〈私〉はどこにいるか?

私たちは宇宙にいる――それこそがほんとうの「リアル」のはずである。この世界には意味も秩序も希望もあるのだ。

コスモロジーセラピーについて④ 絶望と希望の種

2020-08-14 | 二つの心理療法について
多忙で更新が滞ったが、可能な時に書いていきたいと思う。

それにしても毎日が熱い。「暑い」のではなく、もはや「熱い」というレベルだ。
「災害級の猛暑」などということがわずか数年前にでもあっただろうか。
記憶にあるだけでも、太陽光の感じが以前とは異なっていて、早朝からジリジリと肌に痛いほどだ。これはいったいなぜなのか?

そして毎年ひどくなっている水害の頻発は、変動した気候が恒常化していることを示している。
しかも台風の発生する位置が以前とは違っていて、巨大化した台風は今年も私たちを襲うことだろう。
水害はおそらく毎年のように、しかも年々ひどくなる形で起こる毎度のイベントとなるに違いない。

こうしたことは、私の知る限りでも今世紀初めから、「地球温暖化」と呼ばれる地球規模の気候変動として予測されていたことのはずだが、人類はそれに対し全く有効に対処できていないどころか、明らかに悪化が前倒ししている。

かつて「先進工業国」と呼ばれた国での私たちの日常的生活活動、そのベースとなっている産業活動が社会システム全体として地球環境を破壊してきたわけだが、それがいまや全地球化し急加速している。
この状況に最も影響を持つとされる米国と中国の行き方を見れば、事態が改善するはずもない。国際政治は冷戦終結後むしろ巨視的に見れば後退というかレベルダウンを来している。

かてて加えて、新型コロナウィルスの第2波は不気味な「高止まり」を見せており、私たちの経済・社会生活を竦ませている。
私たち人類から見ればおそるべきウィルスだが、視点を変えてガイアの側に立てば、「エコシステムの破壊」という蛮行に対する、具体的な実力行使のように見えてしまう。少なくとも厳しい天譴と受け止めるべきように思われる。


ひまわり8号リアルタイムWeb – NICT https://himawari8.nict.go.jp/ja/himawari8-image.htm より


転ずれば、目を覆いたくなる乳幼児虐待のニュース。筆者は児童福祉に近い領域で仕事をしているが、その経験的実感からして、これは間違いなく氷山の一角にすぎない。
児童虐待をはじめ、こうした凶悪な犯行にもかかわらず加害者が以前とは異なり報道の前でも昂然と頭を上げているのは、何なのか?
あの姿は、彼らがその犯行を心底では恥じても後悔もしていないことを示している。
そこにあるのは要するに善悪の基準の内的喪失だ。実に不気味な兆候である。

数え上げれば、こうして日々絶望の種は尽きない。しかもこれらはすべてつながって一つの方向にある事態の、それぞれの局面なのである。
それにしても、何という世界を私たちは次世代に残そうとしているのか?

こうした言葉がブログのようなフワフワした言語空間で全く流行らないのは百も承知しているつもりだが、逆にこうした現実を前に趣味やら身辺雑記やらをする気にはとてもなれない。
この状況に至った今、厳しい現実の認識抜きにして、もはや何か言葉を語るのも意味がなくむなしい。

例えば戦後75年ということで、あの戦争の「記憶を紡ぐ」というようなきれいなセリフが語られている。
何か過去にひどい自然災害でも起こったかのような紋切り型の語られ方の上に、「軍部が悪い」「上層部が悪い」式の、妙に内向き一面的な語りが気に障るが、それはここでは置いておこう。
いずれにしても、あれは確かに悲惨な戦争だった。

しかし、それこそ国破れても、あの時代にはゆるぎない山河があった。つまり豊かで安定した自然環境があった。そして人の中には確固とした倫理も存在した。
その意味ではまだまだ絶望的状況ではなかったのだ。それを証拠に戦後日本は復員した将兵を中心とした一世代が中核となって驚異の復興・成長を遂げた。
それが「三丁目の夕日」的な牧歌的な精神によるものではないことは、別に紹介しているロバート・ベラーの仕事が明示しているが、そのこともここでは措こう。

ともかく以上のように、今や日々の日常生活の実感として、文字通り「絶望の種は尽きない」状況となっている。
こうした中で、精神的に健康に生きることは、あえてよほど鈍感にならない限り難しい。
精神疾患の蔓延について語ればこれも尽きないが、総じて言って自信喪失=絶望と精神状態の悪化が強度の相関を持つことは、おそらく筆者が言うまでもあるまい。当事者の方々が実感されているとおりである。
そしてその根底には「神も仏もありはしない」というニヒリズムが根深く存在する。

こうして絶望についてあげつらうことは、おそらく学生にだってできることだろう。いや、今後を担う若い人たちだからこそ、絶望はより深いのだろうから、それは失礼な言い方かもしれない。

いま必要なのは絶望を脱し、それどころか光を見出すことができる「希望の種」を語ることだ。
その絶望を癒す希望の種を、私の知る限り唯一、コスモロジー心理学が有効に語っていることを、これまで少し見てきた。

それは「ポエム」でもなければ「きれいごと」でもない。この危機の時代とは、科学、より正確に言えば20世紀以降の現代科学の合意水準・大枠をもとに、リアルに希望を語り、語るだけでなく内面化することができる時代でもあるのだ。

短期的に見れば絶望そのものの人類的状況ではあるが、中長期的に見れば、そして具体的に内面化し行動すれば、絶望することのない、というよりも逆に絶望がアンリアルに見えるような希望の根拠が、このコスモロジー心理学にはある。

まだ世間にほとんど知られていないコスモロジー心理学。ぜひ多くの人に知って・実感してもらいたいと思うゆえんである。
さらに続けていきたい。

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