会津若松、猪苗代湖湖畔。
野口記念館は、その生家に隣接する形で立っております。
小学校のときは、修学旅行で訪れました。
酔漢が最初に尋ねましたのは、小学二年生のとき。
その印象は「でかい家だなぁ」だったのです。
「曲がり屋」ではないのですが、馬と暮らすような造りになっていて、祖母(母方)から聞いたある言葉を思い出しのです。
「うまっこ飼える百姓は、金あったのっしゃ」
祖母は、県北の庄屋の出です。祖母の家庭はお金に困る生活ではなかったのですが、回りの農家は当時そうした様相だったようです。
農家、特に、小作と呼ばれた中でも「馬っこ持ってる」というのは、今で言えば、自家用車を持っているに匹敵するわけです。
繰返します。野口英世の生家には、馬小屋があります。
部屋の中央には、英世が清作と言われた幼少時代に落ちたとされる「囲炉裏」があります。
「明日食べる物にも困った生活だった」
こうした印象を持ってましたが、この家を見る限りそういう印象はありませんでした。
実際、修学旅行でその後、ここを訪れたとき、僕等、塩竃市立第二小学校の面々は。「なんだや、おらいの家よりでけぇんでねかや!」というものでした。
よっちん(渾名)なんかは、だるま船で暮らしてましたから、「ゆれねぇし、天井高ぐていいなやぁぁ」と見上げておりました。
(実感こもってたなぁ・・・)
しかしながら、その生活の困窮ぶりはどうやら本当のようで、それは、父の酒癖とバクチ好きによるところが大きな要因だったのでした。
ところで、話しは少し飛びますが、湯川秀樹氏が会津人の事をこのように話されていたそうです。
「あれ?なんで湯川秀樹が会津と繋がりが・・・」と、これは酔漢も思ったところです。
帝国大学理学部に話しは遡りますが。
帝大理科の祖に「山川健次郎」がおりまして、(山川兄弟と言えば、日本大学教育の先駆け的大きな存在です)彼は会津藩の出身なのです。
その縁からか、福島県立会津高校第一回文化祭の講演者が、湯川秀樹氏でした(1949年秋)。
そのときの言葉とされている記録です。
「北篤氏著『世伝野口英世』13ページより」
湯川秀樹博士も会津人のタイプとして、以上の二つをあげておられる。
現実感覚がゆるんでおり、特に経済観念が乏しい。楽しむために生き、その結果など気にしない。だから生活上で困ったことになり、全く駄目な奴のように思える。それだけ温かい楽天家で、人柄が実におおらかなのである。底抜けの好人物で、威張ったりせず、誰にも親しまれる。物事に器用で、エネルギーに溢れ、こだわりがない。だから困った奴なのに、民衆に愛され、全国にまで広がったのであろう。
これは、「あの唄」とだぶるのは、この書にも書かれております。
小原庄助さん なんで身上つぶした 朝寝 朝酒 朝湯が大好きで それで身上つぶした ああ尤もだ 尤もだ
こんな生活してみたいよなぁ・・・でも身上つぶすのは嫌だよなぁぁ・・・・酔漢でなくても思うところではございます。
ノグチの父親「野口佐代助」はまさしくそのような人物だったと伝えられてます。
はたして、母親を語られることは多々あり、帰国の際にも母親との写真はあるのですが、父親の影が非常に薄い。
記録を調べると、殆どの伝記には父親死亡の原因、その様子、ノグチの感想などなど…一切記載されておりません。
異常とも言える内容です。
ですから、何時、どの様に亡くなったのか・・・。これは、くだまきでもかたることのできない内容となっております。
ネットを検索するに、このように書かれている内容があります。
「死因が性病であり(梅毒とも淋病とも書かれております)ノグチの名誉の為にオフレコになったのではないか・・」
それにしても、それほど、妻からも息子からも嫌われる父親だったのか・・その事は謎です。
この「くだまき」を語っている際ちゅうに気づいた酔漢でした。
前置きが長くなりました。
前回の「くだまき」では、ノグチが父親の遺伝子が顔を出し、それが、彼の人間性ではなかったかと、致しました。
今後、そのノグチの実績と表裏となる「父親の遺伝子上のノグチ」はこのストーリーのポイントとなります。
ふらついた足でアパートへ戻ったノグチ。
「何が帝大だぁ?俺は、俺の実績だけで、世界を驚かせてやる・・じゃないと、かあちゃんに会えない・・・」
久しぶりのベッドは、彼に十分な睡眠を与えてくれたのでした。
研究室へ戻ったノグチは、また人が狂ったような実験を繰り返します。
最初にお話しいたしましたが、「まるで手品のような手の動き」と言われております。実際には本当に「マジックハンド」「ゴッドハンド」と言われてます。
手袋をはめた指がまるで、正確な機械のように実験するさまは、アメリカ人の研究者は驚いた様子で記録にしております。
同じ事を繰返す日々。月日が巡ります。
そして、ある日の事。
朝日がカーテン越しに部屋に射してきました。
「おい、もう朝かよ。さっきまで暗かったはずなのに・・」
たばこをくわえながらカーテンを開けようとした、その手元の試験管。
白く光っているのが見えました。
ここで、梅毒の定義というものを整理してみます。
「梅毒とはTP(トレポネーマ パリダム)という病原体(スピロヘータ)の感染により、 全身に障害を及ぼす感染症」
ノグチはその病原体の純粋培養という実験を繰り返しております。
培養方法は、このように行います。
東京歯科大学の論文よりご紹介いたします。
「野口英世博士歯科学報論文と微生物学講座スピロヘータ研究の現在」(石原和幸 奥田克爾 高添一朗)敬称略。
「培養方法」
患者(歯槽膿漏)の膿性排泄物を毛細管ピペットで採取し、減菌クエン酸溶液2mlに浮遊した。一方、腹水と普通寒天および無菌的に取り出した新鮮なウサギ肝臓片を含む培養液に接種した。更に減菌パラフィンを加え37℃で10日間培養すると、穿刺したところに沿って白色を帯びた半透明状の集落が形成された。試験管の中央を破り、集落の一部を採取してさらに新しい培地に継代することを繰り返して、純粋培養に成功した。
上記は、歯槽膿漏の原因となるスピロヘーターに関する論文ですが、表題にもございますように、その手法はノグチが使ったものと殆ど同じであるという事です。
試験管が光って見える。
「くだまき」では、こう表現してみました。
TPは、コロニーを作る際、青い曇りのような塊をつくる特徴があります。
「こ!これは!TPのコロニー。だとすれば・・・・・!!!!」
ノグチは、試験管の中身を取り出し、プレパラートへ落とし、顕微鏡を覗きます。
調節するネジを回す手が震えて来るのを感じました。
「はは・・・はは・・・・ハハハハ・・・・ハツハッツハハハハッ・・・ワハハハハハハハハハ・・・・やったぁぁ!これだぁぁ!・・」
泣いているのか、笑っているのか。顕微鏡の脇に落ちる涙。涙。
「これで!これで!・・・かぁちゃん。かぁちゃんに会える!日本に、日本に帰れる!」
「ノグチ!君は!これは・・・間違いない!確かにTP(トレポネーマ)だ!」
フレクスナー自身、ここまでのノグチの努力を知っているだけに、感慨もひとしおでした。
「よく!やってくれた!すぐさま発表しよう!」
1911年8月。ノグチ38歳。
「トレポネーマ・パリドゥムの純培養に成功した」と発表します。
野口英世は一躍世界の医学界に顔を現した瞬間でもありました。
しかし、この方法を用いても、他の研究所、研究者達は同じ結果を出すことはありませんでした。
これは何を意味するのか。
「ノグチの手法は間違えている」
「ノグチの発表は間違えている」
こうした意味を持っています。
果たして。
この結果が偶然とする見方もありますが、ノグチほど手間暇かけて行った研究者ははたして当時存在したのか。
この方が問題となる。「くだまき」ではこうします。
それほど、ノグチの技量は当時すぐれていた。こう言えると思うのです。
彼の手先は、しかし、標準化するにはあまりにも常人とはかけ離れた技量であった。
これが悲劇だったのです。
冒頭の写真です。
実は、隣に小学校6年生の頃の長男が写っておりました。
野口英世記念館での等身大の英世です。
長男の方が頭一つ身長が高い。
ノグチ153㎝です。小柄な日本人がヨーロッパを席捲いたします。
野口記念館は、その生家に隣接する形で立っております。
小学校のときは、修学旅行で訪れました。
酔漢が最初に尋ねましたのは、小学二年生のとき。
その印象は「でかい家だなぁ」だったのです。
「曲がり屋」ではないのですが、馬と暮らすような造りになっていて、祖母(母方)から聞いたある言葉を思い出しのです。
「うまっこ飼える百姓は、金あったのっしゃ」
祖母は、県北の庄屋の出です。祖母の家庭はお金に困る生活ではなかったのですが、回りの農家は当時そうした様相だったようです。
農家、特に、小作と呼ばれた中でも「馬っこ持ってる」というのは、今で言えば、自家用車を持っているに匹敵するわけです。
繰返します。野口英世の生家には、馬小屋があります。
部屋の中央には、英世が清作と言われた幼少時代に落ちたとされる「囲炉裏」があります。
「明日食べる物にも困った生活だった」
こうした印象を持ってましたが、この家を見る限りそういう印象はありませんでした。
実際、修学旅行でその後、ここを訪れたとき、僕等、塩竃市立第二小学校の面々は。「なんだや、おらいの家よりでけぇんでねかや!」というものでした。
よっちん(渾名)なんかは、だるま船で暮らしてましたから、「ゆれねぇし、天井高ぐていいなやぁぁ」と見上げておりました。
(実感こもってたなぁ・・・)
しかしながら、その生活の困窮ぶりはどうやら本当のようで、それは、父の酒癖とバクチ好きによるところが大きな要因だったのでした。
ところで、話しは少し飛びますが、湯川秀樹氏が会津人の事をこのように話されていたそうです。
「あれ?なんで湯川秀樹が会津と繋がりが・・・」と、これは酔漢も思ったところです。
帝国大学理学部に話しは遡りますが。
帝大理科の祖に「山川健次郎」がおりまして、(山川兄弟と言えば、日本大学教育の先駆け的大きな存在です)彼は会津藩の出身なのです。
その縁からか、福島県立会津高校第一回文化祭の講演者が、湯川秀樹氏でした(1949年秋)。
そのときの言葉とされている記録です。
「北篤氏著『世伝野口英世』13ページより」
湯川秀樹博士も会津人のタイプとして、以上の二つをあげておられる。
現実感覚がゆるんでおり、特に経済観念が乏しい。楽しむために生き、その結果など気にしない。だから生活上で困ったことになり、全く駄目な奴のように思える。それだけ温かい楽天家で、人柄が実におおらかなのである。底抜けの好人物で、威張ったりせず、誰にも親しまれる。物事に器用で、エネルギーに溢れ、こだわりがない。だから困った奴なのに、民衆に愛され、全国にまで広がったのであろう。
これは、「あの唄」とだぶるのは、この書にも書かれております。
小原庄助さん なんで身上つぶした 朝寝 朝酒 朝湯が大好きで それで身上つぶした ああ尤もだ 尤もだ
こんな生活してみたいよなぁ・・・でも身上つぶすのは嫌だよなぁぁ・・・・酔漢でなくても思うところではございます。
ノグチの父親「野口佐代助」はまさしくそのような人物だったと伝えられてます。
はたして、母親を語られることは多々あり、帰国の際にも母親との写真はあるのですが、父親の影が非常に薄い。
記録を調べると、殆どの伝記には父親死亡の原因、その様子、ノグチの感想などなど…一切記載されておりません。
異常とも言える内容です。
ですから、何時、どの様に亡くなったのか・・・。これは、くだまきでもかたることのできない内容となっております。
ネットを検索するに、このように書かれている内容があります。
「死因が性病であり(梅毒とも淋病とも書かれております)ノグチの名誉の為にオフレコになったのではないか・・」
それにしても、それほど、妻からも息子からも嫌われる父親だったのか・・その事は謎です。
この「くだまき」を語っている際ちゅうに気づいた酔漢でした。
前置きが長くなりました。
前回の「くだまき」では、ノグチが父親の遺伝子が顔を出し、それが、彼の人間性ではなかったかと、致しました。
今後、そのノグチの実績と表裏となる「父親の遺伝子上のノグチ」はこのストーリーのポイントとなります。
ふらついた足でアパートへ戻ったノグチ。
「何が帝大だぁ?俺は、俺の実績だけで、世界を驚かせてやる・・じゃないと、かあちゃんに会えない・・・」
久しぶりのベッドは、彼に十分な睡眠を与えてくれたのでした。
研究室へ戻ったノグチは、また人が狂ったような実験を繰り返します。
最初にお話しいたしましたが、「まるで手品のような手の動き」と言われております。実際には本当に「マジックハンド」「ゴッドハンド」と言われてます。
手袋をはめた指がまるで、正確な機械のように実験するさまは、アメリカ人の研究者は驚いた様子で記録にしております。
同じ事を繰返す日々。月日が巡ります。
そして、ある日の事。
朝日がカーテン越しに部屋に射してきました。
「おい、もう朝かよ。さっきまで暗かったはずなのに・・」
たばこをくわえながらカーテンを開けようとした、その手元の試験管。
白く光っているのが見えました。
ここで、梅毒の定義というものを整理してみます。
「梅毒とはTP(トレポネーマ パリダム)という病原体(スピロヘータ)の感染により、 全身に障害を及ぼす感染症」
ノグチはその病原体の純粋培養という実験を繰り返しております。
培養方法は、このように行います。
東京歯科大学の論文よりご紹介いたします。
「野口英世博士歯科学報論文と微生物学講座スピロヘータ研究の現在」(石原和幸 奥田克爾 高添一朗)敬称略。
「培養方法」
患者(歯槽膿漏)の膿性排泄物を毛細管ピペットで採取し、減菌クエン酸溶液2mlに浮遊した。一方、腹水と普通寒天および無菌的に取り出した新鮮なウサギ肝臓片を含む培養液に接種した。更に減菌パラフィンを加え37℃で10日間培養すると、穿刺したところに沿って白色を帯びた半透明状の集落が形成された。試験管の中央を破り、集落の一部を採取してさらに新しい培地に継代することを繰り返して、純粋培養に成功した。
上記は、歯槽膿漏の原因となるスピロヘーターに関する論文ですが、表題にもございますように、その手法はノグチが使ったものと殆ど同じであるという事です。
試験管が光って見える。
「くだまき」では、こう表現してみました。
TPは、コロニーを作る際、青い曇りのような塊をつくる特徴があります。
「こ!これは!TPのコロニー。だとすれば・・・・・!!!!」
ノグチは、試験管の中身を取り出し、プレパラートへ落とし、顕微鏡を覗きます。
調節するネジを回す手が震えて来るのを感じました。
「はは・・・はは・・・・ハハハハ・・・・ハツハッツハハハハッ・・・ワハハハハハハハハハ・・・・やったぁぁ!これだぁぁ!・・」
泣いているのか、笑っているのか。顕微鏡の脇に落ちる涙。涙。
「これで!これで!・・・かぁちゃん。かぁちゃんに会える!日本に、日本に帰れる!」
「ノグチ!君は!これは・・・間違いない!確かにTP(トレポネーマ)だ!」
フレクスナー自身、ここまでのノグチの努力を知っているだけに、感慨もひとしおでした。
「よく!やってくれた!すぐさま発表しよう!」
1911年8月。ノグチ38歳。
「トレポネーマ・パリドゥムの純培養に成功した」と発表します。
野口英世は一躍世界の医学界に顔を現した瞬間でもありました。
しかし、この方法を用いても、他の研究所、研究者達は同じ結果を出すことはありませんでした。
これは何を意味するのか。
「ノグチの手法は間違えている」
「ノグチの発表は間違えている」
こうした意味を持っています。
果たして。
この結果が偶然とする見方もありますが、ノグチほど手間暇かけて行った研究者ははたして当時存在したのか。
この方が問題となる。「くだまき」ではこうします。
それほど、ノグチの技量は当時すぐれていた。こう言えると思うのです。
彼の手先は、しかし、標準化するにはあまりにも常人とはかけ離れた技量であった。
これが悲劇だったのです。
冒頭の写真です。
実は、隣に小学校6年生の頃の長男が写っておりました。
野口英世記念館での等身大の英世です。
長男の方が頭一つ身長が高い。
ノグチ153㎝です。小柄な日本人がヨーロッパを席捲いたします。
中学の修学旅行でしたか?
「大きな家」って誰しも思うのでしたね。
これから、彼の業績の紹介とその現代の評価を中心に語ろうかと思ってます。
そして、運命の帰国。
少し長くなりそう・・・今年中に終われるかなぁぁ。
私も「なんだ意外と大きな家だなあ」と思いました。それまで読んだ偉人伝で想像していた家とは全然違っていたからです。
小柄なノグチが大きな偉業を成しましたが…彼の悲劇とは??
次回が楽しみです。