〈私〉はどこにいるか?

私たちは宇宙にいる――それこそがほんとうの「リアル」のはずである。この世界には意味も秩序も希望もあるのだ。

岡野守也先生のコスモロジーセラピーについて

2020-03-29 | 二つの心理療法について
引き続き、私が人生で多大な影響を受けた岡野先生の心理療法と、河野良和氏による心理療法を交互に取り上げていきたいと思う。

前にも述べたが、いずれもアカデミズムから距離を置いた在野の思想家・心理療法家だということに注意したい。
岡野先生は数年前まで法政大学をはじめ複数の大学で講師をされており、実際に非常に多数の学生が熱心に受講していたのを、すでに社会人になった私ももぐって聴講し見聞きした覚えがある。
しかし基本的に独立・独学の人であると思う。

一般に心の世界においても「〇〇大学教授」などといった人が、何か真理を知っている「専門家」だということになっているのは言うまでもない。
が、大学の心理学・精神医学系の講義を受けた方はご存じのとおり、そうした方々に学問的に心理学・心理療法を学んだからと言って、別に心が元気になるわけではない。

むしろ「自分のこの心理的問題はこれのせいだったのか」と、かえってネガティブなところにはまり込んでしまうことが起こりがちである。個人的な体験で言えば、そうして親や社会に対して的外れな怨恨感情を抱いたりするわけだ(それにしても、そう恨んでいる自分は果たしてどれだけご立派な存在だったというのか?)

大学アカデミズムというのは本質的に保守的なヒエラルキー構造なのだと思う。組織・ヒエラルキーに属している人ならだれしも心当たりがあると思うが、所属集団で語られていることの枠を外れて何かを発言することはきわめて難しい。
凡人・凡夫(頭の良しあしではない)にとって重要なのは自分の名誉・自分の地位・自分の収入…全部「自分・自分」である。そこでは「変にみられること」「素人くさく見えてしまうこと」を語ることなどできはしない。
それができるのは凡人を超えた志のある人か、またはバカかだが、このヒエラルキーにおいてはいっしょくたに後者として排除されてしまう。

いわば「心理に関する真理」などというものは、こういう世界にあっては語ることはできないだろう。心の本質はおそらく「美しく、シンプルなもの」だからである。
したがって、大学のポストにあっては、岡野先生や河野氏が洞察したそうしたことを語る余地はおそらくないのだろうと推測される。
脳みそについてならばともかく、心についての真実を語るのに、地位やポストは何の関係もないのは、思えば当然のことである。むしろそうして守るものゆえに真理から遠のくというところが、内面の世界にはあるのではないかと思う。

さて、岡野先生によるセラピーのシステムはこれまでブログにて、すでにたびたび触れてきたが、このシリーズでは特に「コスモロジー心理学」に焦点を当てていきたい。
「コスモロジー」とは、ミルチャ・エリアーデによる用語とのことである(その点、私は詳しくは勉強していないが、ルーマニア人で宗教学の世界的大家だったと思う)。

それは「世界観・人生観・宇宙観がセットになった、言葉による内的な価値のシステム」ということであり、従来「宗教」や「神話」さらに「イデオロギー」というように呼ばれてきたものを、もっと包括的に捉えた概念である。
…「概念」などという他人行儀の言葉よりも、私たちの心の深層から作動している認識そのものというべきだろう。
実感的には「たましい」、哲学的には「スピリット」「ロゴス」という言葉で語られているものにも深くかかわっているのではないかと思う。

うまく説明しがたいのは当方がまだまだ凡人だからやむを得ないが、たとえて言うなら深層意識の根幹をなす言葉とイメージの総体、と言ったら通じるだろうか。コスモロジーは私たちの心の基礎になっているものである。
つまり、コスモロジーとはあそこやここにあるものではなく、いま・私たちの中で現に作動しているものである。

そして現代の病理の原因は、まさにここにあるというのである。実際、世界の持続不可能性を見るにつけ、これは病理であるとしか言いようがない。そう思われるが、いかがであろうか。
世界はモノだけ、意味もクソもない、死んだらそれでオシマイ、というのが私たちの標準的なコスモロジーとなっている。いわゆる近代科学主義のコスモロジー、ニヒリズムである。その問題についてはまた別に述べていきたい。

それに対して、コスモロジー心理学の画期性は、ニヒリズムに居直るのでもなく(現行の主流)、かといって過去の神話に退行することなく(原理的宗教)、そうではない第三の道、しかし今後間違いなく主流になる方向性である、現代科学的コスモロジーをセラピーに適用したところにある。
これは、いわば「世界観の心理療法」といえるだろう。
まだまだ抽象的な説明となっているが、もちろんそうした(言葉の悪い意味での)観念論にとどまるものではない。具体的には追って紹介していきたい。

世界観の心理学といえば、ヴィクター・フランクルによる「ロゴセラピー」を想起する方も多いことだろう。
フランクルについては「夜と霧」のアウシュヴィッツ体験(正確には主としてその他の支所的な強制収容所での労働体験)が有名なところだが、思うに彼の本質はそこにはない。
収容所体験についていえば、彼がロゴセラピーを自身に適用することによってその苛烈な環境に耐え抜いたという肝心な点が見落とされてしまうと、単なる感動話に終わってしまう。たしかに、それだけでも大変深い感動なのは間違いないが。

しかし先を急げば、フランクルが終生ユダヤ教の深い信仰を保持しつつ、その信仰を表に出すことなく、宗教抜きの別の形で、一般向けの実存哲学的な「魂の癒し」を形作ろうとしたのがロゴセラピーであることは、意外に知られていない。かくいう筆者も、学生時代にかなりフランクルの本を読みながら、後年になって元クリスチャンの岡野先生の講義でその事情を初めて知った次第である。いわゆる一神教の素地なしに、その事情は読み取ることがむずかしい。

このため、とりわけ信仰心とは何なのか自体がわからなくなっている現代日本人には、「いいお話ですね」という以外、フランクルのセラピーで癒されるというのは、実際のところかなり難しいのではないかと思う。
本質をついているのだが、これでは普遍性を持ちえない。感動的ではあるが、かなり特殊なケースを除いて、それでは現代人の心に届くことはないのではないかと、これは学生時代にすでに感じたものだ。

それに対して、コスモロジー心理学は、世界観のいわば更新による、宇宙的な根拠に基づく自己信頼・自身の確立を目指すセラピー体系である。
それは科学に百パーセント基づくもので、普通の理解力があればだれでも受け入れることができる、真に普遍性のある心理療法である。フランクルが目指したいわば「思想的心理学・心理学的思想」の、最先端・最有力の姿だといってもいいだろう。

本ブログの題名をいつのころからか「〈私〉はどこにいるか」というものにしたが、これもコスモロジー心理学での実習(ワーク)の言葉を借りたものだ。
先にこれから紹介することの結論を言うなら、その答えは
「私は宇宙にいる」
ということになる。

宇宙にいる――ポエムか何かかと感じる向きが多いと思うが、これは現実(リアリティ)である。
それはリアルでありながら、感動的な自己認識となるものである。

私たちが人生をかけて求めるものとは、まさにここにあると思う。以下、そのことを見ていければと思う。


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