酔漢のくだまき

半落語的エッセイ未満。
難しい事は抜き。
単に「くだまき」なのでございます。

祖父・海軍そして大和 遺族として、家族として 辞令

2012-08-13 11:24:14 | 大和を語る
アジ歴で公開 (おせっかい焼き) 2012-08-08 15:30:02 酔漢様お久しぶりです。

アジ歴の今年度公開予定となっていた防衛研究所所蔵海軍史料の「達、内令、内令員、内令兵、海軍(二復)公報、鎮(守府)例規、公報(鎮・部・廠)」が、8月3日公開されました。
この中の「横須賀鎮守府公報」と「同辞令公報」により、御祖父様の軍歴が明らかになります。ただし兵曹長以上しか載っていませんが。
18年12月まで辞令は公報に掲載されていましたが、19年1月から辞令だけを載せた辞令公報が別に発行されるようになりました。ただしこれは横須賀鎮守府だけです。

補職日のはっきりしている19年11月20日の辞令をちょっと見てみました。確かに鈴木藤二郎少尉、三嶋正造少尉の東京海軍通信隊附から第二艦隊司令部附への補職辞令が出ていました。


上記、「おせっかい焼き」様よりコメントを頂戴いたしました。
祖父辞令が、この八月三日に公開になったというものでした。
戦後初の公開です。
冒頭写真がその中身でございます。

昭和19年10月レイテ沖海戦で連合艦隊は大きな打撃を受けます。大和型僚艦武蔵を失います。
大和は呉へ係留中となっておりました。
帰港したばかりの大和へ第二艦隊が移乗します。
昭和19年11月20日はまさにそのタイミングでの辞令と言えます。
伊藤整一司令長官への辞令は昭和19年12月23日です。
先に、森下信衛前大和艦長が、第二艦隊司令部参謀長として着任するのが、祖父辞令の三日後、11月23日。
新しい布陣でもって第二艦隊が組織編制されます。

祖父は「東京通信隊付」ということも実はこの「おせっかい焼き」様のコメントで持って知った次第でした。
父は「海軍省へ通っていた」ということだけしか話しておりませんでした。
一度、海軍省での写真を「くだまき」で掲載した経緯がございます。

再度掲載いたしますが、「赤レンガ」の建物が後に見えます。
「おせっかい焼き」様のコメントを拝読いたしますと、兵曹長以上の辞令が公開されたという事ですので、「東京通信隊」への辞令も探す必要がございます。
これは時間を見つけて取りかかろうと考えております。

祖父と一緒に辞令の発令されました「鈴木藤二郎少尉」(当時)
祖父と同様、命日が四月七日でございます。
福島県のご出身です。
これも以前語ったところではございますが、高橋仁子中尉(岩手県)、山形安吉少佐(宮城県)。第二艦隊通信に東北出身者が多いのです。

この場ではございますが、重ねて、「おせっかい焼き」様へは、感謝申し上げます。
祖父の足取りについて一番知りたかった父はすでに鬼籍に入っておりますが、この公開されたばかりの史料は、一番気になっていた事と思います。
仕事が全て秘匿とせざるを得ない部署にいたわけですから、家族が知る由もなかったわけです。
「もう少し早く公開されておれば」。
公開できなかった事情もあったのだと拝察いたしますが。少しばかり残念にも思います。

祖父の足取りを少しばかりたどる事が出来ました。
盆の時期ですが、帰省が出来ません。
母から墓参りの電話がありました。

残暑お見舞い申し上げます。

追記
この辞令がWeb上に公開されました(上記に記載いたしたところです)。個人情報に関わるとも思いましたが、掲載いたしました。
祖父の名前も御高覧頂ければ解るかと思います。
「くだまき」は、くだまきではございますが、記録を整理するという趣旨もございます。
ご理解の程、お願い申し上げます。
酔漢拝

再追記 8月13日18時40分。
上記、昭和19年11月20日現在の大和の位置ですが、正確には呉海軍工廠、乾ドックにて、修理並びに、対空兵装、偽装中です。
11月23日に新組織編制。森下大和艦長が第二艦隊参謀長として栄転発令。
祖父が大和へ乗艦した日時は23日と推察いたしました。
上記にありますように、軍令部次長であった伊藤整一中将(10月15日付)が第二艦隊司令長官発令が12月23日。
時系列で整理いたしますとこのようになります。
「呉係留中」では表現が違うので、このように補足させて頂きます。
実際には、「呉ドック入梁中」とするのが正しいかと考えました。
酔漢拝


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