〈私〉はどこにいるか?

私たちは宇宙にいる――それこそがほんとうの「リアル」のはずである。この世界には意味も秩序も希望もあるのだ。

書評『徳川時代の宗教』(R・N・ベラー) 11

2018-07-11 | 書評『徳川時代の宗教』(R・N・ベラー)
(承前)
 このように、本書の分析で第一に重要とされている「政治価値」という用語は、一般に使われている政治という言葉よりも広く抽象化された概念として、「集合体の目的が最優先され、権力関係が支配的であり、そこでは政治的上位者への忠誠が最重要の価値とされる」といった、ある社会の中心価値の方向性を意味している。
 したがって、ここで言われている「政治価値」とそこに埋め込まれた「忠誠」を、世上ありがちな反権力的な視点から、抑圧的な身分制度や、封建的な支配―服従の原理にすぎない(つまり前近代的で価値的に劣っている)ものと単純に理解してはならないだろう。
 もちろんそれは日本固有のものではなく、どの社会システムにおいても、「経済価値」等の下位体系の一つとして当然に存在するものであり(本書第一章註の第1図「四つの次元」参照。こうした外面/内面のカテゴリーの混乱が見受けられる本書の基本的枠組みには、新たな四象限からする再整理が必要だと感じられる)、ただ日本では政治価値が他の諸価値を圧倒し、支配的な影響を及ぼすものであったとしているのである。著者はこの日本の支配的な政治価値に次のような近代化を促進する機能を見出し、これを積極的に評価している。

 西欧の経済、政治、家族その他の近代的発展に際立って貢献したプロテスタントのキリスト教の倫理的普遍主義と適合する『機能的等価物』として、日本の政治価値すなわち「特殊な集団――天皇、国家、家族など――やこの指導者に対し忠誠を尽くす傾向は、実際倫理的普遍主義に相当する代替物でありうる。(一七頁)

 後述のように本書で日本歴史の始まりから一貫しているとされる中心価値体系とは、所属集団への忠誠心、そして大いなるものへの滅私的な一体化という二つの焦点に収斂されるものだが、それらは、徳川時代の幕藩体制における強固な政治システムの中で、政治価値によって方向づけられことで、次のようにいわば集団主義的=政治的経路を通じて経済を合理化する強力な力を持ったとされる。
 以下、とくに言い換えずに本書の叙述どおり「日本人の中心価値」等と表現するが、それらの価値がもはや私たちの中に価値として生きていない以上、「旧き日本人にとって中心価値だったもの」と過去形で表現するのがより正確だと思われる。

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