「清水(善造)!佐藤の奴どこにいるんだ?もうすぐ食事の時間だろ」
「佐藤か?あいつはまた・・・便所!」
「今日で何回目だぁ!」
「一日の半分は便所にいるなんて当たり前のような男なんだ」
デビスカップ日本チーム。
遠征先の客船の中での会話です。
デビスカップは現在でも「テニス国別対抗戦」として知られております。
時は1933年。
佐藤は、狭い客船の便所の中でただ一人苦しんでいるのでした。
1932年全英オープンテニス「ウィンブルドン大会」。
そのベスト4をかけた戦い。
センターコートには暖かい日差しが注いでおりました。
会場は超満員です。
前年の覇者シドニー・ウッドが登場するからでした。
対戦相手は「佐藤次郎」。
前年のフレンチオープンでベスト4には入ったものの、その実力は「まだフロッグであった」と見るマスコミが多かったのでした。
「おいオッズはどうなってんだ?」
「お前ねぇ、日本人にかける奴なんてぇいるのか?」
「でもよ、日本の選手はプレンチでベスト4だろ!ありえなくないか?」
「まぁないだろうな」
観客の興味は、シドニー・ウッドの連覇の方に興味があったのでした。
次郎は、空を仰ぎます。
彼は、一人で座っているベンチが好きでした。
「今日は日の丸がないんだ」
独り言をつぶやきました。
第一セットが開始されます。
ウッドは強烈なサーブで佐藤を翻弄しようとします。
しかし、佐藤は強烈な粘りを発揮します。
表情を表に表すことなどなく、ウッドのショットをことごとく返しています。
「チキショー。これならどうだ!」
ウッドのフォアがコーナーギリギリ右サイド奥に「決まりかけた!」と思った瞬間。
観客は、信じられない光景を目にします。
バシッツ!
カウンターとも言える佐藤のショットが左サイドへ決まりました。
会場は一瞬静まりました。得点コールの後の拍手すら忘れている。
そんな状況。
「おい!見たか!」
「見た!」
「奴は飛んだ・・・・よな・・・」
「ああ、飛んだ!確かに飛んだ!それも両足で!ダ!」
両足のスプリットステップ。
この時代。こんな言葉はまだありませんでした。
「信じられん。あれに追いつく選手なんて・・・ペリー(フレッド・ペリー)かチルデンか・・・いや無理だ。誰も出来ない。追いつかない」
ウッドは、呆然とコートに立ちすくんでいるばかりでした。
第一セット結果6-8。佐藤が取ります。
しかし、そこからウッドも本調子を取り戻します。
正直、日本から来た選手を内心「なめていた」自分を戒めました。
「奴の強さは本物だった」
第二セット、第三セットを、 6-1、 6-2。と連取します。
迎えた第四セット。
佐藤は鯨筋のガットを指で直しながら、疲れた様子もなくコートに立ちました。
「おい!ウッドの顔色が悪いんじゃないか」
疲労の色の濃いウッド。
「持久戦になれば勝機がある」佐藤は、この試合が長くなることをあらかじめ想定しております。
脅威の粘り。
「おい、奴のテニスはレトリバーなんてもんじゃねぇ!あれは完全に『ブルドッグ』だ!」
結果 4-6。
第五セット 3-6。
翌日の新聞は、「昨年の王者。散る」でした。
しかし、脅威の日本人として佐藤を紹介する記事もあり、その脇には「ブルドッグ」として紹介されてます。
「ブル・サトウ」の名はテニス界に現われた新星のようでもありました。
当時、日本のテニス界が世界の先端におりました。
清水、熊谷、布井他、世界クラスの選手が大勢おりました。
ですが、協会は、個人でのオープン出場より、国別対抗、オリンピック重視の傾向があり、ウィンブルドンよりデビスカップだったのでした。
「デビスカップになると佐藤は急に調子が悪くなる」
これは、日本協会もその理由が解らず、不思議なこととされておりました。
当時から佐藤は「日の丸を背負う事のフレッシャー」に悩んでおりました。
「もっと一人で戦いたい」
佐藤の本音だったのかもしれません。
翌年1933年。フレンチオープン順々決勝。相手はイギリスの英雄フレッド・ペリー。
(現在、その銅像はウィンブルドン会場にございます)
優勝候補はオーストラリアからの新鋭ジャック・クロフォード。
しかし、イギリス勢もペリーをはじめ、優秀な選手が揃っております。
日本からは、佐藤、布井の二人が出場しておりました。
試合開始、第一セットからペリーが押しております。
その第二ゲーム。
佐藤のショットに、ラケットをおろし、ボールを追う事を辞めたペリーでした。
「どうしたんだ?」
会場がざわめきます。
佐藤もとっさのことで、やわらかいロブをあげます。
当然、決まります。
ペリー帽子を取って、貴賓席へ一礼。
会場の誰しもが貴賓席へ目を剥けました。
イギリス王室から観戦に来ておりましたケント卿ご夫妻が着席。
イギリスの英雄とされたペリーは、佐藤との試合の勝利を確信したかのような振る舞いを見せるのでした。
第一セット1-6。
だれしもが、ペリー圧勝の予感。
ですが、佐藤は、またしても、脅威の粘りを見せます。
第二セット 7-5。
第三セット 6-4。
しかし、ここですっかり目の覚めたペリー。
第四セット 2-6。
またしても、持久戦。
最終セット 6-2。
佐藤の勝利。
「ブルドッグ佐藤」の名は最早疑う余地のない不動のニックネームとなったのでした。
「おいワニ対ブルドッグ。どっちがどうだと思う?」
「ラコステとサトウか?しつこさではブルに適う相手なんているか?」
世界じゅうのテニスファンをうならせたのでした。
当時の世界ランキングをここに記しておきましょう。
当時は、現在のような公式ランキングは存在しておりません。
雑誌「ウォリス・マイヤー誌」のよるものです。
プロアマ同時のランキングです。
クロフォード
ペリー
ニュスライン
チルデン
コジェルフ
佐藤
オースチン
バインズ
佐藤次郎がランキング世界三位という新聞記事を見かけますが、アマチュアで三位であって、プロも含めると上記のようになります。
この位置は日本テニス界最高順位であって、今だ超える者はおりません。
1933年、日本テニス界は世界を席捲致します。
佐藤の全英、全仏の男子シングルスのベスト4。
布井の全仏ベスト16。
また、布井とペアを組み、全英ダブルス準優勝。
文字通り、世界は日本という東洋の島国のテニスを目指すようになります。
この年が頂点でございました。
個人戦、エントリーには予算を出せない。
デビスカップでの出場以外は認めない。
そのデビスカップ。世界1位。地元の英雄クロフォードを破ります。
しかし、佐藤の体調の急変。
急性胃腸炎。
日の丸を背負う事のプレッシャーと戦い続けた彼の精神に異常が認められます。
日本チームはその佐藤の不調もあり、二回戦で大敗。
日本協会はその責任を佐藤一人に押し付けます。
「デビスカップで優勝できないのなら海外のオープン試合には出場させない」
母校早稲田のOBからも強烈な圧力を仕掛けられます。
その頃、佐藤は試合開始直前までトイレにこもる事が多くなっておりました。
トイレから直接コートに立つこともたびたびでした。
1934年、佐藤は結婚を思いつきます。
相手は、日本女子テニスプレヤーの草分け岡田早苗(全日本選手権準優勝4度)。
しかし協会はこれにも圧力をかけてきます。
「デ杯優勝が最優先」
4月。日本チームのヨーロッパ遠征。
客船「箱根丸」船中。
トイレでの生活の方が長くなっている佐藤。
「ここの所三日も食事をしていないが・・」布井が話しております。
「おい呼んで来よう」
佐藤の部屋を開けます。
誰もいない客室。
「佐藤がいない」
「また便所じゃないのか」
船内のトイレを全て探します。
その姿はありません。
再び、船室へ。
ベッドの上には、ハンガーに掛けられた日の丸のブレザー。その脇には愛用のラケット。
そして机上には、数通の手紙。
船から忽然と姿を消したブルドッグ佐藤。
自殺として、26歳でその生涯を閉じました。
1934年昭和9年4月5日の事でした。
海外もメディアは、その死を惜しむコメントを発表。
「あまりにも、日本人的だった。天皇と国の期待に応えられなかったのか。優勝を義務づけられ過ぎていたのか、彼は生死を試合に掛けていたのだろうか」(オーストラリア、ジャ-ナリストコメント)
5月、協会による慰霊祭が行われました。
錦織選手の全豪ベスト16は快挙。
その彼の活躍を新聞は八十年ぶりと記事にいたしておりました。
「八十年前は?」
こう思われた方が多いと存じます。
各社記事には「佐藤次郎以来」これしか、紹介がございませんでした。
「ブルドック佐藤」と世界テニス界に燦然と輝く、彼を紹介したく、くだまきにいたしました。
嘗て、メジャーリーグにおいて、ボストンが優勝から遠ざかっていて、その理由を「バンビーノ(ベーブルース)の呪い」とされていた時期がございます。
「ブルドッグ佐藤の呪い」
日本テニスが世界から遠ざかった理由を、佐藤を知ったときから、酔漢の頭の中には常にこの言葉がございました。
「これは、佐藤の呪い」だと。
しかしながら、彼(錦織君)は今日、ベスト8をかけて試合に望みます。
彼の活躍を期待しないではいられません。
「Air Kei」が「ブルドッグ」を凌駕する成績を得て、日本テニス界は佐藤の呪縛から解き放たれるのかと、そう思います。
彼のような選手が現れることを一番望んでいたのは「佐藤次郎」だったと。こう思うのです。
「ワニ対ブルドッグだって!ブルが勝に決まってる!」
「両足で飛びやがった!奴追いつかない球なんてあるのか!」
「しつこいどころじゃない。一度噛みついたら絶対に離さないブルドッグのような奴。レトリバーなんて単に愛玩犬じゃないか」
そして。
「奴とは絶対に当たりたくない」
フレッド・ペリー談。
「佐藤か?あいつはまた・・・便所!」
「今日で何回目だぁ!」
「一日の半分は便所にいるなんて当たり前のような男なんだ」
デビスカップ日本チーム。
遠征先の客船の中での会話です。
デビスカップは現在でも「テニス国別対抗戦」として知られております。
時は1933年。
佐藤は、狭い客船の便所の中でただ一人苦しんでいるのでした。
1932年全英オープンテニス「ウィンブルドン大会」。
そのベスト4をかけた戦い。
センターコートには暖かい日差しが注いでおりました。
会場は超満員です。
前年の覇者シドニー・ウッドが登場するからでした。
対戦相手は「佐藤次郎」。
前年のフレンチオープンでベスト4には入ったものの、その実力は「まだフロッグであった」と見るマスコミが多かったのでした。
「おいオッズはどうなってんだ?」
「お前ねぇ、日本人にかける奴なんてぇいるのか?」
「でもよ、日本の選手はプレンチでベスト4だろ!ありえなくないか?」
「まぁないだろうな」
観客の興味は、シドニー・ウッドの連覇の方に興味があったのでした。
次郎は、空を仰ぎます。
彼は、一人で座っているベンチが好きでした。
「今日は日の丸がないんだ」
独り言をつぶやきました。
第一セットが開始されます。
ウッドは強烈なサーブで佐藤を翻弄しようとします。
しかし、佐藤は強烈な粘りを発揮します。
表情を表に表すことなどなく、ウッドのショットをことごとく返しています。
「チキショー。これならどうだ!」
ウッドのフォアがコーナーギリギリ右サイド奥に「決まりかけた!」と思った瞬間。
観客は、信じられない光景を目にします。
バシッツ!
カウンターとも言える佐藤のショットが左サイドへ決まりました。
会場は一瞬静まりました。得点コールの後の拍手すら忘れている。
そんな状況。
「おい!見たか!」
「見た!」
「奴は飛んだ・・・・よな・・・」
「ああ、飛んだ!確かに飛んだ!それも両足で!ダ!」
両足のスプリットステップ。
この時代。こんな言葉はまだありませんでした。
「信じられん。あれに追いつく選手なんて・・・ペリー(フレッド・ペリー)かチルデンか・・・いや無理だ。誰も出来ない。追いつかない」
ウッドは、呆然とコートに立ちすくんでいるばかりでした。
第一セット結果6-8。佐藤が取ります。
しかし、そこからウッドも本調子を取り戻します。
正直、日本から来た選手を内心「なめていた」自分を戒めました。
「奴の強さは本物だった」
第二セット、第三セットを、 6-1、 6-2。と連取します。
迎えた第四セット。
佐藤は鯨筋のガットを指で直しながら、疲れた様子もなくコートに立ちました。
「おい!ウッドの顔色が悪いんじゃないか」
疲労の色の濃いウッド。
「持久戦になれば勝機がある」佐藤は、この試合が長くなることをあらかじめ想定しております。
脅威の粘り。
「おい、奴のテニスはレトリバーなんてもんじゃねぇ!あれは完全に『ブルドッグ』だ!」
結果 4-6。
第五セット 3-6。
翌日の新聞は、「昨年の王者。散る」でした。
しかし、脅威の日本人として佐藤を紹介する記事もあり、その脇には「ブルドッグ」として紹介されてます。
「ブル・サトウ」の名はテニス界に現われた新星のようでもありました。
当時、日本のテニス界が世界の先端におりました。
清水、熊谷、布井他、世界クラスの選手が大勢おりました。
ですが、協会は、個人でのオープン出場より、国別対抗、オリンピック重視の傾向があり、ウィンブルドンよりデビスカップだったのでした。
「デビスカップになると佐藤は急に調子が悪くなる」
これは、日本協会もその理由が解らず、不思議なこととされておりました。
当時から佐藤は「日の丸を背負う事のフレッシャー」に悩んでおりました。
「もっと一人で戦いたい」
佐藤の本音だったのかもしれません。
翌年1933年。フレンチオープン順々決勝。相手はイギリスの英雄フレッド・ペリー。
(現在、その銅像はウィンブルドン会場にございます)
優勝候補はオーストラリアからの新鋭ジャック・クロフォード。
しかし、イギリス勢もペリーをはじめ、優秀な選手が揃っております。
日本からは、佐藤、布井の二人が出場しておりました。
試合開始、第一セットからペリーが押しております。
その第二ゲーム。
佐藤のショットに、ラケットをおろし、ボールを追う事を辞めたペリーでした。
「どうしたんだ?」
会場がざわめきます。
佐藤もとっさのことで、やわらかいロブをあげます。
当然、決まります。
ペリー帽子を取って、貴賓席へ一礼。
会場の誰しもが貴賓席へ目を剥けました。
イギリス王室から観戦に来ておりましたケント卿ご夫妻が着席。
イギリスの英雄とされたペリーは、佐藤との試合の勝利を確信したかのような振る舞いを見せるのでした。
第一セット1-6。
だれしもが、ペリー圧勝の予感。
ですが、佐藤は、またしても、脅威の粘りを見せます。
第二セット 7-5。
第三セット 6-4。
しかし、ここですっかり目の覚めたペリー。
第四セット 2-6。
またしても、持久戦。
最終セット 6-2。
佐藤の勝利。
「ブルドッグ佐藤」の名は最早疑う余地のない不動のニックネームとなったのでした。
「おいワニ対ブルドッグ。どっちがどうだと思う?」
「ラコステとサトウか?しつこさではブルに適う相手なんているか?」
世界じゅうのテニスファンをうならせたのでした。
当時の世界ランキングをここに記しておきましょう。
当時は、現在のような公式ランキングは存在しておりません。
雑誌「ウォリス・マイヤー誌」のよるものです。
プロアマ同時のランキングです。
クロフォード
ペリー
ニュスライン
チルデン
コジェルフ
佐藤
オースチン
バインズ
佐藤次郎がランキング世界三位という新聞記事を見かけますが、アマチュアで三位であって、プロも含めると上記のようになります。
この位置は日本テニス界最高順位であって、今だ超える者はおりません。
1933年、日本テニス界は世界を席捲致します。
佐藤の全英、全仏の男子シングルスのベスト4。
布井の全仏ベスト16。
また、布井とペアを組み、全英ダブルス準優勝。
文字通り、世界は日本という東洋の島国のテニスを目指すようになります。
この年が頂点でございました。
個人戦、エントリーには予算を出せない。
デビスカップでの出場以外は認めない。
そのデビスカップ。世界1位。地元の英雄クロフォードを破ります。
しかし、佐藤の体調の急変。
急性胃腸炎。
日の丸を背負う事のプレッシャーと戦い続けた彼の精神に異常が認められます。
日本チームはその佐藤の不調もあり、二回戦で大敗。
日本協会はその責任を佐藤一人に押し付けます。
「デビスカップで優勝できないのなら海外のオープン試合には出場させない」
母校早稲田のOBからも強烈な圧力を仕掛けられます。
その頃、佐藤は試合開始直前までトイレにこもる事が多くなっておりました。
トイレから直接コートに立つこともたびたびでした。
1934年、佐藤は結婚を思いつきます。
相手は、日本女子テニスプレヤーの草分け岡田早苗(全日本選手権準優勝4度)。
しかし協会はこれにも圧力をかけてきます。
「デ杯優勝が最優先」
4月。日本チームのヨーロッパ遠征。
客船「箱根丸」船中。
トイレでの生活の方が長くなっている佐藤。
「ここの所三日も食事をしていないが・・」布井が話しております。
「おい呼んで来よう」
佐藤の部屋を開けます。
誰もいない客室。
「佐藤がいない」
「また便所じゃないのか」
船内のトイレを全て探します。
その姿はありません。
再び、船室へ。
ベッドの上には、ハンガーに掛けられた日の丸のブレザー。その脇には愛用のラケット。
そして机上には、数通の手紙。
船から忽然と姿を消したブルドッグ佐藤。
自殺として、26歳でその生涯を閉じました。
1934年昭和9年4月5日の事でした。
海外もメディアは、その死を惜しむコメントを発表。
「あまりにも、日本人的だった。天皇と国の期待に応えられなかったのか。優勝を義務づけられ過ぎていたのか、彼は生死を試合に掛けていたのだろうか」(オーストラリア、ジャ-ナリストコメント)
5月、協会による慰霊祭が行われました。
錦織選手の全豪ベスト16は快挙。
その彼の活躍を新聞は八十年ぶりと記事にいたしておりました。
「八十年前は?」
こう思われた方が多いと存じます。
各社記事には「佐藤次郎以来」これしか、紹介がございませんでした。
「ブルドック佐藤」と世界テニス界に燦然と輝く、彼を紹介したく、くだまきにいたしました。
嘗て、メジャーリーグにおいて、ボストンが優勝から遠ざかっていて、その理由を「バンビーノ(ベーブルース)の呪い」とされていた時期がございます。
「ブルドッグ佐藤の呪い」
日本テニスが世界から遠ざかった理由を、佐藤を知ったときから、酔漢の頭の中には常にこの言葉がございました。
「これは、佐藤の呪い」だと。
しかしながら、彼(錦織君)は今日、ベスト8をかけて試合に望みます。
彼の活躍を期待しないではいられません。
「Air Kei」が「ブルドッグ」を凌駕する成績を得て、日本テニス界は佐藤の呪縛から解き放たれるのかと、そう思います。
彼のような選手が現れることを一番望んでいたのは「佐藤次郎」だったと。こう思うのです。
「ワニ対ブルドッグだって!ブルが勝に決まってる!」
「両足で飛びやがった!奴追いつかない球なんてあるのか!」
「しつこいどころじゃない。一度噛みついたら絶対に離さないブルドッグのような奴。レトリバーなんて単に愛玩犬じゃないか」
そして。
「奴とは絶対に当たりたくない」
フレッド・ペリー談。
佐藤次郎さんの最期はそんな悲劇だったとは。
天国で錦織選手の事を褒めてくれるでしょうかね。
今日は残念でしたが、粘りも見せてくれました^^
余談ですが『ゲゲゲの女房』のふるさと、お隣の安来市大塚町は、
テニスのガットがクジラのヒゲだった時代に
最高で国内シェア80%の生産量を誇っていたそうです。
『出雲の稲妻』こと里見香奈初段とも、郷土出身の若者が
活躍してくれて嬉しい限りです。
東京の映像を見ましたが、関東は大変でしたね。
ブラックバーン+カメの甲羅状に凍って凸凹の道路、
あれ、山陰の人間から見てもかなり嫌です。
少し積もってる方がマシですよね。
錦織君の活躍で佐藤次郎が注目されるのは少し嬉しかったりします。日本人が忘れてはいけないアスリートだと思っております。
松江も雪が多いと聞きました。
そうですね。圧雪くらいの方がましですよね。
ここの雪は本当に始末に負えません。