酔漢のくだまき

半落語的エッセイ未満。
難しい事は抜き。
単に「くだまき」なのでございます。

史学してみた。 「風雲児」が生きた時代 一

2012-11-15 07:47:59 | もっとくだまきな話
パソコンの遠隔操作による「誤認逮捕」。
この「誤認」と言う言葉は、逮捕する側が「その逮捕に至る理由が逮捕に値することにはならない」と認められて初めて成立する言葉です。
昨今の新聞記事を拝読するに、警察庁の知識と方策の無さが招いた今回の事件であったと考えます。
「誤認逮捕」この言葉から思い出した事件がありました。
それが、写真でご紹介いたしました「不当逮捕」というノンフィクションです。
主人公は実在した人物「立松和博」。読売新聞社社会部記者。
同時に、「不当逮捕」の当事者ともなっておりますが、この「歴史を再び紐解くことで現在が見えてくる」。
こうした思いが手伝いまして「くだまき」にいたします。
そして、先に結論を語りますが、この1957年のこの事件が、1925年の「大逆事件(の内に一つ、朴烈事件→金子文子の事件」まで遡ることは案外知られておりません。

「くだまき」ではまだ語ってはおりませんが、昭和20年代後半から昭和40年あたりまでの記録を整理して居りました。
丁度、自身の父が20代の頃。高度経済成長が始まる直前。
あの混沌として、危ない時代。
戦後という大きなエポックメーキングの後、新秩序を模索し始める日本。
人々の生活は大きくその価値観を含めて変わっていく過程。
煙突が立ち並び、テレビの復旧率もまだ少し、公害問題が頭を持ち上げ、学生運動が社会問題にもなる。
ベトナム戦争が泥沼化していく中、人類は月へと向かっていった。
そんな時代を酔漢の中で意識している事、記憶している事を語って行こうかと考えておりました。
色にしてみれば、映画「天国と地獄」での周りが白黒映像ながら、「煙突から出て来る煙だけが赤い」そんなイメージが残ります。
「不当逮捕」は、そんな時代を象徴するような破天荒な人物、立松の事件を著しております。

いつも埒外に飛び出しそうな危うさを身に漂わせながら、風変わりで奇矯ともとれる言動を好み、それが地であるのかと思えば、周囲を楽しませるための計算されたサービスのようでもあり、では計算高い男かというと、知己、友人のために自ら失うことを厭わず、持てる限り散じ、その点において善意の人間であるのは疑いもないのだが、人に虚飾を見ると異常な情熱を以て引き剥がしにかかり、驕るものがいればちょっとした奸計を仕掛けて笑い物にする意地の悪さもけっこう持ち合わせていて、そのくせそうした相手からも恨みをかわず、つねに人気の中心にいるという、なんとも襞の多い。

昭和23年。読売新聞社、社内。社会部。
「一体どれだけの政治家や官僚が、昭電(昭和電工)から賄賂もらってんだよ!・・・これが解ったら一大スクープ!おーーーーい社長賞欲しい奴ぁいるかぁぁ!」
社会部デスクが大声を上げる!も・・・・部内は・・・「シーーン・・・」
「なんだよ!通夜じゃねぇんだ!だれか、おい!高検に盗聴器仕掛けてくるような度胸のある者はいねぇのかよ!」
「デスクですねぇ・・・」
「なんだ?」
「無理ですよ」
「お前なぁ。真顔で言うなヨ。そんなこたぁ。俺だって知ってらぁ。でもよ、また毎日にスクープ取られちまったらどうすんだよ!」
「徹夜で地検にも高検にも張り付いて、記者クラブだって手弁当で張り付いているんですよ。でもね中々ねぇ・・・そのう高検も固くて・・」
社会部内。再び通夜のような雰囲気に包まれております。
そのとき、社会部の中に異様な香りだ漂って来ました。
「何だ!おい・・・この香って・・アンフォーラ?・・・アンフォラーラだぜ!」(アンフォーラ→オランダの高級たばこ。パイプ用です)
「デスク。どうして知ってるんですか?」
「ああ奴だ。今頃ご登場だぜ。奴が階段を上がり切ると、この香が社内に蔓延するんだ。あと8秒ってとこだな」
「8秒?」
「5・・4・・・・3・・・・・」
バタン!
社会部のドアが開きました。
ステットソン(ハンフリーボガードのボルサリーノは有名。帽子の老舗)を深く被った男がパイプを吹かしながら入って来ます。
「た・て・・・ま・・つううう!お前何時だと思ってるんだぁぁ!」
「今ですか?もうすぐお昼になりますねぇ・・デスク」
「こんな時間まで何やってたんだ。お前のことだから、『取材』じゃなかろう!」
「はははは・・・バレテましたか?夕べは、女の子と銀座でパァーーーットやってました。進駐軍と一緒でしたぁ。ダンスホールでぇぇ」
「お前入社は・・」
「あっという間3年ですけど」
「3年選手が、役員よりおそい出社とはどういうこったぁ!」
「まぁまぁ、そう怒りなさんなって。デスクの一番欲しいもの持って来たんだからさぁ」
「俺の?一番欲しい物?なんだそりゃ?」
立松は、自分のメモを切り取ってデスクに渡します。
「これですよ!こ!れ!」
そのメモには。
「うそだろ!お前!こんなものどっから手に入れて?」
「そんな事より、明日の一面間に合うんでしょ!一面スパーーっと行きましょうよ!」
「もう一度、確認したいのだが。これ・・ウソじゃねぇんだろうな?」
「まさかぁぁ!本当の本当!高検が発表する前にどうです!久しぶりに花火打ち上げてぇ」
と、立松の話が終わるか終らない内に。
「おい!一面。これ!大至急校正!」
このスクープは、昭電事件の事の大きさを広く国民に知らしめるところとなります。
翌日の読売新聞。
その抜粋。

さらに大物を召喚 昭電疑獄の範囲拡大
来栖氏の起訴確実 四十五万円収受を自供


そして、後手を取ったその翌日の毎日新聞。


昭電疑獄は、その前の造船疑獄と合わせて、戦後すぐの贈収賄事件として、歴史の汚点として記録されております。
この記事により世論が沸騰。芦田内閣は総辞職に追い込まれる結果となります。

立松はそれから立て続けに召喚される政治家、官僚の名前を他社の追随を待つことなくスッパヌキ致します。

重政誠之元農林政務次官、福田赳夫大蔵省主計局長、大野伴睦民主自由党顧問、二宮善基日本興業銀行副総裁。10月に西尾末広前副総理も逮捕。
芦田均内閣は10月7日総辞職。12月には芦田も逮捕。
64人の逮捕者のうち44人が起訴された。しかし芦田らは無罪。
1962年の最高裁判決で日野原、栗栖の有罪が確定した。


「入社三年目の若造にスクープ取られやがって、お前らブン屋(社会部記者)としての誇りはなくなちまったのかぁ」
「何今さら言ってるんですか?立松は別ですよ別!単なる『お金持ちお坊ちゃん』じゃ無いってことはデスクも十分しってるじゃないですか」

「大金持ちのボンボン」「女たらし」「遊び人」「業界一の伊達男」
ステットソンを被り、アンフォーラ(彼はオランダ直輸入のレギュラーのみを愛飲)を吸い、愛車はフォードマーキュリー。
単なる一記者ではない彼の人生。
そんな彼が大きな病に倒れます。
「肺結核」
長期の入院を余儀なくされます。
昭和29年。
社会復帰が昭和32年。
GHQも既になく、NHKがカラーテレビの実験放送が開始され、長嶋茂雄が六大学の実績を引っ提げながら巨人軍へ入団。
立松が病床いる間。
世の中が大きく変貌しておりました。

続きます。


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