いろいろなイラショナル・ビリーフ(理に合わない思い込み)があるのをここのところとみに実感させられることが多い。
これまで言葉には心にはたらく強力な作用がある(意識的な心とはとりわけ言葉によって構築されているのだから考えてみれば当然のことなのだった)と方法的に信頼して、いわゆる自己暗示的な取り組みはしてきて実際かなりの効果はあったけれども、こういう根強い思い込みに対処するためにはそれではきわめて不十分だったようだ。
その点、論理療法はまさにそうした根深く心に食い込んだ思い込みに焦点を絞り、それを内なる言葉として抉りだし、反論・論駁でまったく理にかなっていないことを突き付け、より現実に適合したものに変換していくという、かなりアグレッシブな心理療法だ。
同じ心の治療を目指す方法論であっても、よくある優しげだけれどもつかみ所がなくて頼りない癒し系のアプローチと、この重点的・戦略的でキビシク迫る論理療法は、正反対と言っていいほどの違いがある。
ということをいくら言っていても、「実践と練習なくして人格変容は起こらない」とのことなので、心の弱腰克服に向けやっていきたいと思う。
さて、「急がなければならない!さもないと大変なことになる!」というさきのビリーフについて、もうちょっと掘り下げられそうだ。
①柔軟性があるか?
いやひじょうに硬直している。
そんなふうに常に最高に急がねばならないなどと、いったい誰が言っているのか? それは勝手に君が思い込んでいるにすぎないぞ!
適切に物事を処理するには必要なときに適宜ある程度急ぐという柔軟性こそが必要なのではないか?
しかも逆に、たしかにある程度自分を急がせたほうがいいということはあるだろうが、心理的にベーシックには落ち着いていたほうが急ぐ事態に対処しやすいのではないか?
心理的にいつも最高に急がなければならないとしたら、適切な判断などをする余裕もなくて、必要な行動のステップをあらゆるところで取りこぼしてしまうのではないか?そういうことをどれだけやってきただろう?
また時間的に、常に急いでいたら消耗しきってしまうのではないか?
ようするに急ぐということにもグラデーションということがある。
にもかかわらず「急がなきゃ」というようなのは、常に最高に急がせ必要なことを取りこぼし、結局自分を焦らせる、ひじょうに硬直的な思い込みではないだろうか?
ところで「大変なこと」というのはいったいどの程度大変なことなのだろうか?
具体的にはどの程度のことが起こりそうだろうか?
それらの起こる割合は?
もっとも起こりうる可能性が高いのはどういう事態だろうか?
そして「最高に大変なこと」というのは、どんなことで、どんな割合で起きそうか?
君はそういうことを全部勘案した上で、「大変なことが起こる!」などと言っているのか?
したがって「大変なこと」というのがまさに極端化で、過度の一般化で、恐怖視だというのがわかるだろうか?
実際そういう場面になったらどうなるか心配はあるが、しかしともかく理屈をクスリとしてのみ込み腹におさめることが必要なのだと思う。
問題は論理療法の要である「反論・論破」が、こんなモンでいいのかどうかということだ。あまり勉強せず、思いつきでやっているので…
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これまで言葉には心にはたらく強力な作用がある(意識的な心とはとりわけ言葉によって構築されているのだから考えてみれば当然のことなのだった)と方法的に信頼して、いわゆる自己暗示的な取り組みはしてきて実際かなりの効果はあったけれども、こういう根強い思い込みに対処するためにはそれではきわめて不十分だったようだ。
その点、論理療法はまさにそうした根深く心に食い込んだ思い込みに焦点を絞り、それを内なる言葉として抉りだし、反論・論駁でまったく理にかなっていないことを突き付け、より現実に適合したものに変換していくという、かなりアグレッシブな心理療法だ。
同じ心の治療を目指す方法論であっても、よくある優しげだけれどもつかみ所がなくて頼りない癒し系のアプローチと、この重点的・戦略的でキビシク迫る論理療法は、正反対と言っていいほどの違いがある。
ということをいくら言っていても、「実践と練習なくして人格変容は起こらない」とのことなので、心の弱腰克服に向けやっていきたいと思う。
さて、「急がなければならない!さもないと大変なことになる!」というさきのビリーフについて、もうちょっと掘り下げられそうだ。
①柔軟性があるか?
いやひじょうに硬直している。
そんなふうに常に最高に急がねばならないなどと、いったい誰が言っているのか? それは勝手に君が思い込んでいるにすぎないぞ!
適切に物事を処理するには必要なときに適宜ある程度急ぐという柔軟性こそが必要なのではないか?
しかも逆に、たしかにある程度自分を急がせたほうがいいということはあるだろうが、心理的にベーシックには落ち着いていたほうが急ぐ事態に対処しやすいのではないか?
心理的にいつも最高に急がなければならないとしたら、適切な判断などをする余裕もなくて、必要な行動のステップをあらゆるところで取りこぼしてしまうのではないか?そういうことをどれだけやってきただろう?
また時間的に、常に急いでいたら消耗しきってしまうのではないか?
ようするに急ぐということにもグラデーションということがある。
にもかかわらず「急がなきゃ」というようなのは、常に最高に急がせ必要なことを取りこぼし、結局自分を焦らせる、ひじょうに硬直的な思い込みではないだろうか?
ところで「大変なこと」というのはいったいどの程度大変なことなのだろうか?
具体的にはどの程度のことが起こりそうだろうか?
それらの起こる割合は?
もっとも起こりうる可能性が高いのはどういう事態だろうか?
そして「最高に大変なこと」というのは、どんなことで、どんな割合で起きそうか?
君はそういうことを全部勘案した上で、「大変なことが起こる!」などと言っているのか?
したがって「大変なこと」というのがまさに極端化で、過度の一般化で、恐怖視だというのがわかるだろうか?
実際そういう場面になったらどうなるか心配はあるが、しかしともかく理屈をクスリとしてのみ込み腹におさめることが必要なのだと思う。
問題は論理療法の要である「反論・論破」が、こんなモンでいいのかどうかということだ。あまり勉強せず、思いつきでやっているので…
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>コスモロジーちゃん様
宿題、ありがとうございます。論理療法、がんばりたいと思いました。単にアタマの中でブツブツといってやるだけじゃなく、それが自分のセルフトークとして自然に循環するようになるまで、徹底的にいろんな手段を用いてやるとのこと、実行したいと思います。
>green-butterflyさま
どうもこんばんは。お褒めいただきとても嬉しいです。ただ、書いている考え方は大部分受け売りで、いそがなければいけないというのは単なる思い込みにすぎません。なんとなくでけっこううまくいく人生というのもいいじゃないですか。時間のこと、本当にそう思います。子育てごくろうさまです。
>HIROくん
あ、君も論理療法、勉強しているのだね。これはたしかに「技」だよね。あ、私の場合は「自己非難」です。自動的に、何となく、やっちゃってるんだよなあ…。それが問題だ。
実戦報告、興味深く読ませて頂いています。
先日久々に「うつはなおる」を読みましたが、私は「他者憐憫」がやはり強いようです。「やさしい人間」だと思われたいのかな?
お互い技を高めていきましょう。
とりあえず「なんとかなる」で生きてきたからなぁ。
就職先とか、子供出来た時とかイロイロ。
もっと慎重にならなきゃ……。
生きてる時間は限られてくるので、やっぱり、その中でいかに時間を上手く使うかですよね。
…と思う……
イラショナル・ビリーフへの論駁の第一のポイント、これでいいと思います。
ただし、なんとなくではなく、自分の心に力強く徹底的に言い聞かせましょう。
では、第二のポイントにかかってください。