酔漢のくだまき

半落語的エッセイ未満。
難しい事は抜き。
単に「くだまき」なのでございます。

ほそ道の先には・・ 岩切

2014-10-07 12:03:36 | もっとくだまきな話
八日 朝之内小雨ス。巳ノ尅 より晴ル。仙台ヲ立 。十符菅・壷碑ヲ見ル。未ノ尅、塩竈ニ着、湯漬など喰。末ノ松山・興井・野田玉川・おも ハくの橋・浮嶋等ヲ見廻リ帰 。出初ニ塩竃ノかまを見ル。宿、治兵へ。法蓮寺門前、加衛門状添。銭湯有ニ入。

曽良日記は上記の通りです。
このたった二行の行程が、さらに奥深く歴史の交差点をいくつも、何度も通りながらの作業をくだまきは続けております。
当初は、これだけの時間をかけるつもりはありませんでした。ですが、宮城の歴史、多賀城、塩竈を進む途中途中で知る言葉、人物、その謂れが、現在を語る上でとても影響のあったことに気づきました。
本日は、岩切にフォーカスをあててみます。

五月八日は、朝方は小雨。仙台を出る際の話は、前回致しました。その途中、今市(現、岩切)を通過する芭蕉一向です。
その曽良日記にも記載しておりますが「十符の菅」。この言葉が気になり、「はて、これも聞いたことがない」と調べたくなった次第です。
「とふのすが」と読みます。
これを解く鍵が岩切にありました。

巳の刻ですから、午前10時です。仙台を経ち、多賀城へ向かうわけです。街道は、こうです。
現在の仙台市原ノ町から燕沢、善能寺のやや東「比丘尼坂」を登って岩切今市を通り、岩切橋を渡り、東光寺の門前までのコースとなります。
この岩切ですが、「奥の細道」の由来に大きく影響している地だったのですね。
「奥の細道」が固有名詞として歴史に登場するのは、筑紫の僧、「宗久」の観応年間(1350年~1352年)の旅の「都のつと」の記録にこうあります
「さてみちの国たがのこふにもなりぬそれよりおくのほそみちをいふかたを南ざまに」。これが初見とされております。
(宝文堂 宮城県史 「おくのおそ道」より抜粋)
それから一世紀後、道興准后(この人物を掘り下げると室町時代の要所要所に顔を出していることが分ります、天皇そして足利義政の信認も厚い人物です。語るとこれだけでくだまきになりますので、割愛です)の紀行文「奥細道松本、もろおか(村岡=利府)あかぬま西行がへりなどいふ所々をうち過ぎて」と書かれているその二点が確認されているものでると言えます。
(「西行戻しの松」については、ひーさんの散歩道をご参照ください。松島の風景も素敵ですよ)
これ以前の表記についても、吾妻鏡では「奥大道。夜討強盗隆起」(建長八年六月二日条)とあるのですが、奥大道は場所、道を特定するには至っておりません。
そこで登場致しますのが、前回お話しいたしました「三千風」なのです。
三千風が編纂したとされてます「松島眺望集」にはしっかり「おくのほそみち」と記載され、それから後は、井原西鶴「一目玉鉾」には「奥細路」(おくほそじ)と出て来て、その後、この芭蕉の「おくのほそ道」へと連なります。
と、ここで、結論とするところだったのですが、金澤規雄先生(元、仙台一高教諭、宮城教育大学準教授)のご解説に寄りますと、その位置を限定させておられます。
先生は佐久間同厳の「奥羽観蹟聞老志」を引き合いにされておられます。まずは、ご紹介いたします。
(原文は漢文で、また、先生の論文はカタカナ表記にもなってますが、改めた形で掲載いたします。

東奥細路(おくのほそじ=おくのほそみち)、古より封内に、東奥通行(あずま街道)と称するものあり。或いは口碑に伝わるものあり。或いは書中に記するものあり。名取に於いては則ち(すなわち)笠島の辺りにあり。宮城に於いては則ち木の下の西にあり。その道路今と相会するものあり。昔と異なる者あり。その地またその地と分明ならず。或説に曰く、岩切の橋北東光寺前の道路これなりと。その下の碧潭(へきたん)を霧谷潭(きりがやまち)というなり。宗久記に考えふるに、則ち今通行する所のものと相同じ。

上記の記録でも「あるいは・・」とあって、幾分、懐疑的な表現ではあるけれども、岩切東光寺門前付近を「奥の細道」としているところに興味あります。
一節には、「伊達藩の儒者たちによってしるされた」とあった「奥のほそ道」の場所は、三千風達、俳諧人によって整理、伝えられたことが明確になります。
多賀城再興時に成立していた、「奥のほそ道」が、時代と共に途切れ、それを、紀行文によって再整備された。
こう見るのが自然ではないか。

「おくのほそ道」には、「かの図にまかせてたどりつけば・・・」とあって、その地図は、加右衛門の書いたものであることは先に語りました。(加右衛門は、芭蕉へ、糒と草鞋と海苔を渡してます)
そこで、東光寺門前であれば、道というより場所となります。
道であれば、点と点をつなぎ、線でなくてはならない。
それは、芭蕉が「おくのほそ道」と題名をつけてからの事であって、芭蕉以前では、この「岩切東光寺門前辺りの風景」を指していた。これが史実だと考えます。
この限定された特定された場所を「おくのほそ道」と題名にしたことで、そのことばが抽象的な意味に変化して行きます。

芭蕉は、そのはかない感じを伴ったことばのひびきに、謡曲「綿木」の「狭布の細道分け暮らして、綿木はいづくぞ」などのイメージをダブらさせつつ、これを奥州の道筋の汎称として、未知の辺土を分け入った旅路の記念とするとともに、さらに「柴門の辞」に「その細き一筋をたどり失ふことなかれ」と戒めた、詩心の伝統を探り風雅の未知の堂奥に尋ね入るべき細木一筋の道の意をもふくませたのである(角川文庫 「おくのほそ道」巻末解説文)

おくの細道の風景。
その岩切の様子は、酔漢が小学校に頃まではあまり変わらなかった(わけではないのですが・・)そんな風景だったような気がします。
冒頭の写真は、岩切城址、高森山から見下ろした十符谷(とふたに)です。昭和45年頃と推察します。
その高森は当時、(県民の森が出来る以前の様子)はこうでした。


今利府町が「十符の里」と言われる所以を語りたいと考えております。





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