酔漢のくだまき

半落語的エッセイ未満。
難しい事は抜き。
単に「くだまき」なのでございます。

祖父・海軍そして大和 遺族として、家族として 石田恒夫少佐

2011-02-21 10:05:58 | 大和を語る
昭和五十七年八月十五日付け、父宛書簡です。
当時、戦艦大和会会長「石田恒夫元少佐」からのものでございます。
同様の書簡は、大和会会員の皆様へ送られたものだと思います。
この書簡ど共に、同封されておりましたのが、祝詞の写しでございました。
先ずは文面をご紹介いたします。

残暑御見舞申し上げます。
不順な気象の中で日一日と秋に向かって矢の如く進む支陰を嘆じています。
今年は戦艦大和で大変お世話になりました。
東支那海の戦艦大和発見をよろこんで宮教法人神道大教守護神教会教主石神万平氏が大和を祀る祝詞を作って下さいました。コピーを同封いたします。高声を放って祝詞をあげて下さい。
なお、この教会の祭神は造化の三神(天之御中主大神、高産霊神、神皇産霊神)と民族緺守護(天照大神)をお祭りしています。
戦艦大和会々長 石田恒夫 拝

石田さんは、大和会会長を長くお努めされました。古村啓蔵元二水戦司令官の後を継いだ形となりました。
一度お顔を拝見いたしました。
軍人らしい(ちょっと強面の印象があるのです・・・酔漢十代故・・)感じの原為一矢矧元艦長や大和元副砲長清水芳人さんとかと違って、ふつうのどちらかと言えば、教頭先生のようなイメージがございました。
そうですよね、古村のおじいちゃん(そんな感じ)も原のおじいちゃんも「ゴリラ」って渾名(この渾名は大和有賀幸作艦長と古村司令官のものですが)がつきそうでしたから。
集合写真を見ますれば、徳之島では最後列にお立ちになられておられます。
その石田恒夫さんの手記をご紹介いたします。
「36期指導官 海軍主計少佐  石田恒夫」

からの手記でございます。

傘を持たない悲劇
 沖縄本島の真北、すなわち徳之島 ( とくのしま ) の西北方約200カイリに達した昭和20年4月7日、午前12時30分頃より、激しい対空戦闘を開始し、数次にわたる敵艦載機延べ300余機の反復する雷爆撃を受け、激戦2時間余。朝からの時折の細雨と低く垂れ込めた上空の雲のため、わが対空砲火の威力を存分に発揮できない苦闘のうちに大和 ( やまと ) は、海底深く没しました。10発の魚雷と多数の爆弾を受け、左舷 (さげん) への傾斜の増大、己が弾薬庫の誘爆と思われる大爆発、上空6,000メートルにも達しようという原子雲のような大火焔 ( かえん ) を吹き上げ巨体は四裂。午後2時23分のことでした。
 大和の最大の悲劇は、「傘 ( かさ ) 」を持たなかったことです。空襲に対して無防備でした。飛行機を持たず、あっても水上偵察機(ていさつき)で艦を守るためのものではなかった。武蔵を失ったあのレイテ沖のときもそうでした。挙艦一致の殴り込み作戦は、ヤクザの殴り込
みと大差ありません。傘のない、飛行機を持たない艦隊の悲哀でした。
 20年4月6日、当時は午後6時出航が普通でしたが、古村啓蔵司
令官の第2水雷戦隊は午後3時、大和は4時に出航しました。というのは、大和で対戦艦襲撃訓練をやらせてほしいと、古村少将から第2艦隊司令官 ( ママ ) 伊藤整一中将に申し出があり、先に出航して徳山沖で大和を仮想目標にして、水雷隊としての襲撃の訓練を行ないました。
 日本の水雷戦隊は魚雷による対戦艦攻撃を最大の目的としていました。そのための昼夜を問わず激しい襲撃訓練を繰り返してきたのだから、駆逐艦乗りとして、この世の別れの思い出に、また帝国海軍最後の水雷戦隊の襲撃を「大和」に向けてということでした。
 六日夕刻内海西部を出航、別府国東 ( くにさき ) 半島を望見しつつ、豊後 ( ぶんご ) 水道に入りました。その11時30分頃、ついに敵潜水艦に発見され、それがフィリピン放送で流されて行く。敵の緊急通信を「大和」は傍受していました。ですから、これがホノルル放送に伝わり、最終的にはアメリカ太平洋艦隊司令長官ニミツツ元帥のもとまで、こちらの動きはすべて筒抜けになっているなと推定できたわけです。それで、翌7日、対潜警戒航行しながら、佐世保に向うような格好で大隅半島沖を大きく回り、一路西航したのです。
 12時頃から敵の空襲が始まりました。敵艦載機の執拗(しつよう)な攻撃は続き、ついに艦は左舷傾斜が45度ほどになり、復原不能、もう手の打ちようがない状態でした。
  
退艦命令

 伊藤整一長官は、第一艦橋に幕僚 ( ぱくりょう ) を集め「私は残るけれども、お前たちは、すぐ駆逐艦を呼んで移り、艦隊を収拾しろ」と、命令された。皆が「長官も行きましょう」と申し上げると、「私は残る。君たちが行くのは私の命令だ ! 」と叱 ( しか ) られた。その怒りようはかつて見たことのないようなものでした。もちろんその後もです。皆は長官と別れの握手を交し、傾いた艦橋の外側を山本祐二先任参謀 ( さんぼう ) 、末次信義水雷参謀、小沢信彦通信参謀、寺門正文艦隊軍医長の4人が降りて行きました。
 機関参謀と私は対空戦闘中、艦橋で艦隊全体を見ていました。そのとき彼は鉄カブトをつけていましたが、私は戦闘帽だけでした。
 「副官、それじゃ危ないよ」と注意されました。その時、機銃掃射 ( そうしゃ ) で敵機がビュ i ッと通り過ぎてゆきました。
 「おい副官」と機関参謀。
 「どうしたんですか」
 「おれはやられた」というんです。見ると、防弾チョッキの下から、おびただしく出血している。今、一緒に並んでいた人間がです。私は担架 ( たんか ) を呼んで治療室へ降させた。彼とはそれが最後の会話でした。
 寺門軍医長などは艦橋を降りながら「副官、早くこいよ ~っ ! 」と呼ばれたのが別れの言葉になってしまいました。艦の中心に降りていった人は、皆爆発で飛ばされてしまいました。比較的生残者が多かったのは艦の上部か、艦尾にいた人です。後部に降りた人、艦の後方の海中へ飛び込んだ人は助かっています。艦はまだ進んでいましたから、爆発に巻き込まれることが少ないわけです。
 結局、一番最後に残ったのは、艦橋の上の対空指揮所にいた宮本鷹雄砲術参謀と艦橋の森下信衛参謀長と私、茂木史朗航海長、花田泰祐掌航海長だけでした。そのとき森下参謀長が振り返っ「副官、お前、早く行かなきゃ艦隊皆わかんないじゃないか」と怒った。副官が人事から何から一切の書類を持っていました。参謀長があまり怒るので、私は双眼鏡をはずし海図台の上に置き、靴を脱ぎ、皆とは逆にトップのほうへ向かいました。途中、海中に吸い込まれました。このとき沈みの浅かった人は、皆負傷しています。宮本砲術参謀も頭をやられていた。森下参謀長はもう気絶状態でした。でも幸いなことに、この二人の従兵がしっかりとしていて、ぴったりと寄り添っていたから助かったんです。

沈没、そして海へ
 海中はきれいでした。南方の海ですから、ブルーで、それこそ竜宮城へ行くような・・・・・。意識は正常でした。海軍では、目を開けて泳ぐよう訓練されていましたから、海を見て沈むにまかせていました。下手 ( へた ) に抵抗するほど深く海中に引き込まれてしまうんです。ふとした瞬間、海底に引き込まれる力から離れました。艦は重いから先に沈むわけです。それで吸い込みが切れたのです。
 ああ、それならと海上に出ようと、カエル泳ぎのような、平泳ぎのようなことをやってみるんです。何度も水を飲んで試しましたが結局駄目でした。もうどうにでもなれといった苦しい気持でした。どのくらいたったのか、ぽっかりと海上に浮き上がりました。
 海上は爆発した船体から噴出した4~50センチの重油の層でした。私同様に浮いている人間は、皆重油で真黒、誰が誰だか見分けがつかない状態でした。たまたま浮いていた救命ブイにつかまると、皆寄って来てつかまるものだから、ブイがどこかに逃げてしまう。今度は流れてきた角材をつかむ、するとまた同じ繰り返し、最後、救助される頃は、両脇に箸 ( はし ) のような木材を5~6本抱え、なんとか浮いているという状態でした。
 疲れている。ですからやたらと眠くなり、「副官、眠っちゃいけない」といって起されました。でもまたすぐ眠っちゃうんです。するとまたまた起される。そのうち遥 ( はる ) かかなたに駆逐艦が見えました。しかし遠過ぎる。駄目だとあきらめていると、内火艇 ( ないかてい ) がこちらに向かってきまして、なんとか這 ( は ) い上がると、森下参謀長は既に救助されていました。やっとのことで駆逐艦「冬月 ( ふゆづき ) 」の艦長室にころがり込んだんです。宮本砲術参謀もこの艦に救助されていました。

語るに言葉なし
 佐世保に着いて、4~5日が過ぎ、少し落ち着いたところで宮本砲術参謀と二人で、せめて伊藤長官の最期だけでも報告を書こうと、記憶だけを頼りに仕上げたのが、あの「伊藤長官の最期」という報告書です。
 この沈没のときの閃光 ( せんこう ) が徳之島から見えたそうです。そして流着した遺骨を茶毘 ( だび)に付して納めてくれたのが、この島に駐屯 ( ちゅうとん ) していた守備隊と島民の方々でした。そこで戦後、この徳之島に「大和」を祀 ( まつ ) ろうということになり、同島伊仙町の議会に請願を提出しました。この請願は町議会で採択され、他の町村、天城町、徳之島町、そして故岡田啓介海軍大将の女婿 ( じょせい ) でもあり、同島を選挙区に持つ迫水 ( さこみず ) 久常氏の協力を得、徳之島犬田布岬に「戦艦大和を旗艦とする特攻戦士慰霊塔」が建立できました。昭和43年5月23日のことです。
 この慰霊塔の前に立つと、語るに一言葉を知らず、述べるに文字を知らない」という思いです。これは泳いで海水を飲んだ男、生還した者のみに通じる、英霊と交わす無言の語らいだけが救いだということです。
 戦後40年、建塔以来17年が過ぎ、白髪衰顔、寄る年波の日々となり時代も大きく変わりました。そしていま高松宮殿下のご揮毫 ( きごう ) によるこの塔の「戦艦大和を旗艦とする特攻戦士慰霊塔」という立派な金色の題字は、台風通路ともいうべき犬田布岬の強い風雨にさらされ読みとりにくい状況です。しかし多くの英霊が身をもって示された尊い偉勲を、永久に語り継ぐとともに、この慰霊塔が日本の永遠の平和の道標として尊い光を放ち続けることを念願しています

大和艦橋ででの出来事をつぶさに記録されておいでです。
石田元少佐をご紹介するとき「石田恒夫 経二十四期」とするときがございます。が、父宛書簡の中に、ご自身のサインの後に「主二十四」と書かれておるものがあり、海軍ではこういう書き方もあるのかと、知った次第です。(おせっかい焼き様、丹治様のご解説を待ちたいところではございます)
お立ち場上、大和の艦内はもちろん司令部の内情にも精通されておったと推察しますが、あまり表だって語ることがなかったかと思います。
大和会会長時代は常に、私ども遺族の事を年頭におき奔走されていらっしゃいました。
「徳之島新聞」をはじめ、各社の大和関連の記事などを切り抜きコピーを会員向けに必ず送っておられます。

昭和五十二年に行われました合同慰霊祭(第十回)の報告書にはこうお書きになられております。父も参加いたしました会でございます。

一三五五当会世話人手島進氏の祭典開始の辞に続いて君が代演奏裡に国旗、軍艦旗掲揚。神官による修祓降神献饌祝詞奉上。
つづいて祭主当会々長古村啓蔵氏代理として石田恒夫の祭文奉上を行い、丁度大和沈没の時刻に恒例の全員黙禱を行う。(中略)つづいて遺族代表的場艶子さんの「慰霊のことば」奉上があり、(中略)遺族代表は戦死者中谷中尉のご母堂で、はるばる米国ロサンゼルスから中尉の弟妹三名を同道して参列された中谷菊代さん(七三才)であった。また、海軍代表として若き日大和の進水を担当された八十九歳の庭田尚三海軍技術中将におねがいした。(略)福岡の筑前琵琶保存会一行の「嗚呼戦艦大和」(作詞 池上作三 作曲 峰旭蝶)の琵琶奉納演奏があり。
 爆煙あげて空しくも
 海底深く沈みゆく
 不沈を誇る戦艦大和
 三七二一名の英霊をのせて
 今も尚千尋の海に眠りける
(中略)
流行歌に「岸壁の母」というのがあるが、特攻関係者にとっては、この岸壁こそ英霊いとし恋し涙の岸壁である。第一回の慰霊祭のときは岸壁の母というか。戦死者のご両親の涙の姿を多く見受けたが、第十回の今回はご両親やご愛妻の方々の姿よりも、血肉を分けた父親の顔は知らないと言われる大きく成長された御子様方の姿が多かった。
(以下略 海上自衛隊のご協力への感謝の辞が述べられております)
主24・石田恒夫

「門限に時刻が近いが、何名戻って来ておらんのか」
「あと、一名ほどでございます」
「私の時計がおかしいのか正門の大時計は五分進んでいるようだが」
「・・・・・・」
「私の時計に合わせて、あと五分遅らせるように・・」
このおかげで門限に間に合った学生がおったとか。
石田恒夫さんが経理三十六期の指導官でおられた際のエピソードです。

  水雖急不流月

同、HPより抜粋いたしました。
「渓流の水は激しいが水面に映る月影は不動」
と言う意味であると。
石田恒夫元二艦隊副官の好きなお言葉でございました。

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