引き続き、筆者が継続的に参加しているサングラハ教育・心理研究所の、講師・岡野守也氏による講座について報告したい。
今回(9/30)終了した本シリーズは、同研究所による仏教講座の初級編に位置づけられたものだが、それからしてすでに私たち日本人の仏教観(暗い・旧い・陰気くさい、etc...)を根本的に覆すに足るものが感じられた。
一体、「仏教」とは何なのか? 私たちはいまだにその意味するものを知らないといえる。
とりわけ、日本の仏教は「大乗仏教」だとされるが、その核心にあるものはほとんど知られていない。何が「大乗」だというのか?
例えば、さきほどもゴールデンタイムの民法テレビに若いお坊さんが出てきて、いわゆる仏教(法事や慣習、そして文化財としての仏教)について番組がやっていた。
要するに不安の時代にあって、それが視聴率をとれる状況なのだろう。それはそれで興味深いものがある。
しかし肝心の「なぜ仏教なのか」は、そうした一般的な言説からは、私たちには全く伝ってこない。
伝統とされる儀礼や慣習を守ったとて、それに一体何の意味があるのか。そもそもそれに慣習以上の何の意味があるのか。
それについて、本講座では端的に、仏教なかんずく大乗仏教の核心にあるものを「智慧と慈悲」だと端的に結論しており、その流れは日本の仏教にこそ脈々と引き継がれてきたとしている。
中でも、「空」とは「いわくいいがたい」ものだとされているが、決してそんなことはないことがわかる。
それは瞑想によって体得される境地であり、そこからはじめて見ることができる世界、宇宙の縁起の理法による真の姿であることは、類比的な理解だが私たちにも想像することはできる。
なるほど、日本は仏教の中心地たるインドそして中国から見れば地理的に僻地にあるが、しかしそれら「本家」が歴史的経過からそうした仏教精神から断絶してしまっている一方、仏教精神の心髄が周縁たる日本にはるばる流れ着き、一千四百年以上にわたり保存してきたのは間違いのない事実である。
そしてその真の意味が、本講義によって「何が本質か」が明示されることによってはじめて明らかとなった思いがする。
いたずらに称揚するものではない。しかし、意味・精神・心の欠如した従前の歴史の語りとは、何と無味乾燥で索漠たるものであったことか。
(文明発祥の中心地ではなく、周縁にその精神のエッセンスが保存され、歴史を通じ実現されるというのは、ギリシャ・ローマ的文明そしてキリスト教的精神の地理的には完全な僻地にある西欧に、それが根付き花開いたというのと、ある種パラレルであると見える。)
こうして伝わった大乗仏教の核心は、般若経典群に始まる「空」「一如」そして「慈悲」の洞察にあり、それを精緻に理論化・体系化した大乗仏教・唯識が、ちょうど古代の勃興期にあった飛鳥・日本に「仏国土」という政治的理想として伝わり、以降の日本の歴史に脈々と息づいてきたことが、今回の講座ではっきり理解できたように思う。
そこに、政治的理想の実現というパワーが秘められていたのは(もちろん時代的制約は含みつつ、しかしだからこそ)確かに明らかであると見える。
非常に大まかな理解となるが、その理想のある種の実現形態としての、先に掲載した渡辺京二氏の『逝きし世の面影』で活写された近代以前の「文明としての江戸システム」だったことが、歴史的リアリティとして想像できる。
そこに、渡辺氏の洞察の正しさと、一方の内面象限にわたる分析の不十分さを見て取ることができる。
以上、不肖・筆者の拙い表現ではあるが、ともあれ、いま混迷のうちに枯渇しつつあると見える私たち日本人の精神性の、その根源に迫った講義であったと感じられた。
(講座収録の動画等が研究所を通じて入手できるので、ぜひご利用いただきたいと思う。)
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