事だけでなくて、この「十符の里」という言葉もここで知りました。
故郷の情報から離れていたんですね。
ところで「利府」という地名ですが、言い換えれば「十府」と一致するのですね。
「利」は「と」とも発音します。「利根川」(とねがわ)が例ですが。
もともと「十符」と呼ばれ「十府」となって「利府」と変化し「りふ」と発音するようになった。
こう推察した次第です。
(もしかして、今さらながらの常識だったでしょうか・・・)
多賀城へ向かいます。
酔漢が自転車で走り回ってた頃、ここの分かれ道で「どっちに行こうかな?」といつも考えておりました。
酔漢さんのコメントもありました。
すっかり忘れていました。
http://blog.goo.ne.jp/hi-sann_001/e/719fc94796bf76e45b7cd2cdfdce0af5
「十府の里」は知ってましたが、意味は自分も知りませんでしたよ。
「菅で編んだ菰」と「壷碑ヲ見ル」
壷碑は多賀城碑(壷のいしぶみ)ですね。
芭蕉はこの碑を見るのを楽しみにしていたと聞きます。
利府から菅を持ってきてそこに敷いてまたは被って見ていたのでしょうか?
どう考えても利府からは見えませんよね?
十府にはは菅の職人が多くいたのでしょうか? これは意外と雑草のように見ているとおもいますよ。
小さな祠に大きな意味が隠されていたり。自転車でよく南宮あたりへ出かけましたが、ところどころ「妖怪」が住んでそうなところばかりでした。
今は住宅地になっておりますしね。
曽良のたった数行の日記は、暗号のようなにおいはします。
ひーさんの記事、勉強になります。
いつもながら、ありがとうございます。
返事、遅れて申し訳ございません。
私も読みながらしばらく考えていましたがなるほど、よく『こもっかぶり』などと言ってたあれかな?と思い当たりました。
菅という植物はみた事ないですね!
やはり重要が無くなると、姿を消していってしまうものなのでしょうか…
それにしても私の知らない土地のお話には毎回ワクワクいたします。
わかされ。確かにどちらに行こうか、瞬間迷いますね^^。
実は、僕もよく知らなくて、たの脇で母が教えてくれました。葉の長い植物ですから、乾燥させて、編み込んで行くのでしょうね。一葉が長くて、柔らかいものが良いのだそうです。
地元にいながら分らないこともたくさんありますね。
古い文献を見ておりますが、新しい発見が多く出てきます。次回はその分かれ道の先のお話しになりますよ。