酔漢、そして丹治氏の母校、仙台市立五橋中学校が今年百周年を迎えます。
百年という年月が長いのか、正直ピンとは来ません。が、一世紀を迎えます。久しく、ご無沙汰しておりました「同窓会」ですが、昨日その案内が手元に届きました。
家内「ふーん、五橋もついに百年かぁぁ」
酔漢「こんなに古いとは思わなかった」
年下君「そういえば、俺の中学校(藤沢市立某中学校)は五十年だな」
酔漢「八木山って・・・」
家内「さぁ、何年かなぁ・・・やっぱりね五橋=合唱部の方程式かな?」
酔漢「天文部は?ドームあったんだけど」
家内「あった!あった!あそこを車で通るでしょ。中にどんな顔した中学生がいるのか、って・・・中で何やっているんだろ?とか。思った!」
酔漢「こんな顔(酔漢自身)した奴が、太陽黒点の軌跡を記録していた」
仙台のど真ん中にありました中学校の様子は以前ブログにしております。仙台中学校の頃の話
その同窓会なのですが、幹事学年が酔漢の学年でございます。これは何かの縁を感じるところではございますが。三十年近く経ちまして電話で話た同級生がおります。
「酔漢さんの携帯ですか?ひさしぶり。『ほまれ』です」
「一瞬誰だべ?」と思いました。ですがすぐ思い出したのは言うまでもありません。
「なんだや!声聞くのは卒業式以来だっちゃなや」
「同窓会、今度俺達の学年なんだけど、同期会を六月にやるから、仙台に来れたらと思って」
「さそいばありがてぇけんど。親父が死んだばりだし、今回は出席できねぇべ」
「本番の9月は大丈夫なんだろ?」
「9月は絶対に出席するからっしゃ」
「幹事長は、お前の実家の傍にいるやつだから。連絡は取りやすいんじゃないか?」
「だれっしゃ?・・・・さうら君すか!んで連絡してみかっから」
でした。で、彼にメール。
「今度はちゃんと出てね!」
このやさしい声なのですが・・・酔漢には「でろよ!」と聞こえます・・・。そして丹治氏からは「お前、今度はお前の学年なんだから(幹事の学年)必ず出るように!」と言われております。卒業以来クラス会を大学時代に一度出席したことがあります。「仙台かき徳」でした。それ以来です。
さて、同窓会への出席の葉書を昨日投函し、あとは会費を振り込むばかりとなりましたが、ここでふと考えたことがございます。
「あの頃の仙台と今の仙台では高校の名前が一致しなくなっているなぁ」でした。
年下君が高校受験生でもありますので、高校の情報紙がよく送られてくるのですが、時たま全国版が入っておりまして、当然酔漢は「宮城県」の頁を捲ってしまいます。
私学も男女共学になり名前が変わっている高校が多いことに気づきます。それと高校野球の県予選を見ましても「これ何処だべ」と我が家では話題になることが多いのでした。
年に一度「定期戦」の「くだまき」を語っておりましたが、今年は父の病気の頃でもあり取材が出来ずに語ることが出来ませんでした。
「仙台一高が共学になり初の定期戦」だったのですね。こんな事もつい最近思い出した酔漢でございます。
丹治氏からコメントを頂戴いたしました。改めてご紹介いたします。
ところで定期戦ですが、
定期戦そのものがなくなってもおかしくない状況なのです。
クロンシュタットさんの頃も小生の頃も、定期戦は第三戦までありました。
かなり長い間、第三戦までありました。
我が方が一回戦で勝てなかった時など、
こう言って現役を励ましたものです。
「お前たち、何をショボクレているか。
月曜の授業がなくなるんだぞ。喜べ!」
それがいつの間にか第二戦までになり、
現在は一回のみ。
プロ野球との日程調整が、とか何とか言われてますが・・・
「定期戦をやめさせたい」と考える勢力が存在するとしか思えません。
二高で応援団が解散した時、
母校の後輩たちは一校だけのアピール後進で二高の前まで行き、
二高にエールを送りました。
二高生も、かなりの数が正門前につめかけていました。
彼らもアピール行進をやりたかったのです。
ところが翌年、二高側から申入れがあったのです。
「頼むから、アピール行進で生徒たちをこちらによこさないでくれ」。
一昨年は、二高応援団がアピール行進を復活したいと何度かけあっても、学校側は頑として首を縦に振りませんでした。
両校揃ってのアピール行進は、昨年に復活しました。
アピール行進を復活させた応援団幹部はじめ二高の生徒諸君の熱意に経緯を表します。
二高の現状を我々は決して喜ぶものではありません。
口で「アオザル」と罵りこそすれ、
二高は飽くまでも「よき敵」。
一日も早い宿敵の復活を念じて已みません。
「特色ある高校づくり」なることをよく耳にし、目にします。
しかし特色ある学校行事が次第に姿を消してゆき、
あとに残るのは、大人の言うことに素直な
「大人しいよい子」のみ。
結局はどこの高校も似たりよったりの金太郎飴になってしまうのかと思うと、
寒心に堪えません。
何とも複雑です (丹治)
2010-07-15 14:36:57
丹治氏ならではのコメントです。やはり母校への思いが強いことがわかります。これは二高OB「クロンシュタット氏」も同様であろうと考えております。
さて、酔漢母校「仙台向山」です。酔漢四回生。まだ新設校でありました。
現在は女子の生徒数が男子を上回っているのだとか。(僕等の時代には理数科はなかったし)クラスに女子が6~8名の時代の酔漢でしたから、その様子を想像することができずにおります。今は男子、女子と別れての募集となっておりますが、酔漢の時代は「男女合わせて何名」でした。
思い起こせば、「創立以来の共学私服」はこの「仙台向山高校」だけなのでした。僕等の時代「共学私服が主流になる」と考えていただけに、母校が稀有な存在になっていることに驚くのでした。
何時の間にやら、「制服」に抵抗のない時代になったのかと。これも時代なのかと考えてしまいます。確かに、向山高校が新設され同時期の高校は制服が最初から制定されております。「仙台南」「多賀城」「泉」ブレザーは時代の主流でした。ですが、旧制中学から存在する高校は、もの凄いエネルギーを使いつつも「私服化」となり、それは今でも続いております。県北「築館」「石巻」仙台市内は「一高」「二高」「仙台高校」県南では「白石」等等。先輩達が相当激しい抵抗を行った末の結果だったのでした。
仙台一高には「妖怪の群れ」という記録がございます。これの賛否につきましては、本ブログの主旨とは異なりますのでコメント等は控えます。が、事実、当時の学生諸君が激しい抵抗を力で跳ね返し「私服にこだわった」理由は伝わります。
今では考えることが難しい史実でございます。
これが「高校生の政治活動云々」という事であれば問題を取り違えているのではないかと酔漢は考える次第でございます。
「君たちには最初から私服での登校、授業参加を認めている。この意味を充分重いものとして受け取ってもらいたい。決して全てに自由を与えておる訳では無いのだ。君たちのお父様が会社に行くときジーパンを履くだろうか。Tシャツ一枚で通勤するだろうか。そうではない。大人の社会にはきちんとしたルールが存在し、それは個人の自律という非常に重いものを背負った形なのである。本校のモットーを今一度噛み締めてもらいたい『自律・和敬』この『自律』とは『自由』ではない。自らを律すること。これを忘れないでもらいたい」
入学早々、校長が言った言葉です。僕等は「私服の意味」を最初の教えられたのでした。
大学時代今は引退されましたが、高校の恩師と話をする機会に恵まれました。
「今の高校生は授業ちゃんと聞くゾ!決してお前等のようにヤジを飛ばしたりする奴なんていない・・だがな、そこに面白さはあったんだがね」と話しておられます。
さて、丹治氏のコメントに戻りましょう。
「定期戦の行事自体がなくなる」そして「なくそうとしている圧力がある」その背景にはあるものまで酔漢はわかりません。仙台に住んでおれば双方の意見を拝聴することが出来るのでしょうが、それはままなりません。しかし、酔漢が一番憂いておりますのは、「学生諸君のアクションが見えてこない」ことです。現在は「学生の自治」というものが本当になくなっている状態なのでしょうか。学生が意見をする(例えば学校行事に対しても)場はなくなったのでしょうか。昔の話と笑われるかもしれませんが、酔漢が母校生徒会長だった時分、生徒総会は「教師は体育館のバルコニーで見学だけ。発言権はなし。発言したい場合は、前日までに生徒会執行部へ書面でもって事前に通知した後時間を越えない範囲で発言すること。発言その他は進行議長の指示に従うこと」これが協定だったのです。逆に何が起きようとそこで発生した問題については教師は解決の全てを生徒の任せると。ある意味相当厳しいものだったのでした。
総会が紛糾し、生卵と小麦粉が飛び交う中で生徒総会を進行し続けた経験がございます。
止に入る教師はおりませんし、「自分たちで解決するべき」との態度が教師一人一人から暗黙のメッセージが届くのでした。
やはり時代というものでしょうか。
ですが、二高生諸君、一高生諸君。(だけではなく)共学になろうともその気概をもって「定期戦を続けたい」のであれば「大人たちを説得する努力を期待いたします」そう「共学化」が全ての障害ではないはずです。諸君等の中には「共学になったから」とか「校風が変わったから」とか妙な納得のしかた。言い換えれば「言い訳」にはして欲しくないのです。
制度が変わったことは事実です。しかし、歴史が新しく始まったばかりの諸君の行動が今後の百年を決めることにもなるのです。納得し難い事があればとことん話しあい、理不尽な事を言ってくる大人達以上に諸君等が大人であってもらいたいのです。
定期戦と言えば、正月のラグビーの定期戦は今でも続いているのでしょうか。それと、白石高校と角田高校の定期戦、泉高校と多賀城高校の定期戦はどのように運営されているのでしょう。
「杜の都の早慶戦」仙台のイベントとして無くしてはなりません。球場の問題があれば、器の問題だけですから、どこでもいいじゃありませんか。Kスタにこだわることはないと思います。やることが大事です。
ついでに・・・二女がなくなり「ニ華」となり中高一貫教育となりましたが中学生がそのまま高校へ進めるのはほんのわずかだと聞きました。神奈川県にはそのようなシステムはありません。せめて80%の生徒がそのまま高校へ進学出来ませんと意味がないと考えます。
この件は情報が断片的ですので違っておりましたらご容赦下さい。
「五橋の同窓会」からこんな事あんな事を語ってしまいました。
「中学の同窓会でこんな熱くなるなんて人いるの?」
「これがね、不思議だよな。俺達こんな感じでいたから・・ないのが不思議!」
「八木山はないな」
「連絡取ってみたら・・」
「そうよねぇでもやっぱり『五橋』だって・・思う!」
「どういう意味?」
「そうなの。五橋だから・・ヨ」
家内は洗濯物を干しながらそう答えておりました。
百年という年月が長いのか、正直ピンとは来ません。が、一世紀を迎えます。久しく、ご無沙汰しておりました「同窓会」ですが、昨日その案内が手元に届きました。
家内「ふーん、五橋もついに百年かぁぁ」
酔漢「こんなに古いとは思わなかった」
年下君「そういえば、俺の中学校(藤沢市立某中学校)は五十年だな」
酔漢「八木山って・・・」
家内「さぁ、何年かなぁ・・・やっぱりね五橋=合唱部の方程式かな?」
酔漢「天文部は?ドームあったんだけど」
家内「あった!あった!あそこを車で通るでしょ。中にどんな顔した中学生がいるのか、って・・・中で何やっているんだろ?とか。思った!」
酔漢「こんな顔(酔漢自身)した奴が、太陽黒点の軌跡を記録していた」
仙台のど真ん中にありました中学校の様子は以前ブログにしております。仙台中学校の頃の話
その同窓会なのですが、幹事学年が酔漢の学年でございます。これは何かの縁を感じるところではございますが。三十年近く経ちまして電話で話た同級生がおります。
「酔漢さんの携帯ですか?ひさしぶり。『ほまれ』です」
「一瞬誰だべ?」と思いました。ですがすぐ思い出したのは言うまでもありません。
「なんだや!声聞くのは卒業式以来だっちゃなや」
「同窓会、今度俺達の学年なんだけど、同期会を六月にやるから、仙台に来れたらと思って」
「さそいばありがてぇけんど。親父が死んだばりだし、今回は出席できねぇべ」
「本番の9月は大丈夫なんだろ?」
「9月は絶対に出席するからっしゃ」
「幹事長は、お前の実家の傍にいるやつだから。連絡は取りやすいんじゃないか?」
「だれっしゃ?・・・・さうら君すか!んで連絡してみかっから」
でした。で、彼にメール。
「今度はちゃんと出てね!」
このやさしい声なのですが・・・酔漢には「でろよ!」と聞こえます・・・。そして丹治氏からは「お前、今度はお前の学年なんだから(幹事の学年)必ず出るように!」と言われております。卒業以来クラス会を大学時代に一度出席したことがあります。「仙台かき徳」でした。それ以来です。
さて、同窓会への出席の葉書を昨日投函し、あとは会費を振り込むばかりとなりましたが、ここでふと考えたことがございます。
「あの頃の仙台と今の仙台では高校の名前が一致しなくなっているなぁ」でした。
年下君が高校受験生でもありますので、高校の情報紙がよく送られてくるのですが、時たま全国版が入っておりまして、当然酔漢は「宮城県」の頁を捲ってしまいます。
私学も男女共学になり名前が変わっている高校が多いことに気づきます。それと高校野球の県予選を見ましても「これ何処だべ」と我が家では話題になることが多いのでした。
年に一度「定期戦」の「くだまき」を語っておりましたが、今年は父の病気の頃でもあり取材が出来ずに語ることが出来ませんでした。
「仙台一高が共学になり初の定期戦」だったのですね。こんな事もつい最近思い出した酔漢でございます。
丹治氏からコメントを頂戴いたしました。改めてご紹介いたします。
ところで定期戦ですが、
定期戦そのものがなくなってもおかしくない状況なのです。
クロンシュタットさんの頃も小生の頃も、定期戦は第三戦までありました。
かなり長い間、第三戦までありました。
我が方が一回戦で勝てなかった時など、
こう言って現役を励ましたものです。
「お前たち、何をショボクレているか。
月曜の授業がなくなるんだぞ。喜べ!」
それがいつの間にか第二戦までになり、
現在は一回のみ。
プロ野球との日程調整が、とか何とか言われてますが・・・
「定期戦をやめさせたい」と考える勢力が存在するとしか思えません。
二高で応援団が解散した時、
母校の後輩たちは一校だけのアピール後進で二高の前まで行き、
二高にエールを送りました。
二高生も、かなりの数が正門前につめかけていました。
彼らもアピール行進をやりたかったのです。
ところが翌年、二高側から申入れがあったのです。
「頼むから、アピール行進で生徒たちをこちらによこさないでくれ」。
一昨年は、二高応援団がアピール行進を復活したいと何度かけあっても、学校側は頑として首を縦に振りませんでした。
両校揃ってのアピール行進は、昨年に復活しました。
アピール行進を復活させた応援団幹部はじめ二高の生徒諸君の熱意に経緯を表します。
二高の現状を我々は決して喜ぶものではありません。
口で「アオザル」と罵りこそすれ、
二高は飽くまでも「よき敵」。
一日も早い宿敵の復活を念じて已みません。
「特色ある高校づくり」なることをよく耳にし、目にします。
しかし特色ある学校行事が次第に姿を消してゆき、
あとに残るのは、大人の言うことに素直な
「大人しいよい子」のみ。
結局はどこの高校も似たりよったりの金太郎飴になってしまうのかと思うと、
寒心に堪えません。
何とも複雑です (丹治)
2010-07-15 14:36:57
丹治氏ならではのコメントです。やはり母校への思いが強いことがわかります。これは二高OB「クロンシュタット氏」も同様であろうと考えております。
さて、酔漢母校「仙台向山」です。酔漢四回生。まだ新設校でありました。
現在は女子の生徒数が男子を上回っているのだとか。(僕等の時代には理数科はなかったし)クラスに女子が6~8名の時代の酔漢でしたから、その様子を想像することができずにおります。今は男子、女子と別れての募集となっておりますが、酔漢の時代は「男女合わせて何名」でした。
思い起こせば、「創立以来の共学私服」はこの「仙台向山高校」だけなのでした。僕等の時代「共学私服が主流になる」と考えていただけに、母校が稀有な存在になっていることに驚くのでした。
何時の間にやら、「制服」に抵抗のない時代になったのかと。これも時代なのかと考えてしまいます。確かに、向山高校が新設され同時期の高校は制服が最初から制定されております。「仙台南」「多賀城」「泉」ブレザーは時代の主流でした。ですが、旧制中学から存在する高校は、もの凄いエネルギーを使いつつも「私服化」となり、それは今でも続いております。県北「築館」「石巻」仙台市内は「一高」「二高」「仙台高校」県南では「白石」等等。先輩達が相当激しい抵抗を行った末の結果だったのでした。
仙台一高には「妖怪の群れ」という記録がございます。これの賛否につきましては、本ブログの主旨とは異なりますのでコメント等は控えます。が、事実、当時の学生諸君が激しい抵抗を力で跳ね返し「私服にこだわった」理由は伝わります。
今では考えることが難しい史実でございます。
これが「高校生の政治活動云々」という事であれば問題を取り違えているのではないかと酔漢は考える次第でございます。
「君たちには最初から私服での登校、授業参加を認めている。この意味を充分重いものとして受け取ってもらいたい。決して全てに自由を与えておる訳では無いのだ。君たちのお父様が会社に行くときジーパンを履くだろうか。Tシャツ一枚で通勤するだろうか。そうではない。大人の社会にはきちんとしたルールが存在し、それは個人の自律という非常に重いものを背負った形なのである。本校のモットーを今一度噛み締めてもらいたい『自律・和敬』この『自律』とは『自由』ではない。自らを律すること。これを忘れないでもらいたい」
入学早々、校長が言った言葉です。僕等は「私服の意味」を最初の教えられたのでした。
大学時代今は引退されましたが、高校の恩師と話をする機会に恵まれました。
「今の高校生は授業ちゃんと聞くゾ!決してお前等のようにヤジを飛ばしたりする奴なんていない・・だがな、そこに面白さはあったんだがね」と話しておられます。
さて、丹治氏のコメントに戻りましょう。
「定期戦の行事自体がなくなる」そして「なくそうとしている圧力がある」その背景にはあるものまで酔漢はわかりません。仙台に住んでおれば双方の意見を拝聴することが出来るのでしょうが、それはままなりません。しかし、酔漢が一番憂いておりますのは、「学生諸君のアクションが見えてこない」ことです。現在は「学生の自治」というものが本当になくなっている状態なのでしょうか。学生が意見をする(例えば学校行事に対しても)場はなくなったのでしょうか。昔の話と笑われるかもしれませんが、酔漢が母校生徒会長だった時分、生徒総会は「教師は体育館のバルコニーで見学だけ。発言権はなし。発言したい場合は、前日までに生徒会執行部へ書面でもって事前に通知した後時間を越えない範囲で発言すること。発言その他は進行議長の指示に従うこと」これが協定だったのです。逆に何が起きようとそこで発生した問題については教師は解決の全てを生徒の任せると。ある意味相当厳しいものだったのでした。
総会が紛糾し、生卵と小麦粉が飛び交う中で生徒総会を進行し続けた経験がございます。
止に入る教師はおりませんし、「自分たちで解決するべき」との態度が教師一人一人から暗黙のメッセージが届くのでした。
やはり時代というものでしょうか。
ですが、二高生諸君、一高生諸君。(だけではなく)共学になろうともその気概をもって「定期戦を続けたい」のであれば「大人たちを説得する努力を期待いたします」そう「共学化」が全ての障害ではないはずです。諸君等の中には「共学になったから」とか「校風が変わったから」とか妙な納得のしかた。言い換えれば「言い訳」にはして欲しくないのです。
制度が変わったことは事実です。しかし、歴史が新しく始まったばかりの諸君の行動が今後の百年を決めることにもなるのです。納得し難い事があればとことん話しあい、理不尽な事を言ってくる大人達以上に諸君等が大人であってもらいたいのです。
定期戦と言えば、正月のラグビーの定期戦は今でも続いているのでしょうか。それと、白石高校と角田高校の定期戦、泉高校と多賀城高校の定期戦はどのように運営されているのでしょう。
「杜の都の早慶戦」仙台のイベントとして無くしてはなりません。球場の問題があれば、器の問題だけですから、どこでもいいじゃありませんか。Kスタにこだわることはないと思います。やることが大事です。
ついでに・・・二女がなくなり「ニ華」となり中高一貫教育となりましたが中学生がそのまま高校へ進めるのはほんのわずかだと聞きました。神奈川県にはそのようなシステムはありません。せめて80%の生徒がそのまま高校へ進学出来ませんと意味がないと考えます。
この件は情報が断片的ですので違っておりましたらご容赦下さい。
「五橋の同窓会」からこんな事あんな事を語ってしまいました。
「中学の同窓会でこんな熱くなるなんて人いるの?」
「これがね、不思議だよな。俺達こんな感じでいたから・・ないのが不思議!」
「八木山はないな」
「連絡取ってみたら・・」
「そうよねぇでもやっぱり『五橋』だって・・思う!」
「どういう意味?」
「そうなの。五橋だから・・ヨ」
家内は洗濯物を干しながらそう答えておりました。
それに、いまの一高生が好敵手として見ているのは、二高生だけでは無くて、宮城全体の高校ではないでしょうか?
こちらでは、連日の猛暑の中、高校野球地区大会の試合が行われています。私の世代は、東北と育英という二強が他校を圧倒していましたが、今大会では東北学院や利府、あるいは宮城水産なども、良い試合をしています。なかには共学化して初めて出来た公式野球部が、こつこつと努力して試合ができるまでのチームを作ってきた高校もあります(惜敗しましたが)そうやって、ゼロから新しい歴史を作っている生徒たちが、古くからある学校の、当時の生徒さんに劣っているとは思いません。
>どこの高校も似たりよったりの金太郎飴
誇り高い卒業生の方からすれば、そう見えるかもしれませんが、長年それこそを望んでいた卒業生もいらっしゃると思います。
彼は私服の向山で最後まで学生服で通学しておりました。
「酔漢、頼む。せめて校章入りのボタンを作ってくれ」
生徒会長の酔漢に彼が言った言葉でした。
予算がなく頓挫。彼は校章のない学生服で卒業式に出席しておりました。
いまだに、彼を見ますと思い出す酔漢です。
「おばら利府高」彼が手塩に掛けたメンバーです。「甲子園は指導者として」彼が卒業時に語った言葉でした。実力での甲子園。願ってやみません。
すず様へ。すず様の母校も共学になりました。
酔漢は宮城の高校が共学であることに何ら異を唱えるつもりは毛頭ないのです。
学生諸君が自身のやりたことを充分に表現できるフィールドがあればそれでいいと思っております。
夏大。いよいよ宮城も佳境を迎えます。
高校生の伸び伸びプレーする姿は素晴しいです。家内「母校に野球部かぁ・・違和感あるなぁ。でも出たらやっぱり応援するんなぁ」
と申しております。
焚きつけていたのはお前じゃないかって?へへへっ。
受験一辺倒の学校側の雰囲気には反発を覚える学生も、今とは違って多数存在しておりました。
「反体制リベラル」これがまだまだ大きな流れであったのです。
そんな時代の中にあって、旧態依然でいわば「体制寄り」の定期戦こそは、本来真っ先に否定されかねない存在でした。
けれども、なぜだか、誰にとっても在校時の最大の思い出となってしまうのです。
おそらく「与えられた」存在ではなく、ある程度までは学生が自主的に成立させた、「自らの」存在だったからではないでしょか。
そういった存在が「反体制リベラル」の心情を大きくくすぐるのです。
1年生の定期戦応援スタンド。初めての「人文字」が始まった瞬間を、数十年たってしまった今でも、鮮明にといいますか、息遣いまでありありと記憶しております。
一高と二高だけの閉ざされた世界。確かにエリート臭さが鼻につきますよね。
冷静な外からの視線を私は意識していました。少々自分自身が「いやらしい学生」であると疎ましくも感じておりました。
それでも「人文字」感覚を再体験したく神宮球場でのさらなる4年間を過ごしてしまいました。
早慶最終戦での優勝決定。校歌をがなりたてた何分かの記憶が、「人文字」感覚と伴に、その後の人生のささやかな拠り所となっております。
大学時代。サークルの友人たちと「インテリゲンチャ」の意義に関してずいぶんと話し合いました。
みんななぜか就職は「エリートコース」人生からは外れてしまいました。
あえて、はずしたのです。
あなり答えにはなっていませんが。
あれほどの天体望遠鏡はそこらの中学校にはありませんでしたからね。
同窓会は面白いですね~なかなか近くにいてもこんな機会がないと会えないものです。
ぐずら君とも、同窓会がきっかけで復活したわけです。
定期戦ですが、今年は伝統を守るべく闘っていました。雰囲気は変わりましたが…
女性が入っても伝統は守られて行くような気がします。
逆に女子の方が楽しんでいたかのように見受けられましたよ。
高校野球ですが、聖和や旧三島とか出てきますとどうも違和感があります。
時代の変化について行くのが大変です。
(身近なところに後輩がいるんですヨ)
ロケーションはクロンシュタット様と私では大部違います。ですが、案外思いは同じなのかと。
どうして、他校の動向が気になるのか不思議でなりません。
我が母校も大変様変わりいたしました。
これはこれで時代なのかと。そう考えております。
利府高はあと一歩。
おばら君の念願。そして水沼君の執念。
宮城の夏大はまだまだこれから!だと勧化手下ります。仙台育英には是非白川の跡を越える活躍を期待してなりません。
ね。そうですね。
5cmの反射赤道儀だったのですよ。ドームは「手動」で動かしてました。
ドームそして「相撲場=屋根付き土俵」
五橋が相撲必修だったことはあまり知られておりません。
全員、土俵の周りを十週。
すり足で準備運動する体育の授業でした。
時代の変化。今の子供達も大人になった時、そう感じるのでしょうね。