〈私〉はどこにいるか?

私たちは宇宙にいる――それこそがほんとうの「リアル」のはずである。この世界には意味も秩序も希望もあるのだ。

講座「『摂大乗論』全講義」シリーズ2・第2回について

2018-02-19 | サングラハ教育・心理研究所関係
 先の土曜講座の記事に続き、サングラハ教育・心理研究所主幹の岡野守也先生による、「『摂大乗論』全講義」シリーズ2講座についても、受講した筆者による備忘メモとして、講読箇所の範囲と、おおまかなまとめないし感想を書いておきたい。今回は2/18日曜の第2回講義である。
 講義の語り口は一見平易ながら内容は高度であり、またもともと難解な仏教の論書であることから、理解できていないままの箇所が多い。あくまで筆者の理解(ないし理解不足)によるものにすぎないことをご了解いただきたい。また、アサンガの主張、岡野先生の解説・解釈と、私の理解をとくに分けずに述べるが、文脈によりご判断願う。

○今回は、前回までに引き続き第2節「アーラヤ識の様相」の箇所、「更互因果章 第四」から「縁生章 第六」までの講読であった。この個所は率直に言って筆者には理解が難しかった。

○ものに「本性がある」とする「分別自性」と、執着するもの・しないものを分ける「分別愛非愛」のふたつの縁起によって、様々なものが存在しているのだということ、これが大乗のそれまでの仏教にない点だと、著者アサンガは主張している。のちに登場するマナ識の概念も含め、まだ分化されていない形でアーラヤ識が説明されているのだと思う。

○ここは、なぜわれわれ凡夫=通常の人間の心がかくあるのか、そして世界がなぜこのように見えるか、そのメカニズムがどうなっているかを語っている箇所だと思われる。つまり、凡夫はいかに迷い、いかに覚れるのかが明らかにされている。それはカルマのアーラヤ識への熏習によるのである。

○ただし摂大乗論の他の箇所では指摘されているとおり、マナ識形成にとって、単に「内面のカルマ集積による」とのここでの説明は不十分であり、言葉の種子(しゅうじ)、とりわけ代名詞の使用の熏習によるマナ識形成という捕捉・修正が、現代にとってはとりわけ必要であるとのこと。

○アーラヤ識が蔵であり、また熏習の集積であるという性質を端的に理解させるため、アサンガはさまざまな喩えを用いているが、とくに「群盲象を撫でる」の比喩がわかりやすく、面白いと感じた。ブッダの時代の古代インドにおいて、現代ばりのニヒリズムから創造説、さらに全てをカルマの結果とする運命論まで、百家争鳴と言える状態があったらしいが、そのいずれもかアーラヤ識という全体の一部だけを見た「部分真理」であったことがわかる。この事情は現代にも通じるだろう。

○この箇所も、いわゆる小乗に対する主張としてある種自己絶対化しているとも見えるが、しかし迷いと覚りのメカニズムと方法論を明らかにしているという点で、世界思想上類がない思想であるのは間違いなく、正当性の主張という点で根拠がある自己評価と言える。

○岡野先生によれば、今回の範囲はかなり難しい、ある意味で不必要に煩雑な箇所で、一般向けには説明を省略してきた箇所だが、今回の講義は「全講読」ということで、あえて解説するもの、とのこと。

○カルマが「世界を仮構する」という点で、唯識の洞察は今流行りの「唯脳論」に近い。しかし決定的な違いが、アーラヤ識とはあくまで内面の話であるとのことであった。その点は昨日のコスモロジーセラピー講座における、仏教と現代科学的コスモロジーの接点と同じである。

○本講義の趣旨ではないが、摂大乗論も内面と外面の種子の違いを語っているように、私たちは心に関することならなんでもかでも脳ミソ(これは外面)に還元しようとする、今の主流の見方に注意する必要があるのだと思う。それは一見もっともらしいが、少し考えてみればソフトウェアによる仮想空間をハードウェアの働きに還元するのと同様、粗雑という意味でバカげた話だ。脳ミソというハードをどれ程解析し操作したとしても、心というソフトウェアのレベルの修復もバージョンアップも決して起こりようがないからである。

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