〈私〉はどこにいるか?

私たちは宇宙にいる――それこそがほんとうの「リアル」のはずである。この世界には意味も秩序も希望もあるのだ。

書評『徳川時代の宗教』(R・N・ベラー) 9

2018-05-19 | 書評『徳川時代の宗教』(R・N・ベラー)
 本書の目的と叙述の枠組みについて

 本書は一般に「欧米人のすぐれた日本論」(岩波文庫版表紙の短評)、「日本の近代化をめぐる歴史社会学的な学際的研究」(訳者解説)の一つと目されているようだが、一読すれば明らかにように、著者の関心は特定日本よりも、むしろ人類一般の近代化というより広く普遍的な目的にこそあると見るのが適切である。そのように本書の研究の前提には「社会・経済の近代合理化をもたらすこととなる、人間集団の伝統の内面的な条件は何か」という明確な問題意識があり、この目的のためにマックス・ヴェーバーに始まるという宗教社会学による中心価値体系の比較研究の、一つの試みとして徳川時代が選択されているのである。
 特にその基本的な枠組みとして、ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(英訳表題The Protestant Ethic and the Spirit of Capitalism)があることが明示されている。その有名な古典的研究は、「近代資本主義の精神のみではなく近代文化の本質的構成要素の一つである『職業倫理を土台とした合理的生活態度』は、キリスト教的禁欲の精神から生まれ出た」ことを明らかにしたものであるとされる。そしてその核心は「神の道具となって、現世を合理的な秩序へと改造して神の栄光を増し加える、職業労働への邁進を推奨され…世俗にいながらにして、規律に厳格な修道士のように、一心に仕事に励まねばならない」といった人々への宗教的動機づけが、近代人の生活態度を形成した重要な要因であることを解明し、それを「世俗内禁欲主義」の成立と捉えたことにあった(前出『社会学事典』)。
 本書はこのヴェーバーの思想の一つの発展・展開として、非西欧世界の近代化の内面的基礎となりうる、プロテスタンティズムとは別のタイプの中心価値体系を捉えるに当たり、十九世紀末の段階で非西欧世界でほぼ唯一近代化に成功した日本を研究対象として設定している。そしてその分析は、プロテスタント・キリスト教の社会の人々と同じように、勤勉に働き倹約に努め、経済社会の合理化に邁進し、早期のうちに近代国家の成功を達成した日本人の、その内面に作動していた主導的価値は何であったのか、つまり徳川時代の人々の中に生きていた倫理意識さらには民族的なエートスとは何であったのかを探究する試みとなっている。


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