暑い日が続いております。丁度、住んでいるところの真下の道が江ノ島までの近道ですので、週末になれば車が渋滞。
片瀬の海岸他連日大賑わいの今年の夏です。
故郷宮城もそうだと、先だっての「河北」にございました。菖蒲田浜、外人浜。海水浴場としては桂島の浜が好きでした。
今月初め、父の四十九日の法要を済ませました。みなと祭りとぶつかり、久々に故郷の祭りを堪能致しました。
さて、実家の父の書斎を整理しておりましたところ。戦艦大和会との書簡の数十点を見つけました。戦艦大和会平成十年までの回報が主なものですが、「大和探索の経緯」「海の墓標委員会からの書簡」などが見られました。
「清水芳人」元副砲長の後任になられました「石田恒夫」元少佐からの書簡がほとんどでございました。
石田少佐は伊藤整一第二艦隊司令長官付として、大和艦橋におられ御生還された方でございます。また、前任は大和主計長でもございました。軍艦大和戦闘詳報等、貴重な数多い証言をされておられました。
石田元少佐と父が個人的な書簡を交わしているとは、全く知らず、父が「戦艦大和会」とこれほど深い繫がりがあったのかと、今更ながら驚いている次第でございます。
数十点程の史料の中には、「洋上慰霊祭の名簿」「大和探索での費用明細」「鬼籍に入られた元乗員の名簿」「遺族からの証言、書簡」などなど、貴重なものがございます。
これを整理しながら、今後に繋げて行きたいと考えました。
史料自体の点数は少ないのですが、それを読み込み、整理する必要があろうかと考え、今週は、本篇の記事をお休みいたします。
また、予告編ともなりますが、次回、「矢矧」を語る予定でおります。
しかし、これもつい最近出版されました書の中に、これまで明らかにされることのなかった史実が含まれていることに気づきました。これも同時平行して読み込み整理しようと考えました。主人公の方は矢矧の元乗員でしたが、洋上慰霊祭に参加されておられます。
重ね重ね、本日の本篇記事掲載(酔漢流では「本日の語り」ではございますが)は見合わせることといたしました。
勝手ではございますが、ご了承の程、宜しくお願いいたします。
連日の猛暑。ご自愛の程を。
片瀬の海岸他連日大賑わいの今年の夏です。
故郷宮城もそうだと、先だっての「河北」にございました。菖蒲田浜、外人浜。海水浴場としては桂島の浜が好きでした。
今月初め、父の四十九日の法要を済ませました。みなと祭りとぶつかり、久々に故郷の祭りを堪能致しました。
さて、実家の父の書斎を整理しておりましたところ。戦艦大和会との書簡の数十点を見つけました。戦艦大和会平成十年までの回報が主なものですが、「大和探索の経緯」「海の墓標委員会からの書簡」などが見られました。
「清水芳人」元副砲長の後任になられました「石田恒夫」元少佐からの書簡がほとんどでございました。
石田少佐は伊藤整一第二艦隊司令長官付として、大和艦橋におられ御生還された方でございます。また、前任は大和主計長でもございました。軍艦大和戦闘詳報等、貴重な数多い証言をされておられました。
石田元少佐と父が個人的な書簡を交わしているとは、全く知らず、父が「戦艦大和会」とこれほど深い繫がりがあったのかと、今更ながら驚いている次第でございます。
数十点程の史料の中には、「洋上慰霊祭の名簿」「大和探索での費用明細」「鬼籍に入られた元乗員の名簿」「遺族からの証言、書簡」などなど、貴重なものがございます。
これを整理しながら、今後に繋げて行きたいと考えました。
史料自体の点数は少ないのですが、それを読み込み、整理する必要があろうかと考え、今週は、本篇の記事をお休みいたします。
また、予告編ともなりますが、次回、「矢矧」を語る予定でおります。
しかし、これもつい最近出版されました書の中に、これまで明らかにされることのなかった史実が含まれていることに気づきました。これも同時平行して読み込み整理しようと考えました。主人公の方は矢矧の元乗員でしたが、洋上慰霊祭に参加されておられます。
重ね重ね、本日の本篇記事掲載(酔漢流では「本日の語り」ではございますが)は見合わせることといたしました。
勝手ではございますが、ご了承の程、宜しくお願いいたします。
連日の猛暑。ご自愛の程を。
首都圏に住んでいる者にとっては、ぞっとする混雑です。
「おねーさんを乗せて車で向かう」ことはまったく眼中にない「鉄道ファン」人生です。
速度の出ない江ノ電であっても、渋滞の車列をスイスイ追い越していきます。
お父上の残された資料が、そのまま酔漢さんの宝物になりうるところが、うらやましいです。
でもよくよく考えてみれば、私と息子たちの関係は半ばそのようになりつつあります。
鉄道資料や鉄道模型。ほとんど侵食されてしまいました。
・・・親子3人で共通の趣味ってのも、なかなか味がありますよね。
いわば伊藤長官の秘書といった役どころです。
吉田満さんの『戦艦大和の最期』によれば、
伊藤長官の後を追おうとして森下参謀長にとめられたことになっていますね。
確かに貴重な資料です。
関心のない人には「何、これ?」というものでも(資料とは大抵そうしたものですが)、
いわば大切な歴史の証人なのですから。
公開するとなれば他の遺族の方々の了解をえなくてはないでしょうが、
パソコンに取込むなどの方法で、
散逸せぬようしっかりと保存して下さい。
グアムからの横井さん、サイパンからの小野田さん・・・・・ 恥ずかしながら・・・・ と帰って来ましたが軍人としての彼らは人間としての強さも感じました。
近代化した日本はすっかり戦争のことを忘れてしまっていたかのようです。
しかし、彼らを探したのはやはり戦友や元軍人達だったのです。
その時の行動は、やはりそこに居たものでなければ分からないのです。
どれほど辛かったのか私の想像を上回る事でしょう。
久し振りにYouTubeで見たのでした。
これから、日常の記事はこちらのアドレスになります。
宜しくお願いします。
父の書棚を整理しました。入院中に(まだはっきり話せる時に)「何か出てきたら全部意味が解るのはお前だけなんだろうから」
この父の言葉の重みを感じました。同時に「わかるのが・・・」自分を信用してくれた父に感謝です。
出てきた手紙一枚の重みを感じました。
大和会一人ひとりへ手紙を出し(印刷文もございますが)詳細な情報を細かく伝えようとされておいででした。
「生還した自分の役目」とのことでしょう。
その重みをひしと感じました。
そうなんです。ひー様のおっしゃることは父も話しておりました。
「なぜあの人が還って来て、自分の父親が還ってこられなかったのか」
徳之島の慰霊祭に出る前の父の本音です。(自身で話しておりました)ですが、当日、何から何まで一生懸命働いていたのが、ご生還された方達だったそうです。この姿を見て「それまでのわだかまりがなくなった」と父が申しておりました。
その通りだと思います。
靖国で酔漢の頭を撫でてくれた「清水さん」(元副砲長)手を引いてくれた「三笠逸男さん」(元副砲員)本当に遺族となっている私たちに気を使っていたのを覚えております。
新しいブログ拝見しました。
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