〈私〉はどこにいるか?

私たちは宇宙にいる――それこそがほんとうの「リアル」のはずである。この世界には意味も秩序も希望もあるのだ。

コスモロジー・セラピーについて⑤~すべては自己組織化する宇宙の現れだ

2020-10-29 | 二つの心理療法について
 一人息子が先月3歳を迎え、とりあえず元気に育ってくれていることは大変うれしい。
 言葉の発達とともに自我がしっかり育ってきて、なかなかいうことを聞いてくれないことが増えてきたが、まだいわゆる「三つ憎」という感じはなく、稚い子というのは単純にかわいいものだと実感している。

 男の子らしくトミカやら消防車やらが大好きで、保育園で見かける女の子たちと男の子たちは、この年から明らかに遊びへの姿勢が異なっている。昨今ジェンダーとかで評判が悪いが、そんな知的流行の空気に関わらず、このレベルの性差というのは自然なものなのだとしか言いようがない。
 特に、言葉がはっきり出るようになったちょうど2歳のころからずっと感じさせられるのは、当たり前のようだが心理的な発達というのは言葉とともにあるという単純な事実である。

 以前に少し書いた「怒りは原初の自然な感情か」の問いは、「明らかに違う」というのがその経験的な答えである。多くの先輩の親御さんたちにはいうまでもないことだったのだろうが。
 「笑い」「悲しさ」のような新生児の時期からの文字通りの原初の感情に対し、他者を否定するような「怒り」というのは、3歳になってもいまだに見られない。仏教で怒りを「三毒」の一つに数えているのは正確な内的洞察で、そうした怒りとは言葉の発達のマイナス面として起こる、人間にとって付随的で非本来的な感情なのだと思う。

 どうか、子どもが人生を生きるうえで、「まっとうな言葉」を内面化して成長してほしいものだと強く思う。
 世の中、その意味であまりに言葉が軽んじられすぎている。いま私たちが目にしているあらゆる社会問題、さらには生態系の問題の根底にはその問題がある。

 冒頭の「すべては自己組織化する宇宙の現れだ」というのは、ご紹介している岡野先生のコスモロジー・セラピーの一つの決まり文句だ。というよりも、セラピーのためのアファーメーションの言葉(確言)といった方が正確だろう。
 全ては宇宙、しかも自己組織化する宇宙というのは、要するに「進化する宇宙」ということだ。詳細は岡野先生のブログをご参照いただきたいが、現代科学の標準学説をつなげてマクロに解釈すれば、宇宙には一定の方向性があり、それは自己複雑化・自己組織化、すなわち進化の歴史である。

 こう言葉で言い表すと、言葉の分別作用=「言葉の力」によって、あたかも自分の外にそうした宇宙があるかのように感じられてしまうが、コスモロジー・セラピーの一つのポイントは、「そう見る自分も実はその一部である」という主客融合的解釈にある。
 進化の歴史、宇宙138億年・生命40億年の歴史には、いわゆるエントロピー増大の法則、つまり静寂=死に向かう「滅びの方向性」とは真逆の、より豊かなものを生み出そうとする明らかな生成の方向性、より実感的に言えば「宇宙の大きな物語・ビッグストーリー」がある。

 その無限のようにすら感じられる膨大な積み重ねの、知られる限り最も複雑な=豊かな最先端にあるのが、私たち人間という種であり、子どもはいわばその進化の歴史を大急ぎで駆け上っている存在なのだろう。私自身も「人生は宇宙として生きるためにある」という言葉が、片端なりとも実感される年齢となった。
 個人としても集合としても、人間のダメさ加減を見れば、実際絶望の種にはきりがない。しかしこの視点からすれば同時に、人間には宇宙的・根源的な可能性があるのだとしか言いようがない。

 「すべては自己組織化する宇宙の現れだ」と思って=唱えてみよう。
 そう唱えること自体を「言葉はキレイだけど、いくら繰り返しても心にとって言葉は結局無力」と捉えるのは、もちろん常識的には正しい。
 しかしまさにそう捉える常識が「言葉の無力さ」を生み出しているという隠された心の第二条理を、別に紹介している河野良和氏は明らかにしている。
 河野氏流に「この言葉は強力な自己暗示=第二条理の呪文なのだ」とテクニックとして「ただ思う」。するとその思いのとおり元気が湧いてくる。単純ではあるが、それこそが「言葉の力」なのだと思う。
 何より、そうした「言葉の力」こそ、子どもに身につけさせてあげたい。それこそが「生きる力」となるのだから。

(以上、あまりまとまりない記事なので、コスモロジー・セラピーについてはともかく岡野先生のブログの多くの記事を参照していただきたい。最近、般若経典に関する長大な連載が始まっているので、そちらも折に触れ紹介していければと思う)

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