昨日の新聞によれば、五月連休に封切された映画『相棒』が大ヒットによりロングラン上映中であるとのこと。
じつはこのシリーズのファンである私も、連休中に期待して見に行った次第です。
しかしその内容は「大ヒット」という目下の評判とはそうとう違う、このシリーズのファンにとっては残念な内容でした。
まあ映画というのは本当に見る人次第であり、いうまでもなく思想の自由は保証されていますから、これに感動する方がいることも否定しません。
それはそれで幸せだろうと(半ば以上皮肉交じりになってはしまいますが)そう思います。
しかしやはりファンの期待を意図的にといっていいほど裏切っていることについてはひとこと言わせていただきたい。
じゃなきゃ腹の虫が収まらぬ。
千八百円はらって時間使ったのに!(というふうに書く時間はあるわけだが)
それをあれだけ期待はずれじゃあ、そう思いたくなる気持ちも分かっていただきたい、ということですがね…。
よくある前フリですが、以下ネタばれということでご注意。
ていうか見る前にバレちゃっといたほうがいいんじゃないの? という気が強くしているわけです。
この映画の納得のいかなさは、以下長々と書きますように、多分相当の資金や時間や技術と、一流の出演者を惜しみなく投入しながら、シリーズの1~2時間もののテレビドラマの面白さにまったく及ばないところにあります。(…というふうに見えてしょうがなかったと)
まずこのシリーズの何よりのよさとは、水谷演ずる超ハマリ役の杉下右京と、彼を慕う真逆の性格の亀山薫、その周囲のクセはあるけど憎めない面々を中心とした関係が軸にあります。
そして一筋縄でいかない事件を、警視庁の片隅の閑職にありながら鋭いキレと独自の強力なパイプをもつ水谷と、熱血漢で人情家の亀山がサクサクと解決していくという、その小気味よさにあったはずです。
しかし今回の映画では、あきらかに主役はこの二人ではなかったといって過言ではない。事件を解決しストーリーを回す、どころか二人は事件にただ振り回される役、またはストーリーを脇で見ているといった位置づけにすぎなかったと思います。
で、結局「悪いのは警察官僚」とか「政治家」とか「政府」とかという、よくある典型的なオチになっています。
しかもそれに説得力があればいいんですが、若くてキレイで実力のある女性政治家(=リアリティがない)を中心にした、そのオチのすわりがきわめてうまくない。
ともかく政府の陰謀をめぐるどろどろの話がストーリーの主軸になっていますが、はっきりいってそういうのはもう食傷気味という感じがします。
どうも最近の日本の映画その他のエンタテインメント分野では、話を大きくリアルにしようとして、悪いやつのそのまた悪いやつのそのまた…とやっていったときの中ボスが「警察内部の権力」、ラスボスが「政府」になってしまう、という申し合わせたような構図があるようですね。
今回の映画ではその陳腐な典型例を何十ぺん目かに見させられたと感じました。
たとえば映画でいうと『踊る大捜査線』とかが典型的にそうで(作り手が同じではないかとすら見える)、警察官僚や政府機構、つまり権力、要するに「お上」に対する強い拒絶を表現していると思うのですが(「事件は現場で起こってるんだ!」)、一方でこういうテーマが繰り返し描かれること自体に現れている、組織とヒエラルキーに対する執拗なこだわりとはいったい何なのか。
そこが逆に興味深いといえばたいへん興味深いのですが…
ですが、テレビドラマの一ファンとしては、本筋をはずれてそんなものを延々と見せられても困惑するばかりです。
そもそも、ストーリーのおおむね3分の2を占め、題名にもでかでかとうたわれている「東京ビッグシティマラソン」をめぐる大騒動はいったいなんだったのか。
チェスをめぐる攻防とか、ネット殺人とか、あれだけの大仕掛けをしておきながら、結局ストーリーの本筋には何の関係もなかったに等しい扱いです。
マラソンのゴールでは会場係か清掃員のおっちゃんに化けた西田敏行演ずる事件の首謀者がフラリと登場し、小泉さんに似せた首相に弾の入っていない拳銃(これがきわめて偽善くさい理由は後述)を突きつけてその政治的な陰謀の秘密(後述)をバラそうと…
え、それだけ?と思ってしまいました。あれだけ騒いどいてねずみ一匹なのか?
じゃあそれまでの緊迫感(といっても粗があります)と話の盛り上げはいったいなんだったのか。
ていうか意味ないじゃん。
ここでまず水をぶっかけられます。
で、以降、話はどんどん腰砕けになっていきます。
まーいろいろあるのですが、決定打は犯人の西田敏行が明らかにミスキャスト、どころかあるべき役に対してみごとなくらい真逆だったことにあります。
単なる主観?でも結構。あえて言わせてもらおう。
この犯人は元大学教授で、息子を見殺しにした者たちへの復讐を誓って、まったく無関係に等しい人のネット大量殺人を主導し、さらに「同志」だったはずのその実行犯の若者をも殺し…そのほかにもいろいろあったような気がしますがよく覚えていません。
ともかくドラマの設定上、強烈な意思と冷徹な非情さを持つ殺人者であり、深い世間への恨みと罪の苦悩を底に抱えた一人の父親、そして右京と対等に張れるほどの頭脳の切れをもった人物でなければならないわけです。
さらに悲劇的なことに末期がんにおかされ余命いくばくもない、と。
そうでありながら、ちょっと冴えない疲れた中高年といった感じの、しかしある意味健康的なメタボ体型の西田演ずる殺人犯が、手錠をはめられ涙して「これ以上罪はなんたらかんたら」とヒューマンに語り、それに右京が共感している日にはもう何といったらいいのか…。
それまでの計画的犯罪・大量殺人はどこへふっ飛んでいってしまったのか?
いちばん分からなかったのは、たしかそこらへんで出てきた、「お父さんは私をずっと裏切ってきた」とかというその娘のセリフ。
タイミング的にはどうもこの辺がこのドラマのいちばん泣かせるサビの部分になっていたようですが、なぜここで突如アダルトチルドレン系が出てくるのか?
ドラマ的な必然性がまったくなかったこともあって、ひじょうに居心地が悪いのです。
ともかく、以降、話は西田とその息子の悲劇をめぐる政治的メッセージを軸に滑空していきます。
(ていうかこれは「相棒」の映画ではなかったのか?)
なによりどうかと思うのは、エンタテイメントなのになぜか、作り手の発する政治的メッセージを見せ付けられること。
正直うざったいという感を禁じえなかった。
いいんですよ…それがストーリー的な意味があって、それなりに正当なものなら我慢しましょう。
しかしこれははっきりいって違うといいたい。何が違うか?
あからさまに以前にあった中東での日本人人質事件(ただし映画では南米の共産テロ)を題材にして、テロリストに殺された若者(大量殺人の主犯である西田の息子)の死の真相を、政府・外務省と政治家が保身のために捻じ曲げたという「陰謀」、つまり退去勧告が届いていなかったのにその事実を握りつぶし「退去勧告に従わず国に迷惑をかけた非国民」として若者を切り捨てた日本政府の非情さが、この映画の話のまさに中核になっているのは間違いないと思われます。
で、それが「なんとかファイル」という謎めいた国家機密のキーワードとして、ラスト近くまでずっとひっぱられてドラマのメインの伏線になっているわけです。
(国家機密にしてはなぜか政治ゴロの一新聞記者がチョロっとくすねることができてしまうようですが)
それを女政治家が父親の名誉を引き換えにばーんとカッコヨク記者発表、一方死の間際にある大量殺人者・西田はそれを聞き娘と涙の和解……そしてドラマは感動のラストを迎える。
で、いいたいことは、ここでも、第三世界の現場で「崇高な」ボランティア活動にいそしむナイスな若人と、一方の利権と保身にまみれた汚いオジサンという対置の構図があるということです。
善と悪、現場と官僚組織、市民と権力、下と上、個人と国…きわめて陳腐な、どこかでいつも見かける対立図式…とはいえ、それはそれで正当とはいえるかもしれません。
おおむねいまの政治は理想と程遠いところにあるのは現実のようですから。
しかしあきらかに違うと言いたいのは、ここに件の人質事件にたいして事実と異なるイメージを刷り込もうという意図が、どうも作り手にあったのではないかということ。少なくとも見る人にはそう感じられるだろうということです。
いつまでも「国・政治」の権力は悪く、「市民」は無力な被害者で正しい、というような水戸黄門的な子どもじみた正義感でいいのか。
この件に関していえば、頼まれもしないのに危険な第三世界の紛争地帯の「現場」に、豊かな国から「いい人」になりたくて危険を承知で降り立ち出ち、警告どおり危険に遭遇し現実に関係者に多大な迷惑(いろんな表現はあるでしょうが)をかけたことに対する、国民・大人としての責任はどうなるのか? むろん後でブーたれるなんてのは話にならない。
もちろん映画はフィクションですからいいのですが、一般向けのエンタテインメントなのですからおのずと良識が必要なはずです。
しかもなお悪いことに、これがドラマの核心のメッセージになっている(と思しい)のですから、あえて一言いっておくのも無駄ではないと思った次第です。
やはりここでも濃厚に見受けられる、「お上」「権力」に対する強固な反感と、その反面の執拗ともいえる関心。
…しかしもう一度いいたい。
これは「相棒」というエンタテインメント映画ではなかったのか。
いろいろ書いてきましたが、要するにいいたかったことは、なぜ「相棒」がこういう映画になってしまったのか、ということ。
これで見た人が失望してしまわないことを一ファンとして願います。
まあ、ロングランだそうですから、そういう懸念にはあまり及ばないようですが。
どれほど資金や技術をかけようと、ふわふわした焦点の定まらない作品しか作り出すことのできなくなっているという、日本映画の現実を見せ付けられた次第です。
まあロングランということは目論見どおり大いに売れたということだから、製作側としてはそれで十分なのでしょうが…。
ようするに売れりゃいいんですから。
で、作品はどんどん劣化していくと。
じつはこのシリーズのファンである私も、連休中に期待して見に行った次第です。
しかしその内容は「大ヒット」という目下の評判とはそうとう違う、このシリーズのファンにとっては残念な内容でした。
まあ映画というのは本当に見る人次第であり、いうまでもなく思想の自由は保証されていますから、これに感動する方がいることも否定しません。
それはそれで幸せだろうと(半ば以上皮肉交じりになってはしまいますが)そう思います。
しかしやはりファンの期待を意図的にといっていいほど裏切っていることについてはひとこと言わせていただきたい。
じゃなきゃ腹の虫が収まらぬ。
千八百円はらって時間使ったのに!(というふうに書く時間はあるわけだが)
それをあれだけ期待はずれじゃあ、そう思いたくなる気持ちも分かっていただきたい、ということですがね…。
よくある前フリですが、以下ネタばれということでご注意。
ていうか見る前にバレちゃっといたほうがいいんじゃないの? という気が強くしているわけです。
この映画の納得のいかなさは、以下長々と書きますように、多分相当の資金や時間や技術と、一流の出演者を惜しみなく投入しながら、シリーズの1~2時間もののテレビドラマの面白さにまったく及ばないところにあります。(…というふうに見えてしょうがなかったと)
まずこのシリーズの何よりのよさとは、水谷演ずる超ハマリ役の杉下右京と、彼を慕う真逆の性格の亀山薫、その周囲のクセはあるけど憎めない面々を中心とした関係が軸にあります。
そして一筋縄でいかない事件を、警視庁の片隅の閑職にありながら鋭いキレと独自の強力なパイプをもつ水谷と、熱血漢で人情家の亀山がサクサクと解決していくという、その小気味よさにあったはずです。
しかし今回の映画では、あきらかに主役はこの二人ではなかったといって過言ではない。事件を解決しストーリーを回す、どころか二人は事件にただ振り回される役、またはストーリーを脇で見ているといった位置づけにすぎなかったと思います。
で、結局「悪いのは警察官僚」とか「政治家」とか「政府」とかという、よくある典型的なオチになっています。
しかもそれに説得力があればいいんですが、若くてキレイで実力のある女性政治家(=リアリティがない)を中心にした、そのオチのすわりがきわめてうまくない。
ともかく政府の陰謀をめぐるどろどろの話がストーリーの主軸になっていますが、はっきりいってそういうのはもう食傷気味という感じがします。
どうも最近の日本の映画その他のエンタテインメント分野では、話を大きくリアルにしようとして、悪いやつのそのまた悪いやつのそのまた…とやっていったときの中ボスが「警察内部の権力」、ラスボスが「政府」になってしまう、という申し合わせたような構図があるようですね。
今回の映画ではその陳腐な典型例を何十ぺん目かに見させられたと感じました。
たとえば映画でいうと『踊る大捜査線』とかが典型的にそうで(作り手が同じではないかとすら見える)、警察官僚や政府機構、つまり権力、要するに「お上」に対する強い拒絶を表現していると思うのですが(「事件は現場で起こってるんだ!」)、一方でこういうテーマが繰り返し描かれること自体に現れている、組織とヒエラルキーに対する執拗なこだわりとはいったい何なのか。
そこが逆に興味深いといえばたいへん興味深いのですが…
ですが、テレビドラマの一ファンとしては、本筋をはずれてそんなものを延々と見せられても困惑するばかりです。
そもそも、ストーリーのおおむね3分の2を占め、題名にもでかでかとうたわれている「東京ビッグシティマラソン」をめぐる大騒動はいったいなんだったのか。
チェスをめぐる攻防とか、ネット殺人とか、あれだけの大仕掛けをしておきながら、結局ストーリーの本筋には何の関係もなかったに等しい扱いです。
マラソンのゴールでは会場係か清掃員のおっちゃんに化けた西田敏行演ずる事件の首謀者がフラリと登場し、小泉さんに似せた首相に弾の入っていない拳銃(これがきわめて偽善くさい理由は後述)を突きつけてその政治的な陰謀の秘密(後述)をバラそうと…
え、それだけ?と思ってしまいました。あれだけ騒いどいてねずみ一匹なのか?
じゃあそれまでの緊迫感(といっても粗があります)と話の盛り上げはいったいなんだったのか。
ていうか意味ないじゃん。
ここでまず水をぶっかけられます。
で、以降、話はどんどん腰砕けになっていきます。
まーいろいろあるのですが、決定打は犯人の西田敏行が明らかにミスキャスト、どころかあるべき役に対してみごとなくらい真逆だったことにあります。
単なる主観?でも結構。あえて言わせてもらおう。
この犯人は元大学教授で、息子を見殺しにした者たちへの復讐を誓って、まったく無関係に等しい人のネット大量殺人を主導し、さらに「同志」だったはずのその実行犯の若者をも殺し…そのほかにもいろいろあったような気がしますがよく覚えていません。
ともかくドラマの設定上、強烈な意思と冷徹な非情さを持つ殺人者であり、深い世間への恨みと罪の苦悩を底に抱えた一人の父親、そして右京と対等に張れるほどの頭脳の切れをもった人物でなければならないわけです。
さらに悲劇的なことに末期がんにおかされ余命いくばくもない、と。
そうでありながら、ちょっと冴えない疲れた中高年といった感じの、しかしある意味健康的なメタボ体型の西田演ずる殺人犯が、手錠をはめられ涙して「これ以上罪はなんたらかんたら」とヒューマンに語り、それに右京が共感している日にはもう何といったらいいのか…。
それまでの計画的犯罪・大量殺人はどこへふっ飛んでいってしまったのか?
いちばん分からなかったのは、たしかそこらへんで出てきた、「お父さんは私をずっと裏切ってきた」とかというその娘のセリフ。
タイミング的にはどうもこの辺がこのドラマのいちばん泣かせるサビの部分になっていたようですが、なぜここで突如アダルトチルドレン系が出てくるのか?
ドラマ的な必然性がまったくなかったこともあって、ひじょうに居心地が悪いのです。
ともかく、以降、話は西田とその息子の悲劇をめぐる政治的メッセージを軸に滑空していきます。
(ていうかこれは「相棒」の映画ではなかったのか?)
なによりどうかと思うのは、エンタテイメントなのになぜか、作り手の発する政治的メッセージを見せ付けられること。
正直うざったいという感を禁じえなかった。
いいんですよ…それがストーリー的な意味があって、それなりに正当なものなら我慢しましょう。
しかしこれははっきりいって違うといいたい。何が違うか?
あからさまに以前にあった中東での日本人人質事件(ただし映画では南米の共産テロ)を題材にして、テロリストに殺された若者(大量殺人の主犯である西田の息子)の死の真相を、政府・外務省と政治家が保身のために捻じ曲げたという「陰謀」、つまり退去勧告が届いていなかったのにその事実を握りつぶし「退去勧告に従わず国に迷惑をかけた非国民」として若者を切り捨てた日本政府の非情さが、この映画の話のまさに中核になっているのは間違いないと思われます。
で、それが「なんとかファイル」という謎めいた国家機密のキーワードとして、ラスト近くまでずっとひっぱられてドラマのメインの伏線になっているわけです。
(国家機密にしてはなぜか政治ゴロの一新聞記者がチョロっとくすねることができてしまうようですが)
それを女政治家が父親の名誉を引き換えにばーんとカッコヨク記者発表、一方死の間際にある大量殺人者・西田はそれを聞き娘と涙の和解……そしてドラマは感動のラストを迎える。
で、いいたいことは、ここでも、第三世界の現場で「崇高な」ボランティア活動にいそしむナイスな若人と、一方の利権と保身にまみれた汚いオジサンという対置の構図があるということです。
善と悪、現場と官僚組織、市民と権力、下と上、個人と国…きわめて陳腐な、どこかでいつも見かける対立図式…とはいえ、それはそれで正当とはいえるかもしれません。
おおむねいまの政治は理想と程遠いところにあるのは現実のようですから。
しかしあきらかに違うと言いたいのは、ここに件の人質事件にたいして事実と異なるイメージを刷り込もうという意図が、どうも作り手にあったのではないかということ。少なくとも見る人にはそう感じられるだろうということです。
いつまでも「国・政治」の権力は悪く、「市民」は無力な被害者で正しい、というような水戸黄門的な子どもじみた正義感でいいのか。
この件に関していえば、頼まれもしないのに危険な第三世界の紛争地帯の「現場」に、豊かな国から「いい人」になりたくて危険を承知で降り立ち出ち、警告どおり危険に遭遇し現実に関係者に多大な迷惑(いろんな表現はあるでしょうが)をかけたことに対する、国民・大人としての責任はどうなるのか? むろん後でブーたれるなんてのは話にならない。
もちろん映画はフィクションですからいいのですが、一般向けのエンタテインメントなのですからおのずと良識が必要なはずです。
しかもなお悪いことに、これがドラマの核心のメッセージになっている(と思しい)のですから、あえて一言いっておくのも無駄ではないと思った次第です。
やはりここでも濃厚に見受けられる、「お上」「権力」に対する強固な反感と、その反面の執拗ともいえる関心。
…しかしもう一度いいたい。
これは「相棒」というエンタテインメント映画ではなかったのか。
いろいろ書いてきましたが、要するにいいたかったことは、なぜ「相棒」がこういう映画になってしまったのか、ということ。
これで見た人が失望してしまわないことを一ファンとして願います。
まあ、ロングランだそうですから、そういう懸念にはあまり及ばないようですが。
どれほど資金や技術をかけようと、ふわふわした焦点の定まらない作品しか作り出すことのできなくなっているという、日本映画の現実を見せ付けられた次第です。
まあロングランということは目論見どおり大いに売れたということだから、製作側としてはそれで十分なのでしょうが…。
ようするに売れりゃいいんですから。
で、作品はどんどん劣化していくと。
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