若干遅れたが、10/1にいつもの赤坂・東京マインドフルネスセンターにて開催されたサングラハ教育・心理研究所の講座「『摂大乗論』入門」の第3回、このシリーズの最終回について報告したいと思う。
先に紹介したとおり、難解とされる仏教・唯識を、一般にわかる形でそのエッセンスを語ってきた講師・岡野氏の、いわば思想的原点とも言える代表的古典が『摂大乗論(しょうだいじょうろん)』である。
研究所の名称「サングラハ」も、同書のサンスクリット原点『マハヤーナ・サングラハ(Mahayana Samgraha、いわば「大乗総論」)』からとったものであるとのこと。
『摂大乗論』のエッセンス・要約を全十章にわたり短いシリーズで語った講座としては、研究所初のもので、大乗仏教・唯識を学び、さらに修行したいと思う人にとってはまさに必聴の内容であると感じられた。
今回、第3回は残る第八章から末尾の第十章まで語られ、これで『摂大乗論』の全体像を概観することができたことになる。
もちろん講師の語るように、「アタマで学ぶと修行するとでは大違い」ではあるが、少なくともアタマで学ぶだけでもそのトランスパーソナルとしての深層心理洞察の超時代性が理解できる。
何よりたとえ片端でも体得しなければ「人生ソンだ」と感じさせられるものがある。
さて、第八章は大乗仏教でいう「無分別智」を明らかにするために、「無分別智と似て非なるもの」が五項目にわたって挙げられている。
たしかに『摂大乗論』はじめとする大乗経典が、体制化し硬直化していたテラヴァーダ仏教、いわゆる小乗に対する思想的な批判として生まれてきたという、一般的な教科書的理解はそのとおりなのだろう。
しかしこの箇所を読むと、単なる党派的な批判をはるかに超えて、実際の覚りの境地の深まりに応じた、思想的進化からする批判、批判というよりも「含んで超えての代案提示」だったことが明確に理解できる。
ここでのポイントは「無分別」ということで普通考えられる「『思惟・考察・分別しない』のではない」ということだと思われる。
普通には矛盾そのものの記述で難解なようだが、講師の非常にわかりやすい解説によれば、大乗の「無分別智」とは、無分別がさらに深まることで「言葉をほんとうの意味で使う」ことができるという「無分別後得智」をも包摂するものだということのようだ。
もちろん、この境地からすれば「だから大乗のほうが高いのだ」さらには「そう語っているこの講座はすばらしいのだ」というような価値判断自体が、語っている内容をまるで裏切る単なる矛盾、言ってしまえば最悪の偽善だということになる。
そうしたことがほんとうの意味でわかる=覚ることができるのは、あくまで六波羅蜜とりわけ禅定の実践によるしかない、という再三の押さえは、大変渋くかつ妥当だと感じられる。非常にスマートでかつ熱いメッセージである。
第九章では仏教を通じた「涅槃」ということが、同じ言葉を使いながらこれまでの仏教(大乗がいうところの小乗)と全く違っていることが語られている。
大乗以前の仏教の「涅槃」は、
①身体性が残っているが煩悩を超えた境地にあるという「有余涅槃(うよねはん)」、そして
②身体性すら捨て去って解脱仕切った境地にあるという「無余涅槃(むよねはん)」の、二つのカテゴリーである。
それは、私たちが静かでどこか寂しい、「涅槃」という言葉で何となく想像するものにぴったりと重なる。
「それは大変いい境地で結構ですね(=だからどうしたのか)」という感じである。
一方、大乗の「涅槃」は、それとは異なる、というかそれらを含んだ、より広く深い境地のことを指しているという。
それらは私たちが普通に「涅槃」としてイメージしているものとはほとんど、というか全く違うものである。
(つづく)
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