ひー様のブログ「ひーさんの散歩道「仙台港/自衛隊装備・設備編」」に陸上自衛隊の炊飯車が写っております。この炊飯設備。200食のごはんを45分で炊き上げることのできます「すぐれもの!」です。
例えば、大規模災害時にも活躍し、栗原市には出動したと。多くの人を救ったのです。
ふと、「大和の厨房はどうだったのか」と思い出した酔漢です。
わずかではありますが(引用書物、失念。)手元にございますのでここでご紹介いたしたいと思います。
写真です。大和烹炊室です。写真は、右舷の烹炊所内です。左舷側には士官用の烹炊所があります。これは全く別区画ではなくて、同一区画にございました。さすがに、「士官専用の冷蔵庫」というわけにはいかないのでした。が、士官用のおかかえコックがおりまして、「フランス料理を昼食に用意した」というのは本当のことです。(しかも、昼食時には楽隊付でした)連合艦隊司令長官や政府首脳、皇族などを迎える準備ができていたのでした。
海軍の場合カロリーの目安もございました。これは規定によるものです。通常勤務の場合、兵員一日あたりの必要カロリーを2500~2600キロカロリーとしております。ごはんの場合、一人当たり一日六号として、それに副食(肉、魚、野菜)などは別個にその量を定めていたと聞きました。
「男たちの大和」作者「辺見じゅん」氏のエッセイには、ある日の献立が記載されております。朝食として、たまねぎと白菜の味噌汁。昆布の佃煮。大根新漬。昼食として、ぶり照り焼き、うずら豆の煮豆、ぶりを使ったすまし汁、大根の新漬。夕飯は、ハムサラダ(これには驚きました)→ハム、ジャガイモ、マッシュポテト状にしたものをベース。にんじん、玉ねぎ、グリーンピース。みかんの缶詰→りんご(果物として)キャベツの浅漬。
以上です。
酔漢、「国立少年自然の家」におりましたが、その献立に近いものを感じます。現在でも十分に通じる献立だと思います。
兵員の食器はホーロー製(一部アルマイトであったとか。「昔の給食をおもいだすなぁ」です。
「おい、今日の献立は『天ぷら』だ!」
「総員カカレ!」
烹炊所監督は「掌衣糧長」です。そして直接、烹炊員長が指導、指揮しております。
(映画「男たちの大和」では「第二十二分隊、主計科烹炊班、二等兵曹、森脇庄八」を俳優の「反町隆史」さんが演じておられます。劇中「班長」と呼ばれておりましたが、「班長」と呼ばれてはいなかったと考えます)
約2000名分(昭和16~17年頃の様子です)の天ぷら。ひたすら揚げ続けることが任務となるのでした。
平常時でこそあれ烹炊所は毎日が戦闘状態だったとも言えるわけです。
烹炊員は10名で一班を構成して4班あったとされております。各班ごとにその献立によって役割が分担されます。例えば、ある班は倉庫から食糧を厨房へ運搬し、洗浄。
「コメイレ!」
「ムギ、イレ!」
下士官の号令一つで動きます。整然としたチームプレーが要求されるわけです。
大和図面を見ますと、糧食倉庫は40箇所に及びます。当然調味料と米などは別です。上甲板、中甲板、最下甲板にそれぞれ設置されております。運搬には昇降機(と記載されてますが、小さなリフトのようなものであったと推察いたします)を使います。冷蔵庫は一か所ですが、やはり、当時世界一の規模。どれだけの量があったか、数値を把握しておりませんが、長門の2.5倍とある書には記載されております。
次の班は、食糧庫の整理と食糧の管理。別の班は洗浄や副食の据え付け。そして各班ごとに配膳の手続き。最後の班は後片付けと。それぞれがその役目を果たしております。
写真が小さくて申し訳ございませんが、側面よりみた烹炊器です。実は、これ電気です。優れものです。(厨房機器はそのほとんどが電気稼働です。)これは万能型で大小合わせて5基搭載されております。
「電気万能烹炊器」と呼ばれておりました。炊飯、煮物、揚げ物、焼き魚までこれ一台で賄えます。ひー様の写真。「野外炊器1号」の元祖とも言える機械ではないかと思います。
ですが、電気釜は別途にありまして、「6斗炊電気釜」が6台設置されております。普段はこれを使って炊き上げます。これが6台あって、フル稼働です。
「男たちの大和」ではその厨房のシーンが多く写りますが、野菜や肉は「手切り」はほとんどなく。(士官用厨房は別ですが)海軍独自の機械「合成調理器」がその役目を果たします。(ひー様のブログ、丹治さんのコメントに記載されていたものです。)これが2台。今でいう「フードプロセッサー」です。
「みて。みて。みてぇぇ。これ一台で千切、みじん切、お肉のミンチがかんたぁぁんにできちゃうんだよ」とテレビショッピングよろしい機械です。しかも全自動です。
米を洗浄するのも機械でして、それが2基。作り置きが冷めるのを防止する「蒸気保温棚」が1基。食中毒予防の為に「大型食器消毒器」は3台設置です。
こと食事に関するかぎり、海軍は相当な設備投資をいたしております。陸軍兵を輸送した際「海軍さんは毎日こんな食事をしていたのか」と驚くのも無理はなかったかと。
一般の国民は食糧配給制で、その量が「一日2合1勺」ですから、それと比較してもその恵まれた食事は解ります。
酔漢祖父は二次士官です。食事はその「二次士官室」で取っておったかと推察します。
士官室と一次烹炊所が一緒で、二次室は准士官室烹炊所と一緒でした。祖父は兵とは違った食事にありつけたのでした。(本当のところ海軍を志した理由の一つとも考えております)
食事は自分では取りに行きません。時間になると従兵が士官室の食器棚にそれぞれの食事を運び入れてテーブルクロスは純白。全員が揃ったところで食事となります。上座にはケブガンが座ります。臼淵巌大尉はさしずめその席だったわけです。
洋食のときは、ナイフとフォークが用意されたのでした。
「くだまき」では大和が空襲を受けている最中です。その四月七日の昼食が「握り飯2個」と語りました。その握り飯は伊藤司令長官はじめ全員が同じものを食しております。約6000個の握り飯。(一人2個の配給)必死で作った「烹炊員達」の奮闘は、想像に難くありません。
副長から下令されます。
「夜食ニハ『しるこ』ヲ用意セヨ」
最初の攻撃開始時。しるこををつくることに奮戦していたのでした。
生還者の名簿を紐解きます。
烹炊に携わった方々の数が少ないことに気付くのでした。
「盛ンナル調理報国ノ精神」の旗印。そして「親切丁寧ナル」をモットーにしていた「大和烹炊班」なのでした。
例えば、大規模災害時にも活躍し、栗原市には出動したと。多くの人を救ったのです。
ふと、「大和の厨房はどうだったのか」と思い出した酔漢です。
わずかではありますが(引用書物、失念。)手元にございますのでここでご紹介いたしたいと思います。
写真です。大和烹炊室です。写真は、右舷の烹炊所内です。左舷側には士官用の烹炊所があります。これは全く別区画ではなくて、同一区画にございました。さすがに、「士官専用の冷蔵庫」というわけにはいかないのでした。が、士官用のおかかえコックがおりまして、「フランス料理を昼食に用意した」というのは本当のことです。(しかも、昼食時には楽隊付でした)連合艦隊司令長官や政府首脳、皇族などを迎える準備ができていたのでした。
海軍の場合カロリーの目安もございました。これは規定によるものです。通常勤務の場合、兵員一日あたりの必要カロリーを2500~2600キロカロリーとしております。ごはんの場合、一人当たり一日六号として、それに副食(肉、魚、野菜)などは別個にその量を定めていたと聞きました。
「男たちの大和」作者「辺見じゅん」氏のエッセイには、ある日の献立が記載されております。朝食として、たまねぎと白菜の味噌汁。昆布の佃煮。大根新漬。昼食として、ぶり照り焼き、うずら豆の煮豆、ぶりを使ったすまし汁、大根の新漬。夕飯は、ハムサラダ(これには驚きました)→ハム、ジャガイモ、マッシュポテト状にしたものをベース。にんじん、玉ねぎ、グリーンピース。みかんの缶詰→りんご(果物として)キャベツの浅漬。
以上です。
酔漢、「国立少年自然の家」におりましたが、その献立に近いものを感じます。現在でも十分に通じる献立だと思います。
兵員の食器はホーロー製(一部アルマイトであったとか。「昔の給食をおもいだすなぁ」です。
「おい、今日の献立は『天ぷら』だ!」
「総員カカレ!」
烹炊所監督は「掌衣糧長」です。そして直接、烹炊員長が指導、指揮しております。
(映画「男たちの大和」では「第二十二分隊、主計科烹炊班、二等兵曹、森脇庄八」を俳優の「反町隆史」さんが演じておられます。劇中「班長」と呼ばれておりましたが、「班長」と呼ばれてはいなかったと考えます)
約2000名分(昭和16~17年頃の様子です)の天ぷら。ひたすら揚げ続けることが任務となるのでした。
平常時でこそあれ烹炊所は毎日が戦闘状態だったとも言えるわけです。
烹炊員は10名で一班を構成して4班あったとされております。各班ごとにその献立によって役割が分担されます。例えば、ある班は倉庫から食糧を厨房へ運搬し、洗浄。
「コメイレ!」
「ムギ、イレ!」
下士官の号令一つで動きます。整然としたチームプレーが要求されるわけです。
大和図面を見ますと、糧食倉庫は40箇所に及びます。当然調味料と米などは別です。上甲板、中甲板、最下甲板にそれぞれ設置されております。運搬には昇降機(と記載されてますが、小さなリフトのようなものであったと推察いたします)を使います。冷蔵庫は一か所ですが、やはり、当時世界一の規模。どれだけの量があったか、数値を把握しておりませんが、長門の2.5倍とある書には記載されております。
次の班は、食糧庫の整理と食糧の管理。別の班は洗浄や副食の据え付け。そして各班ごとに配膳の手続き。最後の班は後片付けと。それぞれがその役目を果たしております。
写真が小さくて申し訳ございませんが、側面よりみた烹炊器です。実は、これ電気です。優れものです。(厨房機器はそのほとんどが電気稼働です。)これは万能型で大小合わせて5基搭載されております。
「電気万能烹炊器」と呼ばれておりました。炊飯、煮物、揚げ物、焼き魚までこれ一台で賄えます。ひー様の写真。「野外炊器1号」の元祖とも言える機械ではないかと思います。
ですが、電気釜は別途にありまして、「6斗炊電気釜」が6台設置されております。普段はこれを使って炊き上げます。これが6台あって、フル稼働です。
「男たちの大和」ではその厨房のシーンが多く写りますが、野菜や肉は「手切り」はほとんどなく。(士官用厨房は別ですが)海軍独自の機械「合成調理器」がその役目を果たします。(ひー様のブログ、丹治さんのコメントに記載されていたものです。)これが2台。今でいう「フードプロセッサー」です。
「みて。みて。みてぇぇ。これ一台で千切、みじん切、お肉のミンチがかんたぁぁんにできちゃうんだよ」とテレビショッピングよろしい機械です。しかも全自動です。
米を洗浄するのも機械でして、それが2基。作り置きが冷めるのを防止する「蒸気保温棚」が1基。食中毒予防の為に「大型食器消毒器」は3台設置です。
こと食事に関するかぎり、海軍は相当な設備投資をいたしております。陸軍兵を輸送した際「海軍さんは毎日こんな食事をしていたのか」と驚くのも無理はなかったかと。
一般の国民は食糧配給制で、その量が「一日2合1勺」ですから、それと比較してもその恵まれた食事は解ります。
酔漢祖父は二次士官です。食事はその「二次士官室」で取っておったかと推察します。
士官室と一次烹炊所が一緒で、二次室は准士官室烹炊所と一緒でした。祖父は兵とは違った食事にありつけたのでした。(本当のところ海軍を志した理由の一つとも考えております)
食事は自分では取りに行きません。時間になると従兵が士官室の食器棚にそれぞれの食事を運び入れてテーブルクロスは純白。全員が揃ったところで食事となります。上座にはケブガンが座ります。臼淵巌大尉はさしずめその席だったわけです。
洋食のときは、ナイフとフォークが用意されたのでした。
「くだまき」では大和が空襲を受けている最中です。その四月七日の昼食が「握り飯2個」と語りました。その握り飯は伊藤司令長官はじめ全員が同じものを食しております。約6000個の握り飯。(一人2個の配給)必死で作った「烹炊員達」の奮闘は、想像に難くありません。
副長から下令されます。
「夜食ニハ『しるこ』ヲ用意セヨ」
最初の攻撃開始時。しるこををつくることに奮戦していたのでした。
生還者の名簿を紐解きます。
烹炊に携わった方々の数が少ないことに気付くのでした。
「盛ンナル調理報国ノ精神」の旗印。そして「親切丁寧ナル」をモットーにしていた「大和烹炊班」なのでした。
騎士貴族階級が将校となり、農民農奴が兵士となる欧州式の軍隊組織。でも日本では欧州ほど「階級」が軍隊組織にリンクしていなかったのではないでしょうか。
百姓の息子でも将校になれる日本では、軍隊組織を維持するためには、食事から始まって「階級差」を無理矢理に演出していたように思えます。
現在の自衛隊では「階級差」よりも「学力差」がモノを言う組織です。
防衛大学卒は官僚組織での「キャリア組」でしょうか。その下は最終学歴がそのまま続きます。
高等小学校卒の父親は、いわばたたき上げの下士官としてそれなりの役割を全うしましたが、尉官にはなれずじまいでした。
退官時の特進で「准尉」にはさせてもらいましたが。
そろそろ塩竃へ帰られる時期でしょうね。
港祭りや七夕が過ぎた頃、曇り空が押し寄せ、肌寒い風が吹き始める、そんな夏を覚えています。
手持ち無沙汰の中学生の私は、塩竃のあちこちをフラフラ歩き回っておりました。
よく空を眺めていたものです。
士官食は確かにある意味で兵食よりも豪勢でしたが、
兵食が官給品であるのに対し
士官は給与の中に食費が計上され、食費で食事を購入していました。
海軍の艦艇はカッター一隻といえども軍艦旗を掲げて外国の湊に入れば国土の延長。
平時の海軍士官は制服を着た外交官でもありました。
これは海上自衛隊の幹部も同じことです。
となれば当然、洋食のテーブルマナーにも通じてなくてはなりませんし、
自分の艦(「フネ」と読んで下さい)に相手国の士官を招いて
パーティーもしなくてはなりません。
下士官兵を勤め上げて兵曹長になる人が受ける准士官講習で一番つらかったのが、
実は洋食の食事作法だったということです。
大型艦には士官烹炊所があり和洋の食事に精通した民間人の調理人が乗組んでいたのも
ある意味では当然のことでした。
海軍では傭人(ようにん)と読んでおりましたが。
士官の食事は基本的に朝と晩が和食。
昼が洋食のフルコースで、夜食もありました。
ですから海軍士官は艦隊勤務に就くと、
栄養満点の食事と運動不足で肥満する傾向にあったそうです。
また士官食ほどではないにせよ、
海軍の兵食はそう悪い物ではなかったということが
阿川弘之さんの『軍艦長門の生涯』にでております。
しかしこれも物資が比較的潤沢だった頃までの話でしょうね。
たとえば坂井三郎さんの『大空のサムライ』など下士官兵出身の方の回想記には、
やはり下士官兵と士官の食事の待遇差の不満が見受けられます。
物資の補給もままならぬ最前線で
部下の下士官兵の気持ちを思いやらぬロクデナシの士官が(そういう手合いが多数だったのかもしれません)、
下士官兵の神経を逆撫でしていたのもまた事実だったでしょう。
食事は人間が生きていくために不可欠な物ですから、
下士官兵の間に不満が瀰漫するのも当然です。
特に兵食の御飯が麦飯だったのに士官食は銀飯だったことの不満が多いようです。
これは海軍の脚気対策として致し方なき面もありました。
脚気が栄養障害と突き止めたのは
イギリスに留学した明治の軍医高木兼寛です。
ビタミン(Bだったでしょうか)の不足までは分らなかったそうですが、
パンを食べさせたら脚気患者が治ったのを見て、
「麦を食わせれば脚気にかからぬ」と分ったのです。
士官は昼に否応なくパンを食べます(洋食のフルコースですからね)。
海兵、海機、海経の生徒たちの朝食は
食パン半斤と味噌汁でした。
珍妙な取合せですが、
パンに慣れさせるための訓練だったということもあるでしょう。
また軍医や技術士官など民間学校から海軍入りしたしかんも、
大学出か当時の高専を出ています。
当時の高等教育を受けるぐらい経済的に余裕のある家の出身なら、
どこかでパンや洋食を口にする機会もあったでしょう。
しかし戦前の一般家庭の出身者で
洋食やパンに違和感のない人がどれだけいたことでしょうか。
実際、高木軍医がパンを食べさせようとしたところ、
「菓子を食っても腹いっぱいにはならん」
と言った兵隊が多かったのです。
だとすれば兵隊に麦を食べさせるには
麦飯にするしか方法がなかったのではありませんか。
また兵隊にしても麦飯の方がパンよりは抵抗がなかったと思います。
麦飯を導入した日清戦争以前の遠洋航海では、
脚気患者はでませんでした。
「脚気患者ナシ」と報告しましたが、皆無ではありませんでした。
いないはずの脚気患者は全員が主計兵。
ギンバエをして銀飯ばかり食べていたのが原因だったそうです。
ちなみに高木兼寛のことは吉村昭さんが(だったと思います)
小説『白い航跡』(講談社文庫)に書いています。
私自身、是非とも読みたい本です。
高木兼寛は慈恵医大の創立者。
同大学はドイツ医学一辺倒だった当時の医学界で異色の存在でした。
なお現在の海上自衛隊では、
科員は大食堂でランチプレートでテイクアウト方式、
先任海曹と幹部は別々の食器に盛られたものを係の士の給仕でたべるという違いはありますが、
食事の内容に差はありません。
海軍でも駆逐艦や潜水艦などの小型艦艇では
艦内スペースの関係で士官烹炊所を作れません。
従って上は艦長から下は一水兵に至るまで
同じ物を食べていました。
このような小型艦艇ほど「一艦一家」の気風が強かったそうですが、
あんがいこのような所に理由があったのかもしれません。
海軍の艦隊旗艦には軍楽隊が乗っていましたが、
外国の要人を招いてのレセプションに音楽は不可欠です。
酔漢さんのおかげで、艦隊旗艦に軍楽隊が乗っている理由がはっきりしました。
アメリカでは戦隊旗艦ごとに軍楽隊を乗せていたとか。
軍楽隊を乗せているとなれば、
艦隊旗艦の軍艦旗掲揚も
喇叭符の『君が代』ではなくて
歌としての『君が代』の旋律になります。
あの喇叭『君が代』ですが、海軍さんの耳には
「シューシューシューケーチョー
イートコトッタラクートコネー」
と聞えたそうです。
因みに食事喇叭は
「メーシハムーギメシオーカズハヤサイ
タマニハマゼメシラーイスカレエー」
だったとか。
海軍の烹炊所であうが、
夜食の後かたづけが終ると朝食の準備にかかります。
朝食の場合、下ごしらえは前夜のうちにやっておくのだったそうですね。
出汁は釜に水をはって煮干を入れる水出汁。
味噌もあらかじめ水に溶いておき、
野菜もきちんと刻んでおきました。
大人数の食事を決められた時間内に用意するためには、
実に合理的なやり方だったと思います。
何交替かで当直を回していたとはいえ、
科としては日がな一日メシ炊きだったわけです。
陸軍のように
炊事軍曹のもとに各中隊(小隊?)から交替で人数を提供するという形では立ち行きません。
調理専門の術科が必要とされたのも当然です。
陸軍は陸軍で、
ここで書いたような形式を取る必然性があったのですが・・・
高橋孟さんの『海軍めしたき物語』と『海軍めしたき総決算』(新潮文庫)は
面白く読めました。
今は絶版ですが、古書で入手可能だと思います。