酔漢のくだまき

半落語的エッセイ未満。
難しい事は抜き。
単に「くだまき」なのでございます。

宮城県仙台向山高等学校校歌 斉唱

2012-11-29 08:40:26 | もっとくだまきな話
立松和博の足跡をたどっております。
が、これを辿って行く過程におきましていくつかの大きな事件にぶち当たる事に気づきました。
戦後、指揮権発動に繋がりました「造船疑獄」それ以前の検察庁内部の派閥争い。
また、読売新聞記者の愛娘が小学校の教室内で乱暴され殺害される。しかも犯人は不明のまま時効。
これらが、どう結びついているのか。
酔漢はその手の専門家ではありません。法制史にも疎い。
ですが、この事実は知っておいてもよかろう。
ところが、当時の新聞記事の記録が消されているのか資料が少ないのも事実。
特に「読売」はそうでした。
ですから、前回の続きを語るにはもう少し時間が必要です。
しばし、お時間を下さい。

さて、前置きが長くなりました。ご容赦下さい。

昭和53年5月。宮城県仙台向山高校校庭。当時の木造校舎の一番隅に「応援団団室」がございました。
その隣が「吹奏楽部 倉庫?」。この団室から和太鼓を運び出すのは1年生の仕事でした。
授業終了後、すぐさま団室へ向かいます。
早く、来るのは、酔漢と「かずひろ君」(後の副団長)。
「んで、そっち持ってけさいん」。
この和太鼓はかなりの大きさでした。
木枠を置いて、それに設置。それから声出しをして、一通り終わった頃に当時の応援団団長「きくち」さんがやって来ます。
長髪にわずか髭を蓄えました風貌。少しばかりこわもて?に見えなくもないのですが、意外に(失礼します)物理、数学の大家。
成績も常にトップクラスの方でございました。(結果、某国立大学の工学部建築学科へ進まれその後は?)
「どうだ、少しは慣れたか?」
ある日の事、酔漢が団室に独りでおりましたところに「きくち団長」が入って来ました。
「おしょすぃ事はねぐなったけんど、声がでねぐなって・・」
「最初はそうだけど、その内なれるから」と慰めにはならない?言葉でした。
「団長の時は、3年生がいねがった・・」
「ああ、んでも、その年に応援歌一番が出来て、去年二番が出来て・・・」
「最初の高体連は?応援はなんじょしたのすか?」
「俺らの年は、2年生と俺らの学年だけだけど、そりゃもちろん全種目1年生だけ」
「応援団もそうっだんだすぺ?」
「応援歌がなかったんだ。4月に開校して6月の大会だろ。間に合わなかった」
「歌無しで応援したのすか?」
「まぁ替え歌だよな」
「替え歌すか?」
「ナショナルラジカセ『マック』」
ここで、覚えていらっしゃる方おられますでしょうか。
映像探しましたが、流石にございませんでした。
以下のような、応援歌風の曲でした。

山並み遠く
水清く
命を燃やす学び舎に
我ら若人の粋高く
おおマック!おおマック!ナショナルマック!

「マックのところだけ『向陵』(こうりょう)にしたんだ」
先輩達の努力が偲ばれます。
校歌とこの替え歌のみで、高体連の応援を乗り切った訳でした。

「校歌は何じょして、できたのすか?」
「詩は一般公募したんだ」
「学生からすか?」
「校歌制定委員会が出来てさ。一般募集して、候補に挙がったものを選挙して決めたんだ」
「何ぼぐれぇ集まったのすか?」
「そこまでは解らない。でも、全員が『これだ!』としたのが、今の校歌なんだ」
「団長、ひとつ聞いていいすか?」
「何だ?」
「あれってっしゃ、確か先代(初代、当時)校長の作詞なんだすぺ?一般公募って言ってたんでねぇすか」
「そうだよ。一般公募さ。だから、校長が学生に混じって詩を応募したんだ」
「名前書いたんだすぺ?んで校長だってわかんでねぇすか?」
「そう、それも匿名でな」
「匿名?」
「曲がついたばかりの頃は、『作詞者不明』だった」

作詞 鎌本 武男
作曲 片岡 良和


うるわしき 陽光をうけて
草もゆる 学びの丘よ
広瀬川 松の樹間に
流れては 豊かにめぐる
身とこころ 珠と育くみ
夢多し 春秋三年 

へだてなき 恵の露に
花かおる 学びの園よ
蔵王が嶺の 高きを仰ぎ
競い立つ 若人われら
明けわたる 時代を呼びて
翔くるかな 理想の雲根 

星うつり 人かわるとも
みどり濃き 心の故郷よ
さかんなる 意気をうけづぎ
かがやけり われらが母校
一筋に 若きいのちは
刻むかな 久遠の歴史


「校名が出てこない。これが決めてになったと聞いたような気がする・・・」
「校長は校長と解られないようにしたのすかね?何時分かったのすか?」
「校歌に曲がついて、その披露の直後。校長の挨拶があったらしい。そのときの事は俺も先輩から聞いて・・」
「どんな話しだったのすか?」
「校長は、生徒の前で頭を下げたらしい。『生徒達だけの生徒による校歌が一番よかった』と、こう言ったらしいんだ。最後に『作詞者は私です』と全校生徒の前で話した」
「校長の名前があったら、それで決まっていたかも・・」
「いや、それはなかったと思う。むしろ逆だな。校長の名前を見たとたん、制定委員会は蹴ったと思う。私服、共学、自治。これは、ここにしかないものだろ」

あの美しいメロディーと共にあった、校歌制定の話。
あらかじめ、用意されている歌ではなかった史実。
「生徒の自治」を最初から建学としていた、母校。
その歴史の重みを思いました。

11月23日。高校同期会、そして、中学同期会のダブルヘッダーをこなしました。
中学同期会については、「くだまき」で何度も語ったところです。が、高校は初めてです。
数十年ぶりに会う友人達。
当時の事に話しが弾みました。
「これ、動画投稿できない?」とCDを持ち出したのは、当時の生徒会長「みうら君」(酔漢より彼はそれらしいです・・)
「なんだ?」
「当時の映像。卒業式もある。全員の校歌斉唱」
「ウソ!残ってた?デジタルに時代じゃないのに!8mmだよな!」
「そう8mmフィルムをデジタル化したもの」
これ、感動ものです。
酔漢の学級ではないのですが、卒業式の場面に感動しました。




「校歌、懐かしいなや」
「良い歌だよね」
「しっかり覚えてるし」
と皆で。
「校歌が決まった経緯って知ってる?」と酔漢。
案外知られていなかったようでしたので、この「くだまき」を語りました。

きくち団長の会話に戻ります。
「初代校長の鎌田先生の有名な言葉があるんだ」
「先輩おしえてけねぇすか?」
「校訓あるだろ『自律』『和敬』って」
「ありますが・・・」
「校長がいつも言っていたのはこう『君たちには自由を与えたつもりはない!我が校の校訓は自律であることを忘れるな。自律とは、自らを律する強い心がないと成り立たない!これを肝に命じてほしい』そう、自律ってそうなんだって俺達は思った」
重い言葉でした。
男女共学。私服。授業の選択制。生徒による運営自治。
開校からこれらを有している、唯一の高等学校。
仙台向山高校より後の高校は全て制服となります。
どちらが良いとか悪いとか、論議は別です。ここでは語りませんが、この稀有な歴史を持つ母校にやはり誇りを持っております自身がおります。

星うつり 
人代わるとも
緑濃き
心の里よ

三番の歌詞。
「心の里」の意味が判ったのは、つい最近の事なのでした。

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4 コメント

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クリスさんへ (酔漢です)
2012-12-02 09:13:55
「宇宙の奥の宇宙まで」
知ってます。そして、クリスさんの母校だったのですね。
「ゆんゆん」の部分は歌うのに難しくなかったですか。合唱だと力を入れ過ぎても、そうでなくても・・。そうした印象を持ちました。
卒業生、や在校生だけではなく、世の人に知られている。これは素晴らしい事だと思います。
返信する
見張り員さんへ (酔漢です)
2012-12-02 09:08:54
そうですか「マック」お持ちでしたか。
ラジカセは青春時代には欠かせないアイティムでした。
そして、見張り員さんの母校には、宮城の高校は二度、優勝を阻まれておりますね。
あおの校歌は、実は、少しばかり覚えております。
甲子園で聴くと、「いいなぁ」って思いますよ。
返信する
ご無沙汰しております。 (クリス)
2012-12-02 04:01:19
校長先生がお考えになったのですか。少し前に、旅立つ生徒を見送る校長先生が作られた歌が、卒業ソングとして日本中に流行しましたね。
向山高校に通っていたバイトの後輩(ごく近所の子でした)もこの校歌を歌ったのでしょうか。

実は我が母校の校歌も相当な変わり種です。
平成8年度入学生の私達は9期生でした。
校庭の石を拾うこともなく、プールも1年生の時から泳いでおりました。何を間違ってか甲子園に出てしまった翌年の入学だったはずです。
我が母校の校歌には、タイトルがついております。「○○高等学校校歌」以外に、です。
歌詞に擬音語としか言いようのない、不思議な言葉が入っており、某巨大掲示板サイトの用語の元ネタになったとかならないとか…。
ちょっと恥ずかしいかも…なんて思ってしまう我々を見透かしたかのように言われた言葉は、
「この学校で過ごし、卒業して行った先輩達は(高校生活を通して)、ゆんゆん、よんよん、やんやんとしか言いようがないと言ってた」
だったかな…まあ、そんなような内容でした(うろ覚えの話ですみません)
2年程前、同期会で久々に校歌を歌った時、少し胸にくるものがありました。思い出が走馬灯のように駆け巡りはしませんでしたが。
大学の校歌は全く知らなくても、今でも高校の校歌は完璧に歌えます。1番3番は毎年の校内合唱コンクールの課題曲でしたので諳んじているのですが、卒業式の練習で全校生とも2番で急に声が小さくなり、目が泳ぎ出します(笑)
中学校の校歌は1番だけ完璧なのですが、応援歌は短いのでちゃんと2番まで歌えます。3年生の時だけとはいえ、応援委員会のメンバー(生徒会メンバー、学級委員長と副委員長で構成)でしたので、知らなきゃモグリ、の世界です。
ふとした拍子に、校歌を思いっきり声に出して歌いたい衝動に駆られることがあります。
あの哲学的な校歌に、今更ながら何かを感じているのかもしれません。

校歌のタイトルを、「宇宙の奥の宇宙まで」と申します。
返信する
こんばんは (見張り員)
2012-11-29 23:49:29
素晴らしい歌詞ですね。
校名が出てこないというのが何ともいいですね。私の高校の校歌はもう何年も前甲子園に出てあのダルビッシュを負かした高校ですが校歌はフツーですw。
校長先生が作詞なさって全校生徒の前で「私です」とおっしゃった、これもいいですね。
潔い印象を受けます。

もうずっと前のことになった高校時代を今、ちょっと思い出しております。

そうそう、ナショナル・マック!私持ってましたよ、随分場がいこと使っていました!
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