「先輩、おれもブログさぁ書いて(語って)みっぺっておもってっしゃ。先輩の使ってた『酔漢(よっぱらい)の妄語(くだまき)』って・・こいずば、そのまま俺、使ってもいいすか?」
「『ブログ』か、俺もわかんねぇけんど・・いいよ」
帰宅途中の路上。丹治さんとの会話です。
写真です。
丹治先生がお書きになっておりました「石巻日々新聞」のコラム「酔漢(よっぱらい)のくだまき」のある記事です。
これ、おもせかった!
ご紹介しておりました「記事」は「捕鯨をめぐって」というもの。
いたって丹治先生の主観が中心の記事ではございますが、本人の思い入れも激しくて、この記事だけでも10回の連載となっております。
ひとつご紹介いたしましょう。
「捕鯨をめぐって⑧ ちょっと個人的に」からです。
幼稚園に通っていた頃までは、あまり肉というものを食べていなかったような気がする。塩竈という港町に住んでいたこともあり、日常的に食べるのはもっぱら魚であった。
たまにカレーライスや豚汁が出るのが嬉しかった。すき焼きなど滅多にやらなかったし、誕生日や年取りに食べる鶏の腿のソテーが何よりのご馳走だった。
(中略)
小学校の給食には鯨の竜田揚げやオーロラ煮がよく出たが、どちらかと言えば竜田揚げの方が好きだった。
(略)
この竜田揚げが学校給食から姿を消したのは、いったい何時のことだっただろうか。中学生の時までは給食があった。しかし中学校で鯨を食べたという記憶がないのだ。
ドイツに留学する直前、応援団の仲間が壮行会をしてくれた。彼のお母さん心尽くしの料理は美味しいものばかりであったが、鯨の刺身がとりわけ印象に残っている。
(略)
ある晩の事、(ある飲み屋で)鯨刺身があるというので早速注文する。しかしご主人が言うには、「冷凍でないから高いですよ」。思わず日和って馬刺しにしてしまった我が身が情けない。
あの時、「いずれ必ず鯨刺しを食えるぐらい稼ぐようになってやる」と夜空の星に固く誓った。
近所に行きつけのスナックがある。そこで、滅多にないことだが鯨刺しが出る。刺身ではなく、さらし鯨や塩蔵鯨のこともある。
ラム酒も旨く、酔う程にマスターと二人で慷慨するのだ。
「一日も早く、また鯨を腹一杯食べられるようになればよい」
(この記事だけ見れば「朝まで生テレビ 捕鯨」的な論争に発展するかもしれませんが・・。本ブログの趣旨ではございませんのでご了解の程、お願い申し上げます。)
さて、本人の思い入れがテーマではございますが、「石巻日々新聞」の読者の方には非常に好評だったと聞きました。他にも「ドイツ留学」の話とか「日々の出来事」など、大いに「くだをまいている」丹治先生でございます。
酔漢、丹治さんが毎回分を自宅へ送ってくれましたおかげをもちまして、全ての記事を拝読いたしました。
そこから当ブログ「くだまき」へと繫がって来たのでした。
ただし「酔漢」を「よっぱらい」ではなく「すいかん」としましたし、「妄語」は「くだまき」とかなにしました。
丹治先生は編集為に、「ネタ帳と下書きは欠かさなかったと」言っておられます。
酔漢の場合、こういうものは全く使っておりません。
「おめぇ、どうしてあんなネタでブログ書いて(語って)のや?」
いつぞや丹治さんから質問を受けました。
ではここで、少しばかりネタを明かしますか・・。
同じ言葉(文章)で同じ「くだまき」は書けない(語れない)のです。と言いますのは、酔漢の中に「落語」が身に染みてございますので、「くだまき」全体は、落語の「まくら」と同じ形態になってしまうのです。PCのキーボードを叩いてはおりますが、PCの画面を見ながら「まくらを語る」のが「くだまき」なのでございます。
「落語のまくらそのまま」活字にしております。
ですから「くだまき」を語っております最中は、座布団(枕)へ半分正座をしながらです。
丁度PCの画面の先に客席を想定しながら話言葉で文章を綴っております。会話が多いのはそのせいかもしれません。(自身にとっての自然体です)
その会話ですが、落語の本題を意識いたしました。丁度上下を切るリズムで会話を成立させております。
これが、自身の記憶の中でしたら、左程苦労のないのですが、現在の記事「大和」となりますと、史実を照らし合わせる事が必要でございまして、歴史上の人物を自身の意識の中で会話をさせることが必要なのでした。ですが、これも下書きがございません。
そうなんです、高座へ座って「ネタ」を披露する「落語」なのです。
どうにも・・・・これが活字になっても変わらない癖でした。
ですから意識的に「記事」とは言わず「語る」になるわけでございました。
基本的に「自身の記憶を整理する」ということに主眼を置きます。ですが、そうとばかりは行かないようになったのも事実です。現に「大和を語る」では、自身の記憶もさることながら、(例えば、遺族会での御生存された方々との会話であるとか)「自分しか知りえていない史実を、きちんとして知らせる」ことも必要ではなかろうかとも思うようになりました。祖父を通して、その生き様を現在語っている最中でございます。
「人ありき」。これも主眼としたところです。そうなりますと、会話が、大事なファクターとなります。これも「くだまき」の重要な要素なのでした。
そして故郷です。大和建造ではすこしばかり、離れましたが、(建造は大和の歴史を語る上で外せない内容だったのでした。大和沈没の際には18名の宮城県出身者が祖父を含めておりました。その事は後程記事に致します。)宮城で出合った多くの人間模様が柱となります。酔漢の周りには本当に現在最高の舞台でご活躍されている方が大勢いらっしゃいます。彼ら、彼女らの摩訶不思議なエピソードは話のネタには欠かないのでした。今後新しい人物が大勢登場いたします。
ブログを通して、大勢の方と知り合うことができました。こんなにも、コミュニケーションが取れるとは当初考えもしませんでした。
黙っておっても正体はバレますね。現「仙台高校校長先生」は本編での御登場いただきました酔漢の恩師でもございますが、「おめぇだべ!」と手紙を頂戴致しました。もう何十年ぶりだったでしょうか。
クロンシュタット様は塩竈の大先輩です。お話を重ねているうちに幼少の頃からのすれ違い、ニアミスを続け、現在は長男のPTA仲間でもあります。(お会いしたことはないのですが)その近くて遠い存在は40年近くも続いている事実です。
ひー様の記事には、思い出されることが多いのでした。「あの角、あの風景」酔漢のいた場所場所が現在に蘇るような気がいたします。
ぐずら様、ばるえ様も、酔漢の近くにいらした方でした。「唯梨庵」で「八重洲書房」で酔漢の隣にいらしたかも・・・。
他にも大勢、ブログを通して知り合えた方達がおられます。皆様から多くの元気を頂きました。
3年も続くなんて考えもしませんでした。
多くの皆様へ。
ありがとうございます。
追伸
「大和を語る」は現在も史料を整理しております。ある疑問にぶつかりました。
自身では「仮説」を立てておりますが「検証」している最中です。
歴史の教科書と違った見解になるやもしれませんので、しばらく時間を掛けたいと考えております。この内容が「大和を語る」の主題でもあるのでした。
「『ブログ』か、俺もわかんねぇけんど・・いいよ」
帰宅途中の路上。丹治さんとの会話です。
写真です。
丹治先生がお書きになっておりました「石巻日々新聞」のコラム「酔漢(よっぱらい)のくだまき」のある記事です。
これ、おもせかった!
ご紹介しておりました「記事」は「捕鯨をめぐって」というもの。
いたって丹治先生の主観が中心の記事ではございますが、本人の思い入れも激しくて、この記事だけでも10回の連載となっております。
ひとつご紹介いたしましょう。
「捕鯨をめぐって⑧ ちょっと個人的に」からです。
幼稚園に通っていた頃までは、あまり肉というものを食べていなかったような気がする。塩竈という港町に住んでいたこともあり、日常的に食べるのはもっぱら魚であった。
たまにカレーライスや豚汁が出るのが嬉しかった。すき焼きなど滅多にやらなかったし、誕生日や年取りに食べる鶏の腿のソテーが何よりのご馳走だった。
(中略)
小学校の給食には鯨の竜田揚げやオーロラ煮がよく出たが、どちらかと言えば竜田揚げの方が好きだった。
(略)
この竜田揚げが学校給食から姿を消したのは、いったい何時のことだっただろうか。中学生の時までは給食があった。しかし中学校で鯨を食べたという記憶がないのだ。
ドイツに留学する直前、応援団の仲間が壮行会をしてくれた。彼のお母さん心尽くしの料理は美味しいものばかりであったが、鯨の刺身がとりわけ印象に残っている。
(略)
ある晩の事、(ある飲み屋で)鯨刺身があるというので早速注文する。しかしご主人が言うには、「冷凍でないから高いですよ」。思わず日和って馬刺しにしてしまった我が身が情けない。
あの時、「いずれ必ず鯨刺しを食えるぐらい稼ぐようになってやる」と夜空の星に固く誓った。
近所に行きつけのスナックがある。そこで、滅多にないことだが鯨刺しが出る。刺身ではなく、さらし鯨や塩蔵鯨のこともある。
ラム酒も旨く、酔う程にマスターと二人で慷慨するのだ。
「一日も早く、また鯨を腹一杯食べられるようになればよい」
(この記事だけ見れば「朝まで生テレビ 捕鯨」的な論争に発展するかもしれませんが・・。本ブログの趣旨ではございませんのでご了解の程、お願い申し上げます。)
さて、本人の思い入れがテーマではございますが、「石巻日々新聞」の読者の方には非常に好評だったと聞きました。他にも「ドイツ留学」の話とか「日々の出来事」など、大いに「くだをまいている」丹治先生でございます。
酔漢、丹治さんが毎回分を自宅へ送ってくれましたおかげをもちまして、全ての記事を拝読いたしました。
そこから当ブログ「くだまき」へと繫がって来たのでした。
ただし「酔漢」を「よっぱらい」ではなく「すいかん」としましたし、「妄語」は「くだまき」とかなにしました。
丹治先生は編集為に、「ネタ帳と下書きは欠かさなかったと」言っておられます。
酔漢の場合、こういうものは全く使っておりません。
「おめぇ、どうしてあんなネタでブログ書いて(語って)のや?」
いつぞや丹治さんから質問を受けました。
ではここで、少しばかりネタを明かしますか・・。
同じ言葉(文章)で同じ「くだまき」は書けない(語れない)のです。と言いますのは、酔漢の中に「落語」が身に染みてございますので、「くだまき」全体は、落語の「まくら」と同じ形態になってしまうのです。PCのキーボードを叩いてはおりますが、PCの画面を見ながら「まくらを語る」のが「くだまき」なのでございます。
「落語のまくらそのまま」活字にしております。
ですから「くだまき」を語っております最中は、座布団(枕)へ半分正座をしながらです。
丁度PCの画面の先に客席を想定しながら話言葉で文章を綴っております。会話が多いのはそのせいかもしれません。(自身にとっての自然体です)
その会話ですが、落語の本題を意識いたしました。丁度上下を切るリズムで会話を成立させております。
これが、自身の記憶の中でしたら、左程苦労のないのですが、現在の記事「大和」となりますと、史実を照らし合わせる事が必要でございまして、歴史上の人物を自身の意識の中で会話をさせることが必要なのでした。ですが、これも下書きがございません。
そうなんです、高座へ座って「ネタ」を披露する「落語」なのです。
どうにも・・・・これが活字になっても変わらない癖でした。
ですから意識的に「記事」とは言わず「語る」になるわけでございました。
基本的に「自身の記憶を整理する」ということに主眼を置きます。ですが、そうとばかりは行かないようになったのも事実です。現に「大和を語る」では、自身の記憶もさることながら、(例えば、遺族会での御生存された方々との会話であるとか)「自分しか知りえていない史実を、きちんとして知らせる」ことも必要ではなかろうかとも思うようになりました。祖父を通して、その生き様を現在語っている最中でございます。
「人ありき」。これも主眼としたところです。そうなりますと、会話が、大事なファクターとなります。これも「くだまき」の重要な要素なのでした。
そして故郷です。大和建造ではすこしばかり、離れましたが、(建造は大和の歴史を語る上で外せない内容だったのでした。大和沈没の際には18名の宮城県出身者が祖父を含めておりました。その事は後程記事に致します。)宮城で出合った多くの人間模様が柱となります。酔漢の周りには本当に現在最高の舞台でご活躍されている方が大勢いらっしゃいます。彼ら、彼女らの摩訶不思議なエピソードは話のネタには欠かないのでした。今後新しい人物が大勢登場いたします。
ブログを通して、大勢の方と知り合うことができました。こんなにも、コミュニケーションが取れるとは当初考えもしませんでした。
黙っておっても正体はバレますね。現「仙台高校校長先生」は本編での御登場いただきました酔漢の恩師でもございますが、「おめぇだべ!」と手紙を頂戴致しました。もう何十年ぶりだったでしょうか。
クロンシュタット様は塩竈の大先輩です。お話を重ねているうちに幼少の頃からのすれ違い、ニアミスを続け、現在は長男のPTA仲間でもあります。(お会いしたことはないのですが)その近くて遠い存在は40年近くも続いている事実です。
ひー様の記事には、思い出されることが多いのでした。「あの角、あの風景」酔漢のいた場所場所が現在に蘇るような気がいたします。
ぐずら様、ばるえ様も、酔漢の近くにいらした方でした。「唯梨庵」で「八重洲書房」で酔漢の隣にいらしたかも・・・。
他にも大勢、ブログを通して知り合えた方達がおられます。皆様から多くの元気を頂きました。
3年も続くなんて考えもしませんでした。
多くの皆様へ。
ありがとうございます。
追伸
「大和を語る」は現在も史料を整理しております。ある疑問にぶつかりました。
自身では「仮説」を立てておりますが「検証」している最中です。
歴史の教科書と違った見解になるやもしれませんので、しばらく時間を掛けたいと考えております。この内容が「大和を語る」の主題でもあるのでした。
バダバダすったおね。
ながなが投稿でぎねがったけど、勘弁してけらいね!!
来年度の授業計画ば立でたり、非常勤の先生方に来年度の御願いばしたり・・・
何せ「師」走っつうぐらいで、けっこうこっちも忙しがったのや。
まず、酔漢さんがブログ始めてがら四年になっぺが。
私(わだす)がブログさ御邪魔するよんなってがらは、何年になっぺ。
それにしても早えもんだね。
話のタネがなぐなんねごども、まずたまげでんのっしゃ。
これからもけっぱって、ブログ続げでけさいね!
応援してっからっしゃ!!
何はともあれ、御目出度う。
追伸
この九月に中学の同窓会が終ってから、
まだヒゲを蓄えてをります・・・
昔の仙台塩竃、ウイスキー、落語、高校野球、大和…いつも読むばっかりで申し訳ないです。
「記事というより語る」という風なのは落語からだったんですね。
酔漢さんも年末お仕事忙しいようですが、お体気をつけて…これからも楽しみにしてます♪
「新のり」です。
今の時期、のりを作る機械の音と、あの独特な香は、塩竈中どこにでもあったものでした。
来年、七ヶ浜出没する際には、しっかり予告しよう・・・なんて考えております。
でも、今だに髭のイメージがあるんですよね。
大和の疑問ですが、本当に疑問です。
今、その裏づけを探しているのですが、多数の著書の中でも「平然と語られている」ことですので、誰も疑問に思ってないのでしょうね。
来年、早々には語ろうかと考えております。
いつの間にか、生活の一部のなっておりました。
今、語っております事柄は、来年春まで続くかも知れません。
こちらこそ、よろしくお願いいたします。
仙石線、茶色でしたよね。緑になったのはいつ頃からですか?知っているようで、記憶が定かではないのです。
ブログ4年目ですか、おめでとうございます♪
女房のぱるえがブログを始め、飲み仲間のひーの字もブログをやってた…
ひょんなことから酔漢さんや丹治さん、クロンシュタットさんとも知り合いました。
塩竈、多賀城、七ヶ浜…ぐずら家の移り住んだ土地と皆さんのテリトリーが重なります。
学生時代の仙台の街もぐずら・ぱるえの行動エリアと重なっていますね。
近ごろ家でパソコンに向かう時間が少なくてなかなかお邪魔できずにいますが、
これからもよろしくお願いします。
丹治先生は今でも髭を・・?
丹治先生のことは大体(現在のご職業)わかります。
鯨・・・やはり私も竜田揚げですかね。
大和の疑問??? 気になりますね。
お忙しい毎日でしょうけれども、お話を伺うのを愉しみにしているファンの為にも、続けて下さい。あ、でも体調管理が一番大切ですよ!年末年始で、さらにお忙しくなって酒量も増えるでしょうけれども、ご自愛下さいね。
なんだか急に年をとってしまったかのようです。
3年といえば、自分にとっても「あの頃か」と、思い当たる記憶もあります。
子供の頃とは異なり、光陰矢のごとし、です。
あれれれ、と時が過ぎ去っていきます。
塩竃の思い出。
笠神は多賀城の市域から塩竃に飛び出した土地です。
平地の少なかった塩竃ゆえ、塩竃三中は笠神に建てられました。
学校の少なかった笠神からは、三小・三中への越境通学は、日常風景でした。
あの周辺は自治体の区分など実生活にはあまり意味を持ちません。
出かける、買物に行く、学校へ通う、みんな塩竃へ、そんな時代でした。
仙台は距離的にも精神的にも、まだまだ遠い、別世界でした。
小学生時代、版画作品の完成のため、夏休みに岸壁に通いました。
題材が漁船でしたから、必死にスケッチしていたものです。
・・・塩竃市内の小学校で1位でした。へへへ。
我が鉄道乗車の一人乗り初体験は、小1でした。
本塩釜から下馬へ、確か子供料金が5円でした。
仙石線が茶色の車体の時代でした。夢のような大旅行でした。
まだまだ私にも思い出と想いが尽きません。
今後ともキーボードのキーを押せる限りは、何卒よろしくお願いします。
試験中ではあるのに長男は鉄道本を読みふけっています。
本来は注意すべきでしょうが、そりぁ公認の勉強?だもんなぁ・・・