私が現在参加している、岡野守也氏によるサングラハ教育・心理研究所の講座「ゼロから始める仏教入門」の第4回講義について報告したい。
サングラハの講座では常々重要なことが語られていると思ってきたが、自分の主観で妙なまとめ方をしてもしょうがないし恥ずかしいと思い、これまで書かなかった。
しかし拙文ではあっても、せっかくなので今後は参加の都度、片端なりとも紹介していきたいと思う。
講座では前回まで、ブッダの原始仏教から始まり、仏教教団の分裂から大乗仏教の成立、そして特に般若経思想までが語られてきた。
そして今回は大乗仏教の「空」から唯識、如来蔵思想までの内容である。
「空」とは、いわく言いがたい高尚な(そして一般人にはよくわからない)境地とされているが、そんなことはなく、言葉でぎりぎりのところまで語りうる、そして聞く耳があれば誰にでもわかる「ほんとうの現実」なのだ。(もちろん、それが日常意識になっているのかは別問題だが)
そして特に「空」と「一如」が言葉の上では同義語であること、現代においてはむしろ一如こそ強調されるべき側面であるとされているのが重要だと感じられた。
「空」とは「何もない」のではなく、「実体であるものは『何もない』」のであり、そのことは宇宙が一体であることを語る「一如」と、実際同じことであるに違いない。
こうした的を射ていながら「よくわかる」という仏教の語り方は、思うに画期的ではないかと思う。
うまくまとめることが難しいが、ある意味素朴で個人の救いにまとまった(と言ってしまってよいのかわからないが)原始仏教から、すべての衆生を救いたい、救えるはずだとの慈悲を宇宙的なスケールで語る(たとえそれが神話的な語り方であったとしても。時代のコスモロジーから自由になれる人間などあるはずがない)大乗仏教の間には、講師が言うように実際進化的ともいっていいジャンプがあることがわかる。
特に唯識で言われる「無住処涅槃」、覚りの世界に行ったきりになるのではなく、迷いのこの世に慈悲の思い故に行き来自在となるという、大乗仏教の菩薩のあり方とは、なんと壮大な理想だろうか。
次回、この古代インドのブッダから始まり、ある意味私たちがほとんど知らなかった驚くべき「進化する仏教」が、中国を経て日本に到達する様子が語られる予定となっている。
こうした大乗仏教が保存されていたのがインドでも中国でもなく日本であったこと、それが私たちの社会につい先日まで息づいていたことが、うまく言えないが、何とも不思議ですごいことだと感じられた。
仏教とは過去のものではなく、将来に向けて活かされるべき思想であると岡野氏は語る。
こうした仏教の真意があまりにも現代日本で知られておらず、忘れ去られつつあることへの危機感と、ぜひそれを日本人が取り戻してほしいとの、熱い思いが感じられる講義であった。
確かに、仏教がなくなってしまったら、日本の文化史や精神史で何が残るのだろう。実際、ほとんど何も残らないではないか。
私たちのアイデンティティは実はここにあるのだと、今更ながら気づかされる。仏教を取り戻すことは、日本のアイデンティティを取り戻すことでもあるだろう。
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