ご無沙汰しておりました。
皆様へはご心配も多々お掛け致しておりますが、仕事へも完全復帰し、元気に過ごしております。
過去にもご紹介いたしましたが、今回は、花の話題です。
しばらく、お付き合い下さいませ。
発行部数1位の新聞社も主催となって開催されている「蘭の展示会」。
東京ドームの中は、それはそれは、蘭で埋め尽くされていて、すごい人出となっております。
仙台市では、先だって、「蘭と薔薇の祭典」が開かれ、連日盛況であったとか・・。
「蘭は、すごいなぁ」と、経済効果の凄まじさを、改めて感じた次第でございました。
この「経済効果」という、一見、「花を語る」のには、不似合な言葉ではあるのですが、よーく考えておりますと、それはそれは、とても大事な事に気づくわけです。
バラですが、年間を通して、新しい品種が数百近く増えております。
各国で多くの「賞」が用意されていて、「○○賞をフランスで受賞」とか、冠が付きますと、世界中の愛好家が、その花を求めてやっきになっているわけです。
そりゃ、酔漢も「見たーーい」のは本音なのです。
そうした経済効果は、上記の通りなのですが、一回の展覧会で、何万人と観客を集められるとなりますと、もう「蘭」がダントツ!
この花の人気ぶりがうかがえます。
(と、語っておりまして・・一度も行ったことのない酔漢です。胡蝶蘭よりは春蘭の方がはるかに写真写りが良いのではないかと・・。こればかりは、個人の好み故、ご容赦)
バラにいたしましても、蘭にいたしましても、人を魅了し、世界中でどれだけの人が、その品種改良に英知とお金を使っているのか、想像もつきません。新しい品種に贈られる賞を得るかそうではないか。その花の運命も変えてしまうほど、効果があるのです。
さて、その花の新品種に贈られる賞は各花に設けられております。
酔漢も最近知ったのですが、「日本ぎぼうし協会」なる団体がありまして、毎年品評会を行っておりまして、新しい品種には、それこそ大層な賞が贈られます。(さて、置き・・)。
「かつて、日本は世界で最も花の輸出に熱心な国だった」とは、あまりしられておりません。
戦前は、特にそうで、紫陽花、桜、芍薬(しゃくやく)、など。多くの花が世界中に輸出されました。
「花の輸出」と聞きますと、「花が咲いた状態で・・・」とご心配される方もいらっしゃるかと存じますが、そうでなくて、苗であるとか、種であるとか、そうした形でもって輸出されていたわけでございます。
そして、その代表格が「菖蒲」と「芍薬」だったのです。
そうした歴史は第二次大戦で大きく変化し、日本国内、世界でも多くの品種が失われた結果となっております。
歴史の教科書には、載ることがない、大きな損失ではなかったかと考えてしまいます。
先に、「○○展覧会」「×○品評会」などの賞の話をいたしましたが、バラの作品展、賞が日本で開催されているのと同様に、日本の花がアメリカで品評会が行われていることは、あまりしられてはおりません。
少しばかり、このお話をいたしましょう。
「花菖蒲」には、いくつかの系統があります。
ここで「系統」をご説明申し上げますと、その「人」なり「土地」なりで品種改良され、新品種として認定された花がうまれたその系図。
とでも言ったらよいのでしょう。
その菖蒲の系統には「江戸系」「大船系」「長井系」などがあります。
写真は「長井系 長井薄紅」(大船フラワーセンター 酔漢撮影)です。
それぞれに良さがあり、特徴もございます。
これら系統に「アメリカ系」というのがあるのは、知られておりませんし、アメリカで「花菖蒲の品評会・賞」があるのは、一部でしかしられてないのは、残念です。
賞の名前は「ペーン賞」と言います。
花菖蒲の愛好家「ウィリアム・A・ペーン」氏を記念し、設けられました。
写真が酔漢のコレクションにないのですが大輪の花が美しい「ザ・グレートモーガル」は傑作と言えます。
氏が世に出した「花菖蒲」は170種に上り、これが全て「アメリカ系」となり、日本庭園だけでなく、アメリカの庭園にも植えられて現在に至っております。
鎌倉市にございます「大船フラワーセンター」は、旧神奈川県の園芸試験場でした。
戦前は菖蒲、芍薬などの品種改良を盛んに行いそれは日本の基幹的輸出産業物として外貨獲得に大きく貢献しておりました。
また、日本花菖蒲協会の歴史を紐解きますと、日米友好の証としての「花菖蒲」の位置付けも見られます。
ここにご紹介いたします。
1930年6月、リード博士夫婁が米国アイリス協会として日本に来られたので、堀切その他当時盛んであった方面を案内した。その際、博士が日本のアイリス・ソサエティーの幹部に逢いたいと言われたが、未だ本格的な会は結成していないとも言えないので、博士夫妻が来朝された機会に参加して頂いて、日本を代表する協会を設立するということにしてその快諸を得て、急遽、規約を定めて発会式と最初の講演会を小高園で開いた。(会報10号より) 「2001年12月 同協会発刊 年表より抜粋」
上記を見ますと、協会発足は、アメリカ人の愛好家「リード博士」の提言によってできた。となります。
この歴史には少し驚きました。
また、同年、このような歴史も見ることが出来ます。
ニューヨーク・ブルックリン植物園園長で米国アイリス協会のリード博士(Dr.G.M.Reed)が来日。日本のアイリス、ことに花菖蒲の徹底研究と品種の収集のため来日した。このことが強い刺激となり、花菖蒲が再認識され、各方面より栽培復興の意見が勃然として起こり、先の井下清、市川政司、池田喜兵衛らに加え、理学博士の三好学、西田衆芳園園主・西田信常、堀切小高園園主・小高伊左衛門らが中心となり、日本花菖蒲協会が設立された。
第1回観賞大会 昭和5年6月20日 堀切小高園、堀切園、吉野園出席者約300名陳列 会場日比谷公園陳列会場にて、7月10日より30日まで700鉢展示、熊本花菖蒲が初めて展示された。2001年12月 同協会発刊 年表より抜粋」
日本の菖蒲がどれだけ世界的に評価されているのか、分かる記述となっております。
話は少しそれますが、江戸時代のシーボルトを始め、外国人にとって「菖蒲」であるとか「紫陽花」であるとか、梅雨時、初夏を彩る「青色・蒼色」の花に惹かれる傾向があるように思えます。
考えますれば、「バラにはない色」であるし、ヨーロッパにもともとある花の「青」とは、やはり違う「色」であるように思えます。
戦前、昭和のはじめは、日米の交流が非常に盛んな歴史に触れることが出来ます。
「人形の交換」(「青い目の人形」の歴史は、知られたところです)、「日米野球の興行」(ベーブルース・ゲーリック等メジャー大物の来日)などなど。花の世界も例外ではなかった史実を見ることができるのですね。
返す返す、戦争の悲劇が残念でなりません。
その中で登場しますのが、鎌倉で菖蒲の品種改良を行い、輸出に貢献しました「宮沢文吾」博士の品種改良です。
1936年、理学博士・宮沢文吾氏が農林省の委託として神奈川県農事試験場で行った品種改良と研究結果を「花菖蒲品種改良報告書」で発表、300晶種の新花を紹介。同年、西田衆芳園・西田信常氏、「実際園芸」誌に「伝統に輝く熊本花菖蒲の品種と栽培」を掲載
「2001年12月 同協会発刊 年表より抜粋」
この年が最盛期でした。「大船系」と呼ばれる「花菖蒲」多く生まれた年でもありました。
「大船系 唐織」
「大船系 草の庵(くさのいおり)」
ですが、太平洋戦争激化で、園芸試験場は、食糧増産の為、田畑に代えられます。
芍薬、菖蒲は「贅沢品」として、人目をはばかるように栽培される結果となります。
多くの品種が失われました。
一方、アメリカではどうだったでしょうか。
例外ではなかったのです。
英語で「花菖蒲」は「ジャパニーズ・アイリス」と呼ばれております。
「敵国」の名前が冠に付いている花であるため、多くの公園で処分されました。(貴重種も含まれていたと聞きました。←日本でも、アメリカでも、再現不可能となった品種です。詳細は不明ですが・・)
ですが、「ペーン氏」は「花には罪はない」とし、自宅の庭で、こつこつを栽培を続けます。その最中でも品種改良を行い続けます。
考えれば、「外から見える環境にあったことにはは違いない」のです。どのような状況にペーンさんが置かれていたのか、想像に難くありませんが、相当なバッシングをうけたに違いないと思うのです。
戦後、花の美しさや日米関係が良好となり、彼が守った「菖蒲」の価値が見直されることとなります。
もう、菖蒲にとりまして「恩人」と言えます。
同氏。アメリカ花菖蒲協会会報より
ペーン氏、交配記録表。
加茂花菖蒲園 会報 より抜粋
交配記録を見ましても・・・・バラなんかも複雑なんだろうなぁ・・。←素直な感想。
戦後。失われた品種の再現が試みられます。
大船フラワーセンターでは、「芍薬」「菖蒲」など、過去の記録をもとに、現在でも「失われた名花」の再現作業が行われております。
ですが、数があまりにも多い。芍薬300種。菖蒲150種。これだけの花が行方不明のままです。
「戦争の喪失」これは良く言われる言葉ですが、こうした小さな花達も例外ではないのです。
終戦後、衆芳園・西田一声氏、戦後の混乱のなかから方々へ離散した品種を再収集し、いち早く「友鶴」などの名花を作出しはじめる
「2001年12月 同協会発刊 年表より抜粋」
そして、協会の再結成が行われました。今では、アメリカ、ヨーロッパ各国。オーストラリア。など、多くの愛好家が新しい品種を育てているような花となっております。
ところで、皆様へもう一度。
「あやめ」と「花菖蒲」の区別でございますが・・・。
ここで掲載いたしました写真は、全て「花菖蒲」なんです。
見分け方は「花弁の付け根が『黄色』であること」なんですね。
同じ部分が「交差模様=紋になっている」の「あやめ=紋目」となります。
地元多賀城で行われます「あやめ祭り」なのですが、実は「あやめ」は、ほとんど無くて、「花菖蒲」なんです。
でも、美しければ!!
さて、桜もまだ?な東北ですが、早くに「花菖蒲」の「くだまき」を語りました。
多賀城の「あやめ祭り」の様子は「ひーさんの散歩道」(2010年6月25日)をご覧下さいませ。
江戸系の「小青空」。
うーん・・・好きな品種なんですよ。
皆様へはご心配も多々お掛け致しておりますが、仕事へも完全復帰し、元気に過ごしております。
過去にもご紹介いたしましたが、今回は、花の話題です。
しばらく、お付き合い下さいませ。
発行部数1位の新聞社も主催となって開催されている「蘭の展示会」。
東京ドームの中は、それはそれは、蘭で埋め尽くされていて、すごい人出となっております。
仙台市では、先だって、「蘭と薔薇の祭典」が開かれ、連日盛況であったとか・・。
「蘭は、すごいなぁ」と、経済効果の凄まじさを、改めて感じた次第でございました。
この「経済効果」という、一見、「花を語る」のには、不似合な言葉ではあるのですが、よーく考えておりますと、それはそれは、とても大事な事に気づくわけです。
バラですが、年間を通して、新しい品種が数百近く増えております。
各国で多くの「賞」が用意されていて、「○○賞をフランスで受賞」とか、冠が付きますと、世界中の愛好家が、その花を求めてやっきになっているわけです。
そりゃ、酔漢も「見たーーい」のは本音なのです。
そうした経済効果は、上記の通りなのですが、一回の展覧会で、何万人と観客を集められるとなりますと、もう「蘭」がダントツ!
この花の人気ぶりがうかがえます。
(と、語っておりまして・・一度も行ったことのない酔漢です。胡蝶蘭よりは春蘭の方がはるかに写真写りが良いのではないかと・・。こればかりは、個人の好み故、ご容赦)
バラにいたしましても、蘭にいたしましても、人を魅了し、世界中でどれだけの人が、その品種改良に英知とお金を使っているのか、想像もつきません。新しい品種に贈られる賞を得るかそうではないか。その花の運命も変えてしまうほど、効果があるのです。
さて、その花の新品種に贈られる賞は各花に設けられております。
酔漢も最近知ったのですが、「日本ぎぼうし協会」なる団体がありまして、毎年品評会を行っておりまして、新しい品種には、それこそ大層な賞が贈られます。(さて、置き・・)。
「かつて、日本は世界で最も花の輸出に熱心な国だった」とは、あまりしられておりません。
戦前は、特にそうで、紫陽花、桜、芍薬(しゃくやく)、など。多くの花が世界中に輸出されました。
「花の輸出」と聞きますと、「花が咲いた状態で・・・」とご心配される方もいらっしゃるかと存じますが、そうでなくて、苗であるとか、種であるとか、そうした形でもって輸出されていたわけでございます。
そして、その代表格が「菖蒲」と「芍薬」だったのです。
そうした歴史は第二次大戦で大きく変化し、日本国内、世界でも多くの品種が失われた結果となっております。
歴史の教科書には、載ることがない、大きな損失ではなかったかと考えてしまいます。
先に、「○○展覧会」「×○品評会」などの賞の話をいたしましたが、バラの作品展、賞が日本で開催されているのと同様に、日本の花がアメリカで品評会が行われていることは、あまりしられてはおりません。
少しばかり、このお話をいたしましょう。
「花菖蒲」には、いくつかの系統があります。
ここで「系統」をご説明申し上げますと、その「人」なり「土地」なりで品種改良され、新品種として認定された花がうまれたその系図。
とでも言ったらよいのでしょう。
その菖蒲の系統には「江戸系」「大船系」「長井系」などがあります。
写真は「長井系 長井薄紅」(大船フラワーセンター 酔漢撮影)です。
それぞれに良さがあり、特徴もございます。
これら系統に「アメリカ系」というのがあるのは、知られておりませんし、アメリカで「花菖蒲の品評会・賞」があるのは、一部でしかしられてないのは、残念です。
賞の名前は「ペーン賞」と言います。
花菖蒲の愛好家「ウィリアム・A・ペーン」氏を記念し、設けられました。
写真が酔漢のコレクションにないのですが大輪の花が美しい「ザ・グレートモーガル」は傑作と言えます。
氏が世に出した「花菖蒲」は170種に上り、これが全て「アメリカ系」となり、日本庭園だけでなく、アメリカの庭園にも植えられて現在に至っております。
鎌倉市にございます「大船フラワーセンター」は、旧神奈川県の園芸試験場でした。
戦前は菖蒲、芍薬などの品種改良を盛んに行いそれは日本の基幹的輸出産業物として外貨獲得に大きく貢献しておりました。
また、日本花菖蒲協会の歴史を紐解きますと、日米友好の証としての「花菖蒲」の位置付けも見られます。
ここにご紹介いたします。
1930年6月、リード博士夫婁が米国アイリス協会として日本に来られたので、堀切その他当時盛んであった方面を案内した。その際、博士が日本のアイリス・ソサエティーの幹部に逢いたいと言われたが、未だ本格的な会は結成していないとも言えないので、博士夫妻が来朝された機会に参加して頂いて、日本を代表する協会を設立するということにしてその快諸を得て、急遽、規約を定めて発会式と最初の講演会を小高園で開いた。(会報10号より) 「2001年12月 同協会発刊 年表より抜粋」
上記を見ますと、協会発足は、アメリカ人の愛好家「リード博士」の提言によってできた。となります。
この歴史には少し驚きました。
また、同年、このような歴史も見ることが出来ます。
ニューヨーク・ブルックリン植物園園長で米国アイリス協会のリード博士(Dr.G.M.Reed)が来日。日本のアイリス、ことに花菖蒲の徹底研究と品種の収集のため来日した。このことが強い刺激となり、花菖蒲が再認識され、各方面より栽培復興の意見が勃然として起こり、先の井下清、市川政司、池田喜兵衛らに加え、理学博士の三好学、西田衆芳園園主・西田信常、堀切小高園園主・小高伊左衛門らが中心となり、日本花菖蒲協会が設立された。
第1回観賞大会 昭和5年6月20日 堀切小高園、堀切園、吉野園出席者約300名陳列 会場日比谷公園陳列会場にて、7月10日より30日まで700鉢展示、熊本花菖蒲が初めて展示された。2001年12月 同協会発刊 年表より抜粋」
日本の菖蒲がどれだけ世界的に評価されているのか、分かる記述となっております。
話は少しそれますが、江戸時代のシーボルトを始め、外国人にとって「菖蒲」であるとか「紫陽花」であるとか、梅雨時、初夏を彩る「青色・蒼色」の花に惹かれる傾向があるように思えます。
考えますれば、「バラにはない色」であるし、ヨーロッパにもともとある花の「青」とは、やはり違う「色」であるように思えます。
戦前、昭和のはじめは、日米の交流が非常に盛んな歴史に触れることが出来ます。
「人形の交換」(「青い目の人形」の歴史は、知られたところです)、「日米野球の興行」(ベーブルース・ゲーリック等メジャー大物の来日)などなど。花の世界も例外ではなかった史実を見ることができるのですね。
返す返す、戦争の悲劇が残念でなりません。
その中で登場しますのが、鎌倉で菖蒲の品種改良を行い、輸出に貢献しました「宮沢文吾」博士の品種改良です。
1936年、理学博士・宮沢文吾氏が農林省の委託として神奈川県農事試験場で行った品種改良と研究結果を「花菖蒲品種改良報告書」で発表、300晶種の新花を紹介。同年、西田衆芳園・西田信常氏、「実際園芸」誌に「伝統に輝く熊本花菖蒲の品種と栽培」を掲載
「2001年12月 同協会発刊 年表より抜粋」
この年が最盛期でした。「大船系」と呼ばれる「花菖蒲」多く生まれた年でもありました。
「大船系 唐織」
「大船系 草の庵(くさのいおり)」
ですが、太平洋戦争激化で、園芸試験場は、食糧増産の為、田畑に代えられます。
芍薬、菖蒲は「贅沢品」として、人目をはばかるように栽培される結果となります。
多くの品種が失われました。
一方、アメリカではどうだったでしょうか。
例外ではなかったのです。
英語で「花菖蒲」は「ジャパニーズ・アイリス」と呼ばれております。
「敵国」の名前が冠に付いている花であるため、多くの公園で処分されました。(貴重種も含まれていたと聞きました。←日本でも、アメリカでも、再現不可能となった品種です。詳細は不明ですが・・)
ですが、「ペーン氏」は「花には罪はない」とし、自宅の庭で、こつこつを栽培を続けます。その最中でも品種改良を行い続けます。
考えれば、「外から見える環境にあったことにはは違いない」のです。どのような状況にペーンさんが置かれていたのか、想像に難くありませんが、相当なバッシングをうけたに違いないと思うのです。
戦後、花の美しさや日米関係が良好となり、彼が守った「菖蒲」の価値が見直されることとなります。
もう、菖蒲にとりまして「恩人」と言えます。
同氏。アメリカ花菖蒲協会会報より
ペーン氏、交配記録表。
加茂花菖蒲園 会報 より抜粋
交配記録を見ましても・・・・バラなんかも複雑なんだろうなぁ・・。←素直な感想。
戦後。失われた品種の再現が試みられます。
大船フラワーセンターでは、「芍薬」「菖蒲」など、過去の記録をもとに、現在でも「失われた名花」の再現作業が行われております。
ですが、数があまりにも多い。芍薬300種。菖蒲150種。これだけの花が行方不明のままです。
「戦争の喪失」これは良く言われる言葉ですが、こうした小さな花達も例外ではないのです。
終戦後、衆芳園・西田一声氏、戦後の混乱のなかから方々へ離散した品種を再収集し、いち早く「友鶴」などの名花を作出しはじめる
「2001年12月 同協会発刊 年表より抜粋」
そして、協会の再結成が行われました。今では、アメリカ、ヨーロッパ各国。オーストラリア。など、多くの愛好家が新しい品種を育てているような花となっております。
ところで、皆様へもう一度。
「あやめ」と「花菖蒲」の区別でございますが・・・。
ここで掲載いたしました写真は、全て「花菖蒲」なんです。
見分け方は「花弁の付け根が『黄色』であること」なんですね。
同じ部分が「交差模様=紋になっている」の「あやめ=紋目」となります。
地元多賀城で行われます「あやめ祭り」なのですが、実は「あやめ」は、ほとんど無くて、「花菖蒲」なんです。
でも、美しければ!!
さて、桜もまだ?な東北ですが、早くに「花菖蒲」の「くだまき」を語りました。
多賀城の「あやめ祭り」の様子は「ひーさんの散歩道」(2010年6月25日)をご覧下さいませ。
江戸系の「小青空」。
うーん・・・好きな品種なんですよ。
焼かれても、埋められても、人の記憶に残る花の色は、美しいままだったんでしょうね。美しい花の画像とお話を、ありがとうございました。
以前飲み会をした、あの店はクローズしてしまいました。
今年は私の節目の年です。
第二なのか第三なのか、また次の人生が始まります。
まだまだしばらく働きますがね。
でも酔漢さんにも、いろんな事情がおありでしょうし。
語りたい言葉と語れない思いと。
それはまったくもって私自身の心情です。
父を亡くした翌日、マリンゲートの屋上で酒を飲んでました。
魚市場と造船所と仙石線と松島遊覧船と。
でも視界がカスミマス............
私もまだまだまだまだしばらく働きますよ。
さてと、ひーさんのところにお邪魔するか.....
寝てる場合じゃないですよ。
死んだかと思ったクロンシュタットさんがキリストのように復活しました。
酔漢さんも復活しましょう。
公明党の「小野寺としひろ」の実績ついてご紹介させてください。
・エレベーターの小野寺としひろ
仙石線各駅、市営住宅でエレベーター設置を推進しました
駅利用者や市営住宅の住民からの要望に応えて、小野寺はエレベーターの設置を強力に推進。
これまで、JR苦竹駅、陸前高砂駅、中野栄駅や高砂西住宅の一部にも設置し、JR福田町駅の利用環境改善への道すじもつけました。
仙石線各駅、市営住宅でエレベーター設置を推進しました。
誰もが暮らしやすい街へ。バリアフリー化を推し進めます!
・安心安全の小野寺としひろ
仙台市内の小中学校へエアコン設置を実現!
「災害級の猛暑」から子どもたちを守るため、小野寺としひろら公明党市議団は教室へのエアコン整備の要望を重ねてきました。
昨年 10月、仙台市長が「公明党の懸命な要望活動があって決断した」と明言し、仙台市立の小中学校、幼稚園、特別支援学校、高校を合わせた全 192校の約 3900室への設置が決まりました。
費用は、公明党が国に働きかけた 2018年度補正予算と仙台市の予算で確保。
今年度より順次、設置されます。
・幼児教育が無償化に!
小野寺としひろら公明党の長年の主張が実現!今年10月から、3~5歳児の原則全世帯を対象に、幼稚園(一部をのぞく)や認可保育所、認定子ども園の利用料が無償化されます(0~2歳児は住民税非課税世帯が対象)。
塩竈のことが懐かしくて、更新が止まったあともちょこちょこブログをのぞいてます。
公明党の小野寺としひろ、多くの応援の中で、見事当選させて頂きました!
貴重なお時間を頂き、ありがとうございました!
今でもこのブログを思い出します。