酔漢のくだまき

半落語的エッセイ未満。
難しい事は抜き。
単に「くだまき」なのでございます。

久しぶりに・・・塩竈雑景

2012-06-05 08:35:33 | もっとくだまきな話
塩竈神社へ向う道は何本かございます。
表参道は、あの急な階段が有名ですが、通称「女坂」と呼ばれる、大鳥居から上がる道も風情があります。
「亀井亭」の前の道。と言えば皆様お分かりになられると思います。
あの、石畳は、硯石と同じ「雄勝町」のものと聞いたことがございます。
鳥居を過ぎて、階段を登り始める前、「一貫堂」があって、その漢方薬「さふらんとう」は全国的にも有名でございました。
さて、参拝道は左ですが、右側に藪に包まれた道があるのは、案外知られておりません。
そこを、登ってまいりますと、冒頭の写真に出くわします。

「勝画楼」という看板。
この名前を知っている人も塩竈では少なくなってまいりました。
単なる廃屋ではないのでした。
その建物は塩竈の歴史を語っているようでもあります。

浦霞を求めて、佐浦酒造さんのギャラリーへ行きますと、その左には、法蓮寺の向拝が移設されて本社の入口となっております。
法蓮寺は、塩竈神社の神宮寺として室町時代に建立されております。伊達藩は、御祈祷寺として使用。
隆盛を極めた同寺ですが、明治の廃仏毀釈により廃寺となります。
「勝画楼」は書院としての役割でしたからその取り壊しは免れました。
その後、塩竃きっての料亭と変貌しております。
「勝画楼」は、読んで字のごとし、「絵にも勝る風光を眺望できる」というところから名づけられました。
千賀浦を一望でき、遠くは松島の島々を望むことが出来る。
明治天皇が御休憩をされた際にも使われております。



現在は、このように廃屋となっております。
ここが埋め立て以前、岬の突端であることは下から見上げる事で分かります。
丁度「丹六園」から宮町方向へ参りますとそのいったんが伺えます。



海側へ大きなせり出しと、窓が見えます。
廊下は長く、建物右側は藪をかき分けてからでないと行きつけません。



地震で倒壊しなかったのが不思議に思えて来ます。
一森山から続く、岩盤の上であるため、揺れが軽減されていたのかと考えました。

昭和40年、料亭としての役割も終えております。
一枚の写真が残されております。
ある宴会の写真です。
昭和9年、6月16日のもの。



写真の解説文をそのまま抜粋いたします。

昭和9年6月16日、イタリア大使、シャシント・アウリッチ氏が同国軍艦に便乗して来塩。
同夜大使は幹部海軍士官と共に塩竈町の宴会にのぞみ、一泊。
翌17日、軍艦の艦長は大使代理として、今村町長宅を訪れ、謝意を表した。
大使は、日本美術の研究家でもあった。
16日、勝画楼での大使一向とともに会食する塩竈町招待者。


大きな歴史が秘められた建物でした。
何とか、残すことはできないものか。そう思えて来ます。

「勝画楼」の丁度、廊下の真下には、こうのようなものも残されております。



灯台の台座です。
多くの、人の名が刻まれておりました。
このような解説がございます。


我が国初の洋式灯台が塩竈に。
これもロマンの域を出ませんが、灯台のあかりに浮かぶ、勝画楼は、またどのように映るのだろうか。
丁度、あの本塩釜の交差点あたりからの眺めになるのでしょう。
昔の海と塩竈の変遷を思いながら、ここを後にいたしました。

追記・補足
法蓮寺
法蓮寺は金光明山法蓮寺と号し、真言宗塩竈神社別当寺であったが、明治維新に神仏判然令が布告され廃寺となる。現在その面影を偲ぶことができないが、藩政期には神社も含めて法蓮寺が管理して藩内第一の寺社領をもっていた。
 法蓮寺の由来についてはさだかではないが、塩竈神社には別当の神宮寺があって、奥州留守職4代留守家広の弟良弁が中興した。その後天正の頃、富鏡が神宮寺に真言宗法蓮寺を建立し、仙台藩政期には、塩竈神社別当寺となった。
 安永風土記書上によると同寺には本尊大日如来を安置する。仏殿・客殿・方丈・書院(勝画楼)・鐘楼・山内脇院12院が裏表道添いに建ち並んでいた。尚、勝画楼(書院)は藩主の神社参拝のお休み所として建てられ、明治9年明治天皇の塩竈神社御参拝の折、御休憩所となった。
                              【以上、平成7年塩竈市教育委員会】





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4 コメント

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上まで (ひー)
2012-06-05 21:59:11
行かれましたか。
廃墟になっている様は、残念ですね。
私はその入り口だけで上には上がりませんでした。
灯台の計画が潰れたのは勿体無いですね。
藩が押し進め事業でも、必要であれば世の中が変わっても、完成させるべきでしたね。
明治になり益々、港の重要性は必須だったに違いありません。
神仏分離の影響は日本的に見ても大きな影響ですね。
こうして見ていると、頑張って逆らったお寺は、火を放たれ貴重な建物や資料を失ないました。
また、檀家を持たない、つまりお墓の無い祈祷寺は藩からの支えが無くなり維持困難になりました。
これは神社も同じですね。
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もしかして… (ゴエモン)
2012-06-06 21:57:54
ご無沙汰しております。
土曜日に買い物に、と外に出ましたら、自転車に乗った、お方が海の方を見ていました。
この辺りで見かける自転車は子供くらいなので、目に留まり「珍しいな」と思っていました。
後日、ブログを拝見してもしかして、酔漢さん?と。

塩竈の風景、特に駅前は変わってしまいました。宮町の一方通行の道も対面通行になり、戸惑ってしまいます。
地元にいながら、目印がないので、間違えることもあります。

最近では、水族館建設の構想もあり、これから、また変わりそうです。


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ひーさんへ (酔漢です)
2012-06-07 07:38:23
何とか保存できる方向で話が進むといいですね。そして、もし、法蓮寺が残されていたら、日光東照宮的な風景であったかもしれません。
そして、もっと多くの人に知ってもらいたいです。
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ゴエモン様へ (酔漢です)
2012-06-07 07:40:31
ご無沙汰しておりました。
緑の自転車だったら、僕かも・・・。
買い物ついでにぶらぶらしてました。
あの坂道は・・・昔のように登れませんでした。
自転車の視点だとまた違った風景に見えてきます。
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