昨日深夜。帰宅。
NHKを観ておりましたら「テレビ開局60周年」の番組が。
当時の映像と合わせて撮影者、アナウンサーの証言。
「あんなことあったっちゃな」と感慨にふけっておりました。
冒頭の写真は以前にもご紹介いたしましたが、「NHKニュースフィルム」のライブラリーです。
この中身は、残念ながら全編見るというわけにはいきませんが、その題名を追いかけてみました。
考えれば、テレビ登場からカラー放送になって、その時期は日本の高度経済成長とぶつかります。
テレビというメディアは、何を伝えてきたのでしょうか。
この「くだまき」はニュース軸で語るものですが、これまで、酔漢は「映像と音楽」のカテゴリーの中で、アニメであるとかドラマであるとかご紹介してまいりました。
ですが、そのそれぞれを思い出すと同時に、「一体どんな事が映像になって来たのだろう」という疑問もございます。
奇跡的に(?)我が家には、ニュースフィルムが全編残っていて、それを紐解くことは容易です。
時代が時代の中で、何が一番ニュースとして捉えられていたのだろう。
少しばかり振り返りたいと思いました。
昭和28年、テレビ開局の年の年末に放映された「今年の十大ニュース」。
もちろん白黒です。
テレビの一般家庭の復旧率がまだまだ低い時代です。
これを見ますに、「高橋桂三」アナウンサーがアンカーマンを務めておりました。
「奄美大島の日本復帰」
「第五次吉田内閣の誕生」
考えれば、まだまだ「戦争の傷跡」を残している我国でございます。
この翌年、日本映画が全盛を極め「ゴジラ」「七人の侍」が公開されます。
そんな、時代。
「中国からの帰国第一陣」は、これも、戦争の傷跡の一つ。
遠い昔のことながら、何か、つい最近のようにも感じる。
これは、テレビというメディアに慣れ過ぎたせいなのかもしれません。
子供たちにとっては、歴史の教科書に掲載されている事項が、映像として生々しく見る事ができます。
教科書や当時の新聞とは違って事件を共有できる。
僕らには無かった事。
中学の教科書は、当時、戦後すぐで終わっておりましたから。
「オーストラリア・マヌス島から戦犯者帰国」
これは、「戦場のメリークリスマス」の背景と一緒です。
こうした事が映像記録として残されておりました。
昨日の番組で「NHKが全ての番組を記録させたのは1984年から」という解説がありました。
さて、酔漢の生まれました昭和37年(1962年)はどのような出来事がありましたでしょう。
酔漢の誕生日の数日前「三河島列車事故」が発生しております。
そして、このニュース目録にはないのですが(甚だ残念ではあります)戦後初の国産旅客機「YSー11」が就航しております。
話しは変わりますが、藤沢上空を時たまあの独特のエンジン音でYS-11が飛行します。
バルコニーから見上げまして、「俺と同じ年なんだっちゃな」と思ってしましいます。現存する機体はそれよりも若いのでしょうが。
「池田勇人首相」になり、経済政策が重要視され、正しく高度経済成長が頂点近くまで登っている時期。
「堀江謙一」さんがマーメイド号で太平洋単独ヨット横断は、日本の冒険者の先駆けでした。
昭和37年は阪神タイガースが優勝した年。
まだジャイアンツの連覇は先の事です。
中学入学時。
卒業アルバム巻末には、その三年間の出来事が掲載されております。
その1年生の時。
連合赤軍のクアラルンプール事件が、印象に残っております。
塩竈実家近所には、犯人の実家がありました、「ハーグ事件」の時のお話しは以前語りましたが、やはり、実家近くを取材の車が通って行きます。
「六価クロム汚染」「中ピ連」「3億円事件の時効」
世の中を見ようとして来る年齢になって、衝撃ニュースが多く飛び込んできました。
その翌年、僕ら中学2年生の時。
「ロッキード事件」は、政治の分らない僕らでも、総理大臣が逮捕されるという衝撃でもって伝えられました。
「酒田大火」もこの年だったと思い出します。
NHK独占取材。「五つ子誕生」から始まって「五つ子元気」でこの年の映像が終わります。
「ミグ25函館着陸」は、本当に驚きました。
そして、この年を掲載しましたのは、この報道があったからです。
「進学塾ブームと偏差値」
「偏差値」という言葉は、中学1年の時に初めて聞きました。
定期考査や模擬試験の度に「偏差値」が記入されていて、そのコンマなんぼで一喜一憂していた頃を思い出します。
酔漢も果たして、「塾」には通っておりましたが(英学塾でした)そんにブームだったのかなぁ。
酔漢が少し早めに帰宅する(と言ってもたいがい9時は過ぎておりますが・・)駅では「塾の鞄」を背負った小学生を見かけます。
酔漢も、通学には人に負けないくらい?の時間を使いましたが、こんな遅くはありませんでした。
「今では、だれも問題にしないくらいの常識になったのか」と、こう思いました。
高校3年時。
「マイコンブーム到来」とあります。
最初に触れましたのが「富士通FM7」でした。
MSDOS搭載という当時の最新機種。
今思えば・・・石器に近い産物かもしれません。
だって、FPに保存しながら使っていて、それがすぐにデターオーバーを起こします。
でも、この「マイコン」という言葉も死語になって、それからのPCの普及率の速さを考えますと、物凄いものがあります。
携帯電話がまだ。
自動車電話が少し。
ポケベルもまだまだ。
インターネットなんて、一体何人の人が使ってたんだろう(というか、あったのだろうか・・)と考えてしまう。
「マイコンかぁ・・・・」と実は、一番目についた映像なのでした。
自作する強者もおりましたが、万年カレンダーのプログラムをマシン語で入力するわけです。
もう、気の遠くなる作業でした。
アニメ、ドラマ、スポーツ。
多くの記憶が映像と共にある世代。
この60年というメディアがたどってきた歴史を考えます。
「バラエティ番組がなくなる日」
小学校の恩師から電話がありました。(宮崎ばっぱです。→私、塩竃二小の時の担任。丹治さん、塩竃三小の時の担任。共通の恩師です)。
「酔漢ねぇ。『義和』が新しい本出したって送ってきたのよ。もうあの人らしくてね、酔漢にも読んでもらおうかと思って電話したの」
著されました、佐藤義和さんは、塩竃一小の時の教え子。
皆様へもう少しお話しいたしましょう。
「オレたちひょうきん族」のディレクターだった方。と言えば「ああそうかぁ」と思い出されるかもしれません。
痛烈に現在のバラエティ番組を批判されておられます。
「塩竈市にアニメ館を!」と誰も言ってはおりませんが、これも何度も語ったところですが「丸山正雄」さんは、塩竃のご出身。
「マッドハウス」と言えば「ああそうかぁ」と思い出されるかもしれません。
「坂道のアポロン」は、マッドハウス制作で音楽が「ようこちゃん」。
ですから、これは「宮城アニメなんだぁ」と思っている酔漢。
「鉄腕アトム」からアニメ制作に携わった同氏です。
あまり表には出てこない方ですが、お話しをお聞きしたい。
こういう思いは私だけではないと思います。
ニュースフィルムを眺めながら、「あんなこと」や「こんなこと」を思い出しては、一人で笑っております。(笑えないニュースもあるのですが・・)
♪いぃぃつぅぅのことだかぁぁおもいだしてごらん♪
実は・・・「そうかぁ、テレビって放送開始からまだ60年しか経ってないんだ」と気づいていたのか知らなかったのか、そんな自分がおりました。
NHKを観ておりましたら「テレビ開局60周年」の番組が。
当時の映像と合わせて撮影者、アナウンサーの証言。
「あんなことあったっちゃな」と感慨にふけっておりました。
冒頭の写真は以前にもご紹介いたしましたが、「NHKニュースフィルム」のライブラリーです。
この中身は、残念ながら全編見るというわけにはいきませんが、その題名を追いかけてみました。
考えれば、テレビ登場からカラー放送になって、その時期は日本の高度経済成長とぶつかります。
テレビというメディアは、何を伝えてきたのでしょうか。
この「くだまき」はニュース軸で語るものですが、これまで、酔漢は「映像と音楽」のカテゴリーの中で、アニメであるとかドラマであるとかご紹介してまいりました。
ですが、そのそれぞれを思い出すと同時に、「一体どんな事が映像になって来たのだろう」という疑問もございます。
奇跡的に(?)我が家には、ニュースフィルムが全編残っていて、それを紐解くことは容易です。
時代が時代の中で、何が一番ニュースとして捉えられていたのだろう。
少しばかり振り返りたいと思いました。
昭和28年、テレビ開局の年の年末に放映された「今年の十大ニュース」。
もちろん白黒です。
テレビの一般家庭の復旧率がまだまだ低い時代です。
これを見ますに、「高橋桂三」アナウンサーがアンカーマンを務めておりました。
「奄美大島の日本復帰」
「第五次吉田内閣の誕生」
考えれば、まだまだ「戦争の傷跡」を残している我国でございます。
この翌年、日本映画が全盛を極め「ゴジラ」「七人の侍」が公開されます。
そんな、時代。
「中国からの帰国第一陣」は、これも、戦争の傷跡の一つ。
遠い昔のことながら、何か、つい最近のようにも感じる。
これは、テレビというメディアに慣れ過ぎたせいなのかもしれません。
子供たちにとっては、歴史の教科書に掲載されている事項が、映像として生々しく見る事ができます。
教科書や当時の新聞とは違って事件を共有できる。
僕らには無かった事。
中学の教科書は、当時、戦後すぐで終わっておりましたから。
「オーストラリア・マヌス島から戦犯者帰国」
これは、「戦場のメリークリスマス」の背景と一緒です。
こうした事が映像記録として残されておりました。
昨日の番組で「NHKが全ての番組を記録させたのは1984年から」という解説がありました。
さて、酔漢の生まれました昭和37年(1962年)はどのような出来事がありましたでしょう。
酔漢の誕生日の数日前「三河島列車事故」が発生しております。
そして、このニュース目録にはないのですが(甚だ残念ではあります)戦後初の国産旅客機「YSー11」が就航しております。
話しは変わりますが、藤沢上空を時たまあの独特のエンジン音でYS-11が飛行します。
バルコニーから見上げまして、「俺と同じ年なんだっちゃな」と思ってしましいます。現存する機体はそれよりも若いのでしょうが。
「池田勇人首相」になり、経済政策が重要視され、正しく高度経済成長が頂点近くまで登っている時期。
「堀江謙一」さんがマーメイド号で太平洋単独ヨット横断は、日本の冒険者の先駆けでした。
昭和37年は阪神タイガースが優勝した年。
まだジャイアンツの連覇は先の事です。
中学入学時。
卒業アルバム巻末には、その三年間の出来事が掲載されております。
その1年生の時。
連合赤軍のクアラルンプール事件が、印象に残っております。
塩竈実家近所には、犯人の実家がありました、「ハーグ事件」の時のお話しは以前語りましたが、やはり、実家近くを取材の車が通って行きます。
「六価クロム汚染」「中ピ連」「3億円事件の時効」
世の中を見ようとして来る年齢になって、衝撃ニュースが多く飛び込んできました。
その翌年、僕ら中学2年生の時。
「ロッキード事件」は、政治の分らない僕らでも、総理大臣が逮捕されるという衝撃でもって伝えられました。
「酒田大火」もこの年だったと思い出します。
NHK独占取材。「五つ子誕生」から始まって「五つ子元気」でこの年の映像が終わります。
「ミグ25函館着陸」は、本当に驚きました。
そして、この年を掲載しましたのは、この報道があったからです。
「進学塾ブームと偏差値」
「偏差値」という言葉は、中学1年の時に初めて聞きました。
定期考査や模擬試験の度に「偏差値」が記入されていて、そのコンマなんぼで一喜一憂していた頃を思い出します。
酔漢も果たして、「塾」には通っておりましたが(英学塾でした)そんにブームだったのかなぁ。
酔漢が少し早めに帰宅する(と言ってもたいがい9時は過ぎておりますが・・)駅では「塾の鞄」を背負った小学生を見かけます。
酔漢も、通学には人に負けないくらい?の時間を使いましたが、こんな遅くはありませんでした。
「今では、だれも問題にしないくらいの常識になったのか」と、こう思いました。
高校3年時。
「マイコンブーム到来」とあります。
最初に触れましたのが「富士通FM7」でした。
MSDOS搭載という当時の最新機種。
今思えば・・・石器に近い産物かもしれません。
だって、FPに保存しながら使っていて、それがすぐにデターオーバーを起こします。
でも、この「マイコン」という言葉も死語になって、それからのPCの普及率の速さを考えますと、物凄いものがあります。
携帯電話がまだ。
自動車電話が少し。
ポケベルもまだまだ。
インターネットなんて、一体何人の人が使ってたんだろう(というか、あったのだろうか・・)と考えてしまう。
「マイコンかぁ・・・・」と実は、一番目についた映像なのでした。
自作する強者もおりましたが、万年カレンダーのプログラムをマシン語で入力するわけです。
もう、気の遠くなる作業でした。
アニメ、ドラマ、スポーツ。
多くの記憶が映像と共にある世代。
この60年というメディアがたどってきた歴史を考えます。
「バラエティ番組がなくなる日」
小学校の恩師から電話がありました。(宮崎ばっぱです。→私、塩竃二小の時の担任。丹治さん、塩竃三小の時の担任。共通の恩師です)。
「酔漢ねぇ。『義和』が新しい本出したって送ってきたのよ。もうあの人らしくてね、酔漢にも読んでもらおうかと思って電話したの」
著されました、佐藤義和さんは、塩竃一小の時の教え子。
皆様へもう少しお話しいたしましょう。
「オレたちひょうきん族」のディレクターだった方。と言えば「ああそうかぁ」と思い出されるかもしれません。
痛烈に現在のバラエティ番組を批判されておられます。
「塩竈市にアニメ館を!」と誰も言ってはおりませんが、これも何度も語ったところですが「丸山正雄」さんは、塩竃のご出身。
「マッドハウス」と言えば「ああそうかぁ」と思い出されるかもしれません。
「坂道のアポロン」は、マッドハウス制作で音楽が「ようこちゃん」。
ですから、これは「宮城アニメなんだぁ」と思っている酔漢。
「鉄腕アトム」からアニメ制作に携わった同氏です。
あまり表には出てこない方ですが、お話しをお聞きしたい。
こういう思いは私だけではないと思います。
ニュースフィルムを眺めながら、「あんなこと」や「こんなこと」を思い出しては、一人で笑っております。(笑えないニュースもあるのですが・・)
♪いぃぃつぅぅのことだかぁぁおもいだしてごらん♪
実は・・・「そうかぁ、テレビって放送開始からまだ60年しか経ってないんだ」と気づいていたのか知らなかったのか、そんな自分がおりました。
さて、そうなんですよ「田中角栄」さんも歴史の史料に掲載されておりまして、リアルタイムで話を聞いていた自分としては、なんか不思議な気もするわけです。
殺伐とした中にも、まだおおらかさが残っているような、そんな昭和だったとも思うのです。これはノスタルジーが成せる技なのでしょうね。
昭和55年、このころから少しずつ世の中に殺伐とした雰囲気が出てきたような気がしていますが現在からみればまだいい方だったですね。
そういえば田中角栄氏、歴史の教科書に出てました。もう彼も歴史上の人物!?