今年頂戴した年賀状を整理して、来年の年賀状の準備を始めます。
家内と自身のデザインは決めました。
「先生、お幾つになるのかなぁ」
「96歳だった記憶があるよ」
「今年も自筆ですものね。お元気でいらっしゃると良いのだけど・・」
神谷克巳先生は、東北福祉大名誉教授でらして、現役時代は私と家内共通の恩師。
先生の教室で家内と出会ったのが結婚の切っ掛けだったのでした。
(もっとも、学生時代から付き合ってたわけではありませんが・・・世の縁というものは不思議なものでして・・・)
大学4年の春。ゼミナールを選択する際、当時一年生からお世話になっていた江尻先生(現東北福祉大学教授)は講師でらして、4年生のゼミは受け持っておりませんでした。
「先生、どこか推薦していただけるゼミはありませんか」
「酔漢君、逆に聞くけど、行ってみたい、話を聞いてみたい先生はいるのですか?」
「学科長、神谷先生はどうでしょうか?」
「あそこは、君だったら、門前払いはないけれど、人気あるからなぁ、定員になっているかも。先生には僕の方から話してみるから・・そうそう、先週も一緒に釣りに行ってねぇ・・」
大学三年生で必須の単位は取得済みでしたので、4年生時は卒業論文、ゼミナールの研究発表と小論文。これだけで卒業できる見通しになってました。一番厄介なのは、就職活動でした。
ただ、授業の束縛される時間が殆どなかったので、自由な時間は作れる4年時でした。
「明日、神谷先生が東京からいらっしゃるから、面接してくださるとお返事を頂いたよ。三時に研究室に行ってね」
江尻先生からです。少し、緊張しました。
当日、先生の研究室へ。
「失礼いたします、江尻先生のご紹介に預かりました酔漢です。宜しくお願いいたします」
「こんにちは、初めまして、神谷です。こちらこそ、宜しくお願いいたします」
「酔漢待ってたよ!」研究室の後から聞きなれた声が・・・。
「あっ!『みっきょう』なんで此処に?」(みっきょう→落語を語るに登場した、アマチュア落語家。同じ落語会で何度か共演)
「酔漢知らなかった?おれ神谷ゼミにいたんだ」
「知らなかったなぁ・・」
「そうですか、酔漢君は、いまむら君(みっきょうは、高座名ですので・・)のお知り合いでしたか」
彼の登場で幾分緊張は解れたものの、まだ少し直立不動気味の酔漢です。
「まぁおかけなさい」
眼鏡の奥からの優しい眼差しと同じような穏やかな口調。
そんな雰囲気に、少しは楽になりました。
「江尻先生から、君は、昨年から卒業論文にとりかかっているのですね。テーマは・・えーーっと・・『マグロ』なのですね。マグロの何をテーマにするのですか?」
いきなり、核心をつく質問。
「はい!『暗黒と言われる、複雑怪奇なその流通過程とメカニズムを分析して、マグロの価格形成を明確にする』と言うものです」
「ほう!経済学部の学生でも敬遠するような課題ですね。江尻君は証券や商品学には精通しているから、卒業論文は彼に指導してもらうのが良いですね。しかし、酔漢君。この大学は『社会福祉学部』の大学だよ。流通経済の分析が、どう社会福祉学と接点があるのかね?」
「はい!商品を平等により多くの人々へ、滞ることなく安定した相対取引が可能な経済状態を保つことは、公共の福祉に順ずるものだと考えてます」
「その通りですね。私もね、大蔵省から東北福祉大学へ来るときにね、経済学部の無い大学へどうして?って言われましてね、酔漢君と同じ事を話した経緯があるのです。特に、東一(東京青果→当時は秋葉原にありました、東京卸売青果市場です。今その跡地は「ビックカメラ」や「AKBシアター」となってます。広大な敷地でした)の社長と話をするとね、『青果物の安定供給は、社会福祉という意識がないと・・単なる経済活動だけではない』そう話されておられてね」
僕は、その鋭い見識に驚くと同時に、学生とは言え、幼い了見であっても、先ずはしっかり相手の話を聞く。こうしたことを立ち位置にしておられる先生の態度に感銘致しました。
「最後に一つだけ諮問させて下さい」
「先生、なんでしょうか」
「君はお酒を呑まれるのですか?」
「はい!大好きです!!」(いつになく力強く返答)
「では、来週、水曜から、この研究室においでなさい」
「ありがとうございます。お世話になります」
4年生時に先生の研究室のドアを叩いたものは16名いたそうです。最終的に3名の入室が許されたとは、家内から聞きました。
(因みに家内は当時、ゼミの会計長をしてまして、よく滞納する私目は怒られておりました・・)
神谷先生との出会いは、上記のようなものです。
授業は先生から与えられたマクロ的な項目を、学生個人個人が、さらにミクロ的な課題へと落とし込み、順次研究過程を発表して行く。こうした内容でした。
僕は、卒業論文の制作過程をおのまま発表することに致しました。
家内は「日米経済摩擦」をテーマにしておりました。
一人約1時間の発表で二名。二時間の時間を使って行っておりました。終わると、小教室から研究室へ移動し、そこは有志と相成りますが、反省会と名のつく、「飲み会」が始まります。
「昨日、諸君らの先輩が訪ねて来て、『浦霞禅』を置いっていってくれたんだ。このお酒美味しいですよね」
佐浦君のところのお酒は特に先生は大好きでして、研究室のキャビネットから消えたことはありませんでした。
僕も時たま提供させていただきました。
その時の先生のお話しが面白く、また貴重なものがありました。
「『所得倍増計画』。池田内閣が掲げた、高度経済成長を象徴する有名な話なのですがね。私が一番忙しくて、一番面白かった時間でしたね・・」
少しばかりお酒が入ってほろ酔いになったときの先生の昔話。
これは、本当に面白かった・・。
昭和38年度。経済成長率は名目18.2%、実質12.5%になった。いっそう物質的に豊になっていく国民生活の中で、とりわけ大きな出来事は、完全雇用時代の到来であった。これは、働きたくても場所ない嘆きを繰り返してきた日本人にとって、初めて経験する社会の構造変化といえた。(中略)失業者は年を追って低下し、街に失業者は見当たらなくなった。
あるとき池田(池田勇人総理大臣)がS・G会(後程ご解説させて頂きます)の若手神谷克巳に尋ねた。
「消費者物価が上がって貧乏人が困る、という批判が出ている。これにどう答えればいいと思うかね」
あまり物価高だ、インフレだ、と言われ続けて、池田もよっぽど弱っていたのだろう。
「所得倍増計画によって完全雇用が進行していますから、多少の物価値上がりで困るような貧乏人はいなくなっているはずです」
いかにも下村門下の優等生らしく神谷は答えたが、池田に突っ込まれて参った。
「君、それを具体的に証明できるか」
さて、貧乏人が減ったことをどう証明すればいいのか、あれこれ頭をひねった神谷は、警視庁と都庁へ行って、浮浪者やバタヤの数を調べてみた。
なんと見事に、倍増計画を歩調を合わせるように、どちらも年を追って減り続けている。それを表にしてみせると池田は、我が意を得た、という顔で笑った。
(上前淳一郎著「山より大きな猪」449頁から450頁より抜粋 講談社)
池田総理は「消費者物価が上がれば、貧乏人は困るのではないかと批判するが、これにはどう答えればよいのだろうか」といわれた。私は、「物価があがれば貧乏人が困るというのはその通りです。しかし、所得倍増計画というのは、完全雇用を達成し、その貧乏人を無くする政策ではありませんか」と申し上げた。総理は「それを証明できるか」というお尋ねであった。
私は表(上記掲載)を示して、東京都内の浮浪者やバタヤの数が昭和36年以降目立って減少していることを説明した。失業して浮浪者になるものの数が減っているのである。この浮浪者の数は、経済の好不況を大変敏感に反映するもののようである。その後、高度経済成長が続くとともに減少して、昭和48年末には206人に減っている。これは、あるいは「三日やったら止めれれない」といわれるような類のものと考えられないことも無いかもしれない。ところがオイルショック以後、経済が停滞すると再び増加に転じているのである。
(神谷克巳先生 「旅路九十年」から「国家予算の歩み 池田勇人」昭和54年編纂 より抜粋)
「先生。自らが調査した資料を基に、総理大臣が国会で答弁する。これはある意味・・」
「そうなんですよ!ある意味痛快でね!努力が報われた。そんな気分になれるんだよね」
「しかし、その後のオイルショックからの経済の低迷、公害問題等、所得倍増政策にも功罪はあるのです。それをきちんと検証しなければなりません」
こうもお話しされておられました。
後をついだ政権は、池田勇人のしつらえた「高度成長ロケット」のオーバーホールもせず、軌道修正もしないままに、国の内外に強い衝撃波を及ぼしながら飛び続けるに任せた。歪みが増幅されたのも当然であった。公害の発生、エゴイズムの露呈、海外における対日批判の高まり、ハイジャックや企業爆破事件、あるいは暴走族にみられるような青年の過激な行動の一画は、青少年の自殺の増加などがそれである。
「君たちが日本の第一線で働くころには、問題は複雑なものになっているのですよ。いわゆる少子高齢化のより進んだ状況と、団塊世代の定年という問題は、社会の構造そのものを変えてゆかざるを得ないのに、現段階では、何も具体的な政策が見えてこない。これはこれは、大きな問題となって行きますよ」
先生は「統計研究会理事」でいらっしゃいました。決して預言者ではありません、自身で得たデータを基に、ち密にお話しをされます。
その先生が30年前に僕等一介の大学生に話された内容の奥深さを今、改めて噛みしめる日を送っております。
「おい、今朝のニュース見たか?これ本当か?」
こいわ君が研究室に入ってくるなりこう大きな声を発しました。
僕の日記だと1986年4月30日になります。お昼すぎ、午後です。
「お前知ってる?」と、こいわ君、酔漢へ。
「何か大事件でも・・・」
「事件どころではない。大事故!それも人類史上初めての大事故」
彼が、どこから手に入れたかは分らないけど、その話を聞いて、顔の青くなるのを自分でも感じました。
「ソ連の原子力発電所がメルトダウンの後に大爆発を起こした」このニュースは衝撃をもって世界を巡りました。
「ソビエトチェルノブイリ原子力発電所爆発事故」です。
僕等がこうした話題で盛り上がっているところに、神谷先生が研究室のドアを開けて入って来ました。
「諸君、未曾有の事故が発生しましたね。私も驚きました」
冷静な先生も紅潮した顔で話をしているのが、僕等にも伝わりました。
「先生、日本への影響はどうお考えでしょうか」
「これはねぇ・・分らないけれど、放射能にたいして、日本人は過剰に反応するから、いやこれは否定している発言ではないよ。だから、なんだろうなぁ、輸入の農作物の不買が広がるかもしれないね、例えば、小麦の価格が高騰するとか、下降するとかはあるかもしれないし、原発への不信感から原油価格や天然ガスが高騰するかもしれないし・・まずは経過をゆっくり観察しておこう、私の所へ入ってくる情報があれば、諸君らに公開もして行こうかと思っているから」
その後、政府は国内の原子力発電所の安全性を盛んにアピールしてまいります。
直後の国会答弁で当時の東電社長は「我国と根本的に構造が違うからソ連の原発のように事故はありえない」と。
「事故はどんな時、どんな施設、機械でも起こり得るものです。これは想定なのです。あり得なくない、ということがあり得ないのです。原発の事故が発生したら、日本経済の計画が全て頓挫することは目に見えます。自然災害どころではないのです」
先生は授業で力説されておられました。
果たして、福島の事故。先生のお言葉をお聞きしたかった、酔漢でございます。
「酔漢君、就職の希望は流通だったね。一度東京青果をお尋ねなさい。君なら推薦しても恥ずかしくないからね」
「先生、分りました。ですが、今丁度、小売業へも興味があって、そこも受けて来たいんですが」
「いやね、君のそれは自由だから、ただ、こうした機会に多くの会社とお話しするのは、良い機会ではありませんか」
この言葉で、僕は、秋葉原へ向かいました。
「神谷先生からお話しは伺っております。流通を勉強している学生がいるとか。酔漢さんですね。何を勉強されているのですか」
「今は、マグロ類の流通を卒業論文にまとめる作業をしております」
「野菜ではないのですね・・」人事部長、苦笑いです。
「酔漢さん、共通するところはあるのです。卸売の勉強は?」
「実は、父がそうした関係の仕事でして、尤も、水産物ではありますが」
数時間の面接でしたが、内定を頂きました。
正直、酔漢は迷いましたが、現在働いている会社へ。
神谷先生へ報告いたします。
「ほうそうですか。おめでとうございます。酔漢君、今小売業が一番アクティヴな世界かもしれませんよ、君には向いていると私は思います」
こう励まして下さいました。
「先生、婚約のご報告です」
「ほう!お相手は誰ですか?」
「それが、先生も良くしっている女性でして、名前が・・・・・なんです!」
「えっつ?」
流石に、これには先生も絶句した!(内心、やったぁ!先生にサプライズ!)
「自分でも驚いているのですが」
「私も驚いているのですが、大学の頃はそんな風には見えませんでした」
「その頃は正直、彼女に全く(でもなかったのですが・・)興味はありませんで、それは彼女も一緒です」
「ところで、酔漢君・・」
「先生なんですか?」
「気の強いお嬢さんですよ!尻に敷かれるのは覚悟の上ですか?」
「せ!せんせーーーい!そうですよねぇぇぇ」
電話口で二人で大笑いでした。
結婚式には、先生は出席できませんでした、ジェトロの都合で海外でお仕事をされておられた時期と重なりました。
仙台で先生ご定年のお祝い。
家族で参加いたしました。
愚息二人は、先生より和菓子を頂戴し、ご機嫌。特に、次男は先生の膝の上から離れませんでした。
そこでの、先生のお話し。
「少子高齢化社会、特に、超高齢化社会に突入する日本は、過去の世界史上ない経験を多く克服して行かなくてはならない時代になるのです。世界が注目しております。この舵取りを誤れば、日本経済が破綻することもあり得ます。そうしない為の方策を今から万全にしていき、今、私の目の前にいる子供達(私家族の他にも何名かは子連れで参加しておりました)の未来が不幸なものにしてはならないのです。私は、十分、これからも長生きさせていただきますがね」(会場、大笑い)
この明るいユーモアある話のようですが、現代社会を見据えているご発言でありました。
写真、先生の喜寿のお祝いの席。私も参加いたしました。集合写真ですから諸先輩と共に写ったものです。
先生とはお酒を呑みながら、じっくりお話しをさせて頂きました。
先生、お尋ねしたい事が多々ございます。
今、日本の経済問題は多方面の問題を抱え、本日は総選挙が行われます。アベノミクス(先生はきっと政策自体よりそのネーミングに苦笑しているかもしれませんね・・)の経済政策は果たしてどういう結果を齎すのですか?
先生は、自由貿易を常に意識しておられ、神戸大学叶先生の「農業が日本を変える」などの著書を酔漢に推薦されておられました。先生からみてTPP交渉は日本にとってどう影響を及ぼすのでしょうか?
中国の経済発展は先生が中国へ視察へ行かれてから、インドより中国の経済発展が世界をリードするを話されておられました。人民元の問題も含めて、また香港の問題も含めて、中国経済はどのように変格して行くのでしょう。
先生は「北朝鮮はもっぱら経済破綻状況にある」と話され、南との和合がその解決には最も効果があると話されておられました。今後どうなるのでしょうか(強硬手段もあり得るとも話しておられましたね)
暇がございません。
先生のお書きになられた絵を眺めております。
自然の中に身を置き、心静かに筆を進めておられるお姿を想像しております。
広瀬川の河原で芋煮会。突然の雨でも、蝶ネクタイをしたまま、橋の下で雨宿りをしておりました。勿論、お酒を片手に。
「雨もまた良いものですね」とのご発言でした。
大蔵省、調査部。通称SG会。「SG会って、僕が付けた名称だとなっているのですが・・」と先生。
本当はどうだったのでしょうか。
池田総理の経済政策のその殆どを、このメンバーが作成しておりました。
この番組の主人公、下村治先生は、後列左から三人目におられます。そして最前列、左に神谷先生がおられます。
「何度もお話ししますが、高度経済成長はその功罪を背負っての歴史があるのです。経済の発展はそうしたリスクを背負いながら、徐々に、問題を解決しながら、人の知恵で進めていかなくてはならないのです」
決して、手柄として、私達にお話しする事は有りませんでした。
「これからの経済社会 日本は飛躍するか」
今や「人間の知能の働きの一部を機械に組み込むという革新技術が推進力となって『情報とサービスの季節』に移行しつつある。この季節では『認識し、判断し、記憶し、演算し、作業する』ロボットが登場する。それは、人類が今までには経験したことのない新しい経済社会を出現させずにはおかないであろう、と指摘している。さらに、新たに、「高齢化社会への移行と福祉」と題する一章を加え「出生率の急速な低下→老齢化の急進展→人口の減少、というプロセスを通じて、急速に活力を失い、衰微していく二十一世紀の『老大国』日本の姿が未来史の彼方に浮かんでいると言えば言い過ぎになるであろうか」と。合計特殊出生率が1.77と低下していく傾向を見て憂慮を表明している(平成17年度には1.25にまで低下した)
2007年には団塊の世代の定年退職が注目されているが、この本では次のように提案している。「少なくとも65歳定年制を基礎にして、本人の能力、希望により70歳まで就労継続可能にする体制を確立する」こと、と。
(神谷克巳先生著 東洋経済新報社 昭和59年)
12月12日朝。出勤前に、年賀状の整理を家内にお願いをして家を出た。
出勤途中の車中ふとこう思い出した「そう言えば、年賀状の最年長が神谷先生の96歳で最年少が従弟の子等で6歳かぁ・・90年なんだなぁ」と。
上大岡の駅を過ぎた頃だったろうか、家内からメール着信。
「神谷先生がお亡くなりになられた」というもの。
車窓から外を眺め、在りし日のお姿を思い、目頭が熱くなった。
「たった今、先生を思っていた・・・・のに。知らせとはあるのだろうか・・・」
先生、もう一度、もう一度。
日本の行く末は、いかがなものなのでしょうか?
冒頭の書。「御縁を頂いた人々」先生から私へ。
私のような一介の学生にも、お気を遣って下さった先生の優しさを分けて頂いた気持ちが致しました。
「先生とお会いできた幸せを今家族と共に噛みしめております。長い、そして激動の社会の中、ぶれることなくこの国を見つめてこられた先生とお話し出来たことを誇りに思っております。どうぞ、安らかにお眠り下さい。またご指導、ご鞭撻を賜りたく思っております。さようなら」
家内と自身のデザインは決めました。
「先生、お幾つになるのかなぁ」
「96歳だった記憶があるよ」
「今年も自筆ですものね。お元気でいらっしゃると良いのだけど・・」
神谷克巳先生は、東北福祉大名誉教授でらして、現役時代は私と家内共通の恩師。
先生の教室で家内と出会ったのが結婚の切っ掛けだったのでした。
(もっとも、学生時代から付き合ってたわけではありませんが・・・世の縁というものは不思議なものでして・・・)
大学4年の春。ゼミナールを選択する際、当時一年生からお世話になっていた江尻先生(現東北福祉大学教授)は講師でらして、4年生のゼミは受け持っておりませんでした。
「先生、どこか推薦していただけるゼミはありませんか」
「酔漢君、逆に聞くけど、行ってみたい、話を聞いてみたい先生はいるのですか?」
「学科長、神谷先生はどうでしょうか?」
「あそこは、君だったら、門前払いはないけれど、人気あるからなぁ、定員になっているかも。先生には僕の方から話してみるから・・そうそう、先週も一緒に釣りに行ってねぇ・・」
大学三年生で必須の単位は取得済みでしたので、4年生時は卒業論文、ゼミナールの研究発表と小論文。これだけで卒業できる見通しになってました。一番厄介なのは、就職活動でした。
ただ、授業の束縛される時間が殆どなかったので、自由な時間は作れる4年時でした。
「明日、神谷先生が東京からいらっしゃるから、面接してくださるとお返事を頂いたよ。三時に研究室に行ってね」
江尻先生からです。少し、緊張しました。
当日、先生の研究室へ。
「失礼いたします、江尻先生のご紹介に預かりました酔漢です。宜しくお願いいたします」
「こんにちは、初めまして、神谷です。こちらこそ、宜しくお願いいたします」
「酔漢待ってたよ!」研究室の後から聞きなれた声が・・・。
「あっ!『みっきょう』なんで此処に?」(みっきょう→落語を語るに登場した、アマチュア落語家。同じ落語会で何度か共演)
「酔漢知らなかった?おれ神谷ゼミにいたんだ」
「知らなかったなぁ・・」
「そうですか、酔漢君は、いまむら君(みっきょうは、高座名ですので・・)のお知り合いでしたか」
彼の登場で幾分緊張は解れたものの、まだ少し直立不動気味の酔漢です。
「まぁおかけなさい」
眼鏡の奥からの優しい眼差しと同じような穏やかな口調。
そんな雰囲気に、少しは楽になりました。
「江尻先生から、君は、昨年から卒業論文にとりかかっているのですね。テーマは・・えーーっと・・『マグロ』なのですね。マグロの何をテーマにするのですか?」
いきなり、核心をつく質問。
「はい!『暗黒と言われる、複雑怪奇なその流通過程とメカニズムを分析して、マグロの価格形成を明確にする』と言うものです」
「ほう!経済学部の学生でも敬遠するような課題ですね。江尻君は証券や商品学には精通しているから、卒業論文は彼に指導してもらうのが良いですね。しかし、酔漢君。この大学は『社会福祉学部』の大学だよ。流通経済の分析が、どう社会福祉学と接点があるのかね?」
「はい!商品を平等により多くの人々へ、滞ることなく安定した相対取引が可能な経済状態を保つことは、公共の福祉に順ずるものだと考えてます」
「その通りですね。私もね、大蔵省から東北福祉大学へ来るときにね、経済学部の無い大学へどうして?って言われましてね、酔漢君と同じ事を話した経緯があるのです。特に、東一(東京青果→当時は秋葉原にありました、東京卸売青果市場です。今その跡地は「ビックカメラ」や「AKBシアター」となってます。広大な敷地でした)の社長と話をするとね、『青果物の安定供給は、社会福祉という意識がないと・・単なる経済活動だけではない』そう話されておられてね」
僕は、その鋭い見識に驚くと同時に、学生とは言え、幼い了見であっても、先ずはしっかり相手の話を聞く。こうしたことを立ち位置にしておられる先生の態度に感銘致しました。
「最後に一つだけ諮問させて下さい」
「先生、なんでしょうか」
「君はお酒を呑まれるのですか?」
「はい!大好きです!!」(いつになく力強く返答)
「では、来週、水曜から、この研究室においでなさい」
「ありがとうございます。お世話になります」
4年生時に先生の研究室のドアを叩いたものは16名いたそうです。最終的に3名の入室が許されたとは、家内から聞きました。
(因みに家内は当時、ゼミの会計長をしてまして、よく滞納する私目は怒られておりました・・)
神谷先生との出会いは、上記のようなものです。
授業は先生から与えられたマクロ的な項目を、学生個人個人が、さらにミクロ的な課題へと落とし込み、順次研究過程を発表して行く。こうした内容でした。
僕は、卒業論文の制作過程をおのまま発表することに致しました。
家内は「日米経済摩擦」をテーマにしておりました。
一人約1時間の発表で二名。二時間の時間を使って行っておりました。終わると、小教室から研究室へ移動し、そこは有志と相成りますが、反省会と名のつく、「飲み会」が始まります。
「昨日、諸君らの先輩が訪ねて来て、『浦霞禅』を置いっていってくれたんだ。このお酒美味しいですよね」
佐浦君のところのお酒は特に先生は大好きでして、研究室のキャビネットから消えたことはありませんでした。
僕も時たま提供させていただきました。
その時の先生のお話しが面白く、また貴重なものがありました。
「『所得倍増計画』。池田内閣が掲げた、高度経済成長を象徴する有名な話なのですがね。私が一番忙しくて、一番面白かった時間でしたね・・」
少しばかりお酒が入ってほろ酔いになったときの先生の昔話。
これは、本当に面白かった・・。
昭和38年度。経済成長率は名目18.2%、実質12.5%になった。いっそう物質的に豊になっていく国民生活の中で、とりわけ大きな出来事は、完全雇用時代の到来であった。これは、働きたくても場所ない嘆きを繰り返してきた日本人にとって、初めて経験する社会の構造変化といえた。(中略)失業者は年を追って低下し、街に失業者は見当たらなくなった。
あるとき池田(池田勇人総理大臣)がS・G会(後程ご解説させて頂きます)の若手神谷克巳に尋ねた。
「消費者物価が上がって貧乏人が困る、という批判が出ている。これにどう答えればいいと思うかね」
あまり物価高だ、インフレだ、と言われ続けて、池田もよっぽど弱っていたのだろう。
「所得倍増計画によって完全雇用が進行していますから、多少の物価値上がりで困るような貧乏人はいなくなっているはずです」
いかにも下村門下の優等生らしく神谷は答えたが、池田に突っ込まれて参った。
「君、それを具体的に証明できるか」
さて、貧乏人が減ったことをどう証明すればいいのか、あれこれ頭をひねった神谷は、警視庁と都庁へ行って、浮浪者やバタヤの数を調べてみた。
なんと見事に、倍増計画を歩調を合わせるように、どちらも年を追って減り続けている。それを表にしてみせると池田は、我が意を得た、という顔で笑った。
(上前淳一郎著「山より大きな猪」449頁から450頁より抜粋 講談社)
池田総理は「消費者物価が上がれば、貧乏人は困るのではないかと批判するが、これにはどう答えればよいのだろうか」といわれた。私は、「物価があがれば貧乏人が困るというのはその通りです。しかし、所得倍増計画というのは、完全雇用を達成し、その貧乏人を無くする政策ではありませんか」と申し上げた。総理は「それを証明できるか」というお尋ねであった。
私は表(上記掲載)を示して、東京都内の浮浪者やバタヤの数が昭和36年以降目立って減少していることを説明した。失業して浮浪者になるものの数が減っているのである。この浮浪者の数は、経済の好不況を大変敏感に反映するもののようである。その後、高度経済成長が続くとともに減少して、昭和48年末には206人に減っている。これは、あるいは「三日やったら止めれれない」といわれるような類のものと考えられないことも無いかもしれない。ところがオイルショック以後、経済が停滞すると再び増加に転じているのである。
(神谷克巳先生 「旅路九十年」から「国家予算の歩み 池田勇人」昭和54年編纂 より抜粋)
「先生。自らが調査した資料を基に、総理大臣が国会で答弁する。これはある意味・・」
「そうなんですよ!ある意味痛快でね!努力が報われた。そんな気分になれるんだよね」
「しかし、その後のオイルショックからの経済の低迷、公害問題等、所得倍増政策にも功罪はあるのです。それをきちんと検証しなければなりません」
こうもお話しされておられました。
後をついだ政権は、池田勇人のしつらえた「高度成長ロケット」のオーバーホールもせず、軌道修正もしないままに、国の内外に強い衝撃波を及ぼしながら飛び続けるに任せた。歪みが増幅されたのも当然であった。公害の発生、エゴイズムの露呈、海外における対日批判の高まり、ハイジャックや企業爆破事件、あるいは暴走族にみられるような青年の過激な行動の一画は、青少年の自殺の増加などがそれである。
「君たちが日本の第一線で働くころには、問題は複雑なものになっているのですよ。いわゆる少子高齢化のより進んだ状況と、団塊世代の定年という問題は、社会の構造そのものを変えてゆかざるを得ないのに、現段階では、何も具体的な政策が見えてこない。これはこれは、大きな問題となって行きますよ」
先生は「統計研究会理事」でいらっしゃいました。決して預言者ではありません、自身で得たデータを基に、ち密にお話しをされます。
その先生が30年前に僕等一介の大学生に話された内容の奥深さを今、改めて噛みしめる日を送っております。
「おい、今朝のニュース見たか?これ本当か?」
こいわ君が研究室に入ってくるなりこう大きな声を発しました。
僕の日記だと1986年4月30日になります。お昼すぎ、午後です。
「お前知ってる?」と、こいわ君、酔漢へ。
「何か大事件でも・・・」
「事件どころではない。大事故!それも人類史上初めての大事故」
彼が、どこから手に入れたかは分らないけど、その話を聞いて、顔の青くなるのを自分でも感じました。
「ソ連の原子力発電所がメルトダウンの後に大爆発を起こした」このニュースは衝撃をもって世界を巡りました。
「ソビエトチェルノブイリ原子力発電所爆発事故」です。
僕等がこうした話題で盛り上がっているところに、神谷先生が研究室のドアを開けて入って来ました。
「諸君、未曾有の事故が発生しましたね。私も驚きました」
冷静な先生も紅潮した顔で話をしているのが、僕等にも伝わりました。
「先生、日本への影響はどうお考えでしょうか」
「これはねぇ・・分らないけれど、放射能にたいして、日本人は過剰に反応するから、いやこれは否定している発言ではないよ。だから、なんだろうなぁ、輸入の農作物の不買が広がるかもしれないね、例えば、小麦の価格が高騰するとか、下降するとかはあるかもしれないし、原発への不信感から原油価格や天然ガスが高騰するかもしれないし・・まずは経過をゆっくり観察しておこう、私の所へ入ってくる情報があれば、諸君らに公開もして行こうかと思っているから」
その後、政府は国内の原子力発電所の安全性を盛んにアピールしてまいります。
直後の国会答弁で当時の東電社長は「我国と根本的に構造が違うからソ連の原発のように事故はありえない」と。
「事故はどんな時、どんな施設、機械でも起こり得るものです。これは想定なのです。あり得なくない、ということがあり得ないのです。原発の事故が発生したら、日本経済の計画が全て頓挫することは目に見えます。自然災害どころではないのです」
先生は授業で力説されておられました。
果たして、福島の事故。先生のお言葉をお聞きしたかった、酔漢でございます。
「酔漢君、就職の希望は流通だったね。一度東京青果をお尋ねなさい。君なら推薦しても恥ずかしくないからね」
「先生、分りました。ですが、今丁度、小売業へも興味があって、そこも受けて来たいんですが」
「いやね、君のそれは自由だから、ただ、こうした機会に多くの会社とお話しするのは、良い機会ではありませんか」
この言葉で、僕は、秋葉原へ向かいました。
「神谷先生からお話しは伺っております。流通を勉強している学生がいるとか。酔漢さんですね。何を勉強されているのですか」
「今は、マグロ類の流通を卒業論文にまとめる作業をしております」
「野菜ではないのですね・・」人事部長、苦笑いです。
「酔漢さん、共通するところはあるのです。卸売の勉強は?」
「実は、父がそうした関係の仕事でして、尤も、水産物ではありますが」
数時間の面接でしたが、内定を頂きました。
正直、酔漢は迷いましたが、現在働いている会社へ。
神谷先生へ報告いたします。
「ほうそうですか。おめでとうございます。酔漢君、今小売業が一番アクティヴな世界かもしれませんよ、君には向いていると私は思います」
こう励まして下さいました。
「先生、婚約のご報告です」
「ほう!お相手は誰ですか?」
「それが、先生も良くしっている女性でして、名前が・・・・・なんです!」
「えっつ?」
流石に、これには先生も絶句した!(内心、やったぁ!先生にサプライズ!)
「自分でも驚いているのですが」
「私も驚いているのですが、大学の頃はそんな風には見えませんでした」
「その頃は正直、彼女に全く(でもなかったのですが・・)興味はありませんで、それは彼女も一緒です」
「ところで、酔漢君・・」
「先生なんですか?」
「気の強いお嬢さんですよ!尻に敷かれるのは覚悟の上ですか?」
「せ!せんせーーーい!そうですよねぇぇぇ」
電話口で二人で大笑いでした。
結婚式には、先生は出席できませんでした、ジェトロの都合で海外でお仕事をされておられた時期と重なりました。
仙台で先生ご定年のお祝い。
家族で参加いたしました。
愚息二人は、先生より和菓子を頂戴し、ご機嫌。特に、次男は先生の膝の上から離れませんでした。
そこでの、先生のお話し。
「少子高齢化社会、特に、超高齢化社会に突入する日本は、過去の世界史上ない経験を多く克服して行かなくてはならない時代になるのです。世界が注目しております。この舵取りを誤れば、日本経済が破綻することもあり得ます。そうしない為の方策を今から万全にしていき、今、私の目の前にいる子供達(私家族の他にも何名かは子連れで参加しておりました)の未来が不幸なものにしてはならないのです。私は、十分、これからも長生きさせていただきますがね」(会場、大笑い)
この明るいユーモアある話のようですが、現代社会を見据えているご発言でありました。
写真、先生の喜寿のお祝いの席。私も参加いたしました。集合写真ですから諸先輩と共に写ったものです。
先生とはお酒を呑みながら、じっくりお話しをさせて頂きました。
先生、お尋ねしたい事が多々ございます。
今、日本の経済問題は多方面の問題を抱え、本日は総選挙が行われます。アベノミクス(先生はきっと政策自体よりそのネーミングに苦笑しているかもしれませんね・・)の経済政策は果たしてどういう結果を齎すのですか?
先生は、自由貿易を常に意識しておられ、神戸大学叶先生の「農業が日本を変える」などの著書を酔漢に推薦されておられました。先生からみてTPP交渉は日本にとってどう影響を及ぼすのでしょうか?
中国の経済発展は先生が中国へ視察へ行かれてから、インドより中国の経済発展が世界をリードするを話されておられました。人民元の問題も含めて、また香港の問題も含めて、中国経済はどのように変格して行くのでしょう。
先生は「北朝鮮はもっぱら経済破綻状況にある」と話され、南との和合がその解決には最も効果があると話されておられました。今後どうなるのでしょうか(強硬手段もあり得るとも話しておられましたね)
暇がございません。
先生のお書きになられた絵を眺めております。
自然の中に身を置き、心静かに筆を進めておられるお姿を想像しております。
広瀬川の河原で芋煮会。突然の雨でも、蝶ネクタイをしたまま、橋の下で雨宿りをしておりました。勿論、お酒を片手に。
「雨もまた良いものですね」とのご発言でした。
大蔵省、調査部。通称SG会。「SG会って、僕が付けた名称だとなっているのですが・・」と先生。
本当はどうだったのでしょうか。
池田総理の経済政策のその殆どを、このメンバーが作成しておりました。
この番組の主人公、下村治先生は、後列左から三人目におられます。そして最前列、左に神谷先生がおられます。
「何度もお話ししますが、高度経済成長はその功罪を背負っての歴史があるのです。経済の発展はそうしたリスクを背負いながら、徐々に、問題を解決しながら、人の知恵で進めていかなくてはならないのです」
決して、手柄として、私達にお話しする事は有りませんでした。
「これからの経済社会 日本は飛躍するか」
今や「人間の知能の働きの一部を機械に組み込むという革新技術が推進力となって『情報とサービスの季節』に移行しつつある。この季節では『認識し、判断し、記憶し、演算し、作業する』ロボットが登場する。それは、人類が今までには経験したことのない新しい経済社会を出現させずにはおかないであろう、と指摘している。さらに、新たに、「高齢化社会への移行と福祉」と題する一章を加え「出生率の急速な低下→老齢化の急進展→人口の減少、というプロセスを通じて、急速に活力を失い、衰微していく二十一世紀の『老大国』日本の姿が未来史の彼方に浮かんでいると言えば言い過ぎになるであろうか」と。合計特殊出生率が1.77と低下していく傾向を見て憂慮を表明している(平成17年度には1.25にまで低下した)
2007年には団塊の世代の定年退職が注目されているが、この本では次のように提案している。「少なくとも65歳定年制を基礎にして、本人の能力、希望により70歳まで就労継続可能にする体制を確立する」こと、と。
(神谷克巳先生著 東洋経済新報社 昭和59年)
12月12日朝。出勤前に、年賀状の整理を家内にお願いをして家を出た。
出勤途中の車中ふとこう思い出した「そう言えば、年賀状の最年長が神谷先生の96歳で最年少が従弟の子等で6歳かぁ・・90年なんだなぁ」と。
上大岡の駅を過ぎた頃だったろうか、家内からメール着信。
「神谷先生がお亡くなりになられた」というもの。
車窓から外を眺め、在りし日のお姿を思い、目頭が熱くなった。
「たった今、先生を思っていた・・・・のに。知らせとはあるのだろうか・・・」
先生、もう一度、もう一度。
日本の行く末は、いかがなものなのでしょうか?
冒頭の書。「御縁を頂いた人々」先生から私へ。
私のような一介の学生にも、お気を遣って下さった先生の優しさを分けて頂いた気持ちが致しました。
「先生とお会いできた幸せを今家族と共に噛みしめております。長い、そして激動の社会の中、ぶれることなくこの国を見つめてこられた先生とお話し出来たことを誇りに思っております。どうぞ、安らかにお眠り下さい。またご指導、ご鞭撻を賜りたく思っております。さようなら」
大学4年の時に千葉の神谷先生のマンションに泊めて貰った事もあり、貴殿のブログを拝見して懐かしさでいっぱいです。
ありがとうございました。