〈私〉はどこにいるか?

私たちは宇宙にいる――それこそがほんとうの「リアル」のはずである。この世界には意味も秩序も希望もあるのだ。

『完全自殺マニュアル』完全批判16

2005-11-23 | 『完全自殺マニュアル』批判
言葉の発せられているレベル


さて、こんなふうに自他を人間として評価する尺度のレベルが限りなく低下しつつある文化と心の平板化状態にあっては、深み/高みを目指す本質的な人間成長などという面倒くさいものは、単純に記憶量のアウトプットにすぎない「成績」だとか、表面的な人間関係を拡大し取り繕うための「明るさ」に還元されてしまい、結局それだけが残されているという地点まで突き詰めれば行き着いてしまうだろう。

それも競争なのだから、自然なままでいることはできず、強制された圧力として意識されざるをえない。
くり返すが重要なのは、それらがすべて自他を比較して評価するという、競争への方向づけのなかで意識されることだ。
教育は常に人より上であれ、下であったら負けだと圧力をかけている。それでは何で人と比較して自己確立を図ればよいのか? 競争社会で機能的にやっていけるための指標、ようするに「成績」と「明るさ」で、というわけである。

競争とは、とりもなおさず他人を蹴落とすことにほかならない。
それが自明化した雰囲気の中で、たとえば小学校低学年くらいで歌わされて刷り込まれた「友達百人できるかな」というような平面的な数量目標を実現するためには、競争的に「明るく」ふるまう必要があるということになる。

題名は忘れたが、“友達百人できるかな”というそれ自体は純朴な歌がかつてあった。しかし問題はそれを歌わされた状況だ。
現にそういうなんとなく刷り込まれた価値観で人間関係をやっている同世代が、つきあう限りではとても多い。

どうでもいいが、大学時代の“コンパ”といわれるアレの雰囲気がまさにそんな感じをよく表していたと思う。だいたいの人間がその場をほんとうには楽しんでおらず、しかし平面的・量的なつながりから切れたくはないため、かみ合わない会話を酒で紛らわせて、結局「イッキ飲み」の音頭でムリヤリ場を盛り上げる。
またはカラオケ、お互い喋ることなくなんとなくその場でつながっている気分になるために、聴きたくもない他人の歌を聴いて手拍子をしたりする。
そういう場で「暗く」語りあったり、まして一人でいたりするのは禁忌だったりしなかっただろうか?

そんな「明るさ」の競争のなかで他人を蹴落とすとは、要するに比較してより「明るくない」他者をどこまでも発見し追及しそんな姿を笑うことだ。それがもっと露骨になると「暗いヤツ」を徹底的に貶め排除するということになってしまうだろう。

こういうわけで、学校的な人間関係の暗部にして陰惨な社会問題であるいじめとは、しかし「明るい」軽薄な笑いのなかで、比較して劣等で不適応的に映る他人、暗いヤツ、バカ、グズ…を発見し笑い倒すことで行われるのである。

だからこの『完全自殺』の、「そもそもなんの共通目的もなく、ただ人間関係だけがあるクラスという奇妙な集団のなかですることと言えば、恋愛ゴッコといじめぐらいしかない」というミもフタもないセリフは、しかし一面でこうした教室的状況の鋭い観察と言わざるを得ない。
というか、これまでの分析で明らかにしてきたとおり、いじめにかかわる心理構造をきわめてよく諒解していると思われる言葉なのである。

こうした関心の傾向と実感を含んだ記述からすると、著者自身いじめの加害者ないしその周囲にいた多数の“お笑いの観衆”の一人であったのだろうと強く推測される(被害者の可能性はかぎりなく低い)。

このように、少なくとも本書『完全自殺』および後出の『人格改造』執筆の時点で、彼自身が比較・競争の学校的価値観・教室的人間関係にはまりこみながら、どこまでもそのレベルから言葉を発しているのは、テキストの解釈としてはおそらく間違いないと思われる。

そんなふうに斜めに構えて、学校や社会一般の価値観に背を向けそれに対して毒づくことを自らの立場にしようなどというのは、言うまでもなく“含んで超える”という意味で成長した大人の姿勢ではない。
それは内にひきこもり外にドロップアウトしてしまう少年たちと同じく、そうした価値観にいつまでも足をとられていることの何よりの証明にほかならない。


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