まったく久々の更新でして、思えばこれらを書いていたのは30代も前半だったのだなあと感慨が深い。
実は(でもなかったんだっけ?)私はサングラハ教育・心理研究所の会報『サングラハ』の編集をしていまして、かれこれ14年になろうとしているのだった!
今回、下記のような書評を書いたので、せっかく書いたので掲載します。できればお読みの方は会報『サングラハ』をご購入いただきたい!
⇒https://www.dlmarket.jp/manufacture/index.php?consignors_id=9174
今の時代にまったく流行らないであろうが、本質的なことが書かれていると私は思っているので。
さて、今回書評させていただいた本は、大きな書店の歴史関係の棚には平積みにされていることと思う(H27.12月現在)。
非常に興味深くも微妙な本でして、問題意識ないしは感性として非常に当たっていると思われる点と、一方ご自身の「立ち位置」についてかなり無自覚に「感情的」に書かれているという点の両方が混交した本だと思われる。
まず前者の(プラスの)点から転載したい。
(『明治維新という過ち―日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト』〈増補改訂版〉、原田伊織著、毎日ワンズ、二〇一五年)
【書評『明治維新という過ち』】
本書は「作家・クリエイティブディレクター」である在野の著者の、鋭敏な問題意識による刺激的な本である。後述のような批判点はあるものの、常識の盲点を暴露するという点で、日本史の決定的な転換点であった時代に関するこれまでの見方に大幅な修正を迫る内容だと思う。
「明治維新」という虚像
端的に言って著者の主張は「日本人は『明治維新』を一度徹底的に批判し総括する必要がある」ということに尽きる。私たちにとって「明治維新」とは、概ね「暗黒の封建体制を打倒して文明開化の新時代をもたらした、輝かしい若者群像の物語」といった、そんな単純にポジティブなイメージで彩られており、それが戦前戦後を通じ、総じてずっと無批判であり続けてきたのは間違いないだろう。
しかし本書は、「明治維新」なる言葉が昭和初期に「昭和維新」と対になって流布したものであることを明らかにした上で、「明治維新」を彩るさまざまな「ウソ」を容赦なく暴く。代表的には吉田松陰(第三章)、坂本龍馬(「はじめに」)、高杉晋作(第二章)等々、詳細は本書に譲るが、それら英雄的人物像が軒並み虚像であること、天皇拉致や御所襲撃までも企てた薩長の「尊皇」とは文字通りのタテマエ=ウソにすぎなかったこと、それらが推し進めた倒幕運動とは当時の正統的政治権力である江戸幕府からすれば危険なテロリズムそのものであり、それを実行した「勤王の志士」とは狂信的なテロリストにほかならなかったこと、さらにその背景にあった水戸学とは奇矯な人物に発する誇大妄想的な「狂気の思想」であったこと等々、従来の「明治維新」に関する見方をほとんど反転をさせる説得力を持つ。「明治維新」とは、「官」と「賊」が容易に入れ替わり、昨日の朝敵が一夜にして錦の御旗(それも捏造だった)を掲げる官軍になるという非常に流動的な情勢において、過激派勢力が暴力‐軍事力をもって政権を文字通り強奪するに至った一連の政治的事件であって、決して歴史の必然ではなかったのである。
隠蔽された戦争犯罪
そしてそのような「麗しい」物語によって隠蔽されてきたのが、敗者への犯罪行為、特に「官軍」に成り上がった薩長の軍に対し徹底抗戦を敢行し、「賊軍」と処断されることとなった会津など東北諸藩への戦争犯罪であるとする(第五章)。「明治維新」は戊辰戦争の終結で完成したとされ、その勝敗を決定的に分けたのは、単純に近代兵器の有無という格差であったらしい。そして圧倒的な武力による蹂躙の下で行われた暴力行為から虐殺に至るまで、本書が明らかにするとおり、それらはまさしく後の言葉で言う戦争犯罪にほかならない。そうした「官軍」の戦争犯罪や、明治初年に一藩丸ごと流刑に処すという会津に対する非道は、輝かしい「維新物語」の陰となって現在もほとんど意識されていないのは間違いない。
「官軍教育」による洗脳
本書は全体を通じ、「官軍教育」というキーワードによって、「明治維新」には勝者とりわけ長州出身者主体の新政府=クーデター政権側が、自分たちの都合によって恣意的に作り上げてきた一つの物語という面が濃厚にあることをあぶり出す。それは「勝者が歴史を作る」という言葉のとおり古今東西いつもあったことで、テロを通じた政権転覆、さらに内戦を強行して生まれたクーデター政権としての勝者が、前体制を全否定する「明治維新」という物語を作ったのは、むしろ当然だったはずである。にもかかわらずこれまでずっと、こと「明治維新」に関してはあたかも盲点にあるかのようにあるべき批判がナイーブに欠如してきたのであって、本書の指摘のとおりそれこそが今日まで「官軍教育」の「洗脳」が生きている証拠なのであろう。
特に代表的に、これまでほぼ世間的な歴史理解の標準とされて批判の外にあり続けてきた、司馬遼太郎氏の「明治維新」を称揚する歴史物語=司馬史観について、それこそがまさに「官軍教育」の線に沿った維新至上主義そのものであり、その点で司馬史観は「断罪」されるべきとしている(一方、著者は司馬氏の業績全体には敬意を述べている)。
このように「官軍教育」が現在に至るまで一貫して行われてきており、それが私たちが自身の歴史につながりひいては精神的にまとまること、換言すれば日本人のアイデンティティと日本社会の統合性を、近現代においてずっと損ねてきたという、その問題意識は極めて妥当だと思われる。
また、そうした「官軍教育」の延長線上に、侵略に続く先の戦争があるとの推論(一二四頁)は、あの悲惨な大戦の意味を再考する上で非常に重要である。さらに、敗戦後現在まで続く標準的な歴史観もまた勝者米国の都合という線で作られた歴史観にほかならないとすれば、私たち日本人の精神史には近代以降、「官軍教育」と「戦後教育」による二重に複合した捻れないし断絶があることになるだろう。これら点は詳細な検証が必要と思われる。
「官軍教育」で否定されたもの
では、そのように英雄を捏造し戦争犯罪を隠蔽する「官軍教育」により、勝者たる明治新政府が否定してきたものは何だったのか。江戸時代はかつて文字通りの暗黒時代と捉えられてきたし、今でも政治体制としての幕府は「後進的・反動的で要するにダメだった。だから倒されて当然だったのだ」と認識されていると思う。それに対し、本書ではその見方こそ「官軍教育」の成果そのものだと指摘し、江戸幕府について、二百数十年にわたり概ね平和な統治を実現し、「黒船」来航に先立ち既に実質的な開国を遂げ(そもそも「鎖国」なるものが実際には存在しなかったのだが)、優秀な実務官僚のもと列強相手に必死の外交を展開した、統治能力のある正当な政治体制だったと捉え直している。そして幕末においてリーダー層は全体として尊皇佐幕で一致していたのであり、従って倒幕とは必然ではなく、クーデターによって実現した一つの可能性にすぎなかったとしている。さらに、幕府や諸藩が統治する江戸期の社会とは、一言で言って文明度の高い社会=江戸システムだったのであり、いまだにその本質的な意味が再検討されているとは言いがたいというのは、重要な指摘であろう。要するに「官軍教育」とは、自らが打倒した前体制である江戸時代の意味を貶め全否定する意図に貫かれていたのである。
一方で本書は、旧幕府側によるその後の統一政権が仮に実現した場合に、日本が近代において北欧諸国のような平和・中立の国になった可能性、少なくとも先の大戦のような方向を回避できただろう可能性に言及する(三六頁他)。その点、著者の言うようにさらなる考察が必要だろうが、「江戸システム」の達成を考えた時に、納得させられるものがある。
(続く)
実は(でもなかったんだっけ?)私はサングラハ教育・心理研究所の会報『サングラハ』の編集をしていまして、かれこれ14年になろうとしているのだった!
今回、下記のような書評を書いたので、せっかく書いたので掲載します。できればお読みの方は会報『サングラハ』をご購入いただきたい!
⇒https://www.dlmarket.jp/manufacture/index.php?consignors_id=9174
今の時代にまったく流行らないであろうが、本質的なことが書かれていると私は思っているので。
さて、今回書評させていただいた本は、大きな書店の歴史関係の棚には平積みにされていることと思う(H27.12月現在)。
非常に興味深くも微妙な本でして、問題意識ないしは感性として非常に当たっていると思われる点と、一方ご自身の「立ち位置」についてかなり無自覚に「感情的」に書かれているという点の両方が混交した本だと思われる。
まず前者の(プラスの)点から転載したい。
(『明治維新という過ち―日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト』〈増補改訂版〉、原田伊織著、毎日ワンズ、二〇一五年)
【書評『明治維新という過ち』】
本書は「作家・クリエイティブディレクター」である在野の著者の、鋭敏な問題意識による刺激的な本である。後述のような批判点はあるものの、常識の盲点を暴露するという点で、日本史の決定的な転換点であった時代に関するこれまでの見方に大幅な修正を迫る内容だと思う。
「明治維新」という虚像
端的に言って著者の主張は「日本人は『明治維新』を一度徹底的に批判し総括する必要がある」ということに尽きる。私たちにとって「明治維新」とは、概ね「暗黒の封建体制を打倒して文明開化の新時代をもたらした、輝かしい若者群像の物語」といった、そんな単純にポジティブなイメージで彩られており、それが戦前戦後を通じ、総じてずっと無批判であり続けてきたのは間違いないだろう。
しかし本書は、「明治維新」なる言葉が昭和初期に「昭和維新」と対になって流布したものであることを明らかにした上で、「明治維新」を彩るさまざまな「ウソ」を容赦なく暴く。代表的には吉田松陰(第三章)、坂本龍馬(「はじめに」)、高杉晋作(第二章)等々、詳細は本書に譲るが、それら英雄的人物像が軒並み虚像であること、天皇拉致や御所襲撃までも企てた薩長の「尊皇」とは文字通りのタテマエ=ウソにすぎなかったこと、それらが推し進めた倒幕運動とは当時の正統的政治権力である江戸幕府からすれば危険なテロリズムそのものであり、それを実行した「勤王の志士」とは狂信的なテロリストにほかならなかったこと、さらにその背景にあった水戸学とは奇矯な人物に発する誇大妄想的な「狂気の思想」であったこと等々、従来の「明治維新」に関する見方をほとんど反転をさせる説得力を持つ。「明治維新」とは、「官」と「賊」が容易に入れ替わり、昨日の朝敵が一夜にして錦の御旗(それも捏造だった)を掲げる官軍になるという非常に流動的な情勢において、過激派勢力が暴力‐軍事力をもって政権を文字通り強奪するに至った一連の政治的事件であって、決して歴史の必然ではなかったのである。
隠蔽された戦争犯罪
そしてそのような「麗しい」物語によって隠蔽されてきたのが、敗者への犯罪行為、特に「官軍」に成り上がった薩長の軍に対し徹底抗戦を敢行し、「賊軍」と処断されることとなった会津など東北諸藩への戦争犯罪であるとする(第五章)。「明治維新」は戊辰戦争の終結で完成したとされ、その勝敗を決定的に分けたのは、単純に近代兵器の有無という格差であったらしい。そして圧倒的な武力による蹂躙の下で行われた暴力行為から虐殺に至るまで、本書が明らかにするとおり、それらはまさしく後の言葉で言う戦争犯罪にほかならない。そうした「官軍」の戦争犯罪や、明治初年に一藩丸ごと流刑に処すという会津に対する非道は、輝かしい「維新物語」の陰となって現在もほとんど意識されていないのは間違いない。
「官軍教育」による洗脳
本書は全体を通じ、「官軍教育」というキーワードによって、「明治維新」には勝者とりわけ長州出身者主体の新政府=クーデター政権側が、自分たちの都合によって恣意的に作り上げてきた一つの物語という面が濃厚にあることをあぶり出す。それは「勝者が歴史を作る」という言葉のとおり古今東西いつもあったことで、テロを通じた政権転覆、さらに内戦を強行して生まれたクーデター政権としての勝者が、前体制を全否定する「明治維新」という物語を作ったのは、むしろ当然だったはずである。にもかかわらずこれまでずっと、こと「明治維新」に関してはあたかも盲点にあるかのようにあるべき批判がナイーブに欠如してきたのであって、本書の指摘のとおりそれこそが今日まで「官軍教育」の「洗脳」が生きている証拠なのであろう。
特に代表的に、これまでほぼ世間的な歴史理解の標準とされて批判の外にあり続けてきた、司馬遼太郎氏の「明治維新」を称揚する歴史物語=司馬史観について、それこそがまさに「官軍教育」の線に沿った維新至上主義そのものであり、その点で司馬史観は「断罪」されるべきとしている(一方、著者は司馬氏の業績全体には敬意を述べている)。
このように「官軍教育」が現在に至るまで一貫して行われてきており、それが私たちが自身の歴史につながりひいては精神的にまとまること、換言すれば日本人のアイデンティティと日本社会の統合性を、近現代においてずっと損ねてきたという、その問題意識は極めて妥当だと思われる。
また、そうした「官軍教育」の延長線上に、侵略に続く先の戦争があるとの推論(一二四頁)は、あの悲惨な大戦の意味を再考する上で非常に重要である。さらに、敗戦後現在まで続く標準的な歴史観もまた勝者米国の都合という線で作られた歴史観にほかならないとすれば、私たち日本人の精神史には近代以降、「官軍教育」と「戦後教育」による二重に複合した捻れないし断絶があることになるだろう。これら点は詳細な検証が必要と思われる。
「官軍教育」で否定されたもの
では、そのように英雄を捏造し戦争犯罪を隠蔽する「官軍教育」により、勝者たる明治新政府が否定してきたものは何だったのか。江戸時代はかつて文字通りの暗黒時代と捉えられてきたし、今でも政治体制としての幕府は「後進的・反動的で要するにダメだった。だから倒されて当然だったのだ」と認識されていると思う。それに対し、本書ではその見方こそ「官軍教育」の成果そのものだと指摘し、江戸幕府について、二百数十年にわたり概ね平和な統治を実現し、「黒船」来航に先立ち既に実質的な開国を遂げ(そもそも「鎖国」なるものが実際には存在しなかったのだが)、優秀な実務官僚のもと列強相手に必死の外交を展開した、統治能力のある正当な政治体制だったと捉え直している。そして幕末においてリーダー層は全体として尊皇佐幕で一致していたのであり、従って倒幕とは必然ではなく、クーデターによって実現した一つの可能性にすぎなかったとしている。さらに、幕府や諸藩が統治する江戸期の社会とは、一言で言って文明度の高い社会=江戸システムだったのであり、いまだにその本質的な意味が再検討されているとは言いがたいというのは、重要な指摘であろう。要するに「官軍教育」とは、自らが打倒した前体制である江戸時代の意味を貶め全否定する意図に貫かれていたのである。
一方で本書は、旧幕府側によるその後の統一政権が仮に実現した場合に、日本が近代において北欧諸国のような平和・中立の国になった可能性、少なくとも先の大戦のような方向を回避できただろう可能性に言及する(三六頁他)。その点、著者の言うようにさらなる考察が必要だろうが、「江戸システム」の達成を考えた時に、納得させられるものがある。
(続く)
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