筆者が参加しているサングラハ教育・心理研究所の講座「『摂大乗論』入門」の第3回(講師:岡野守也)、その続きを報告したい。
続いて、第九章の大乗における涅槃というものが語られている箇所である。
上述の、いわゆる小乗における個人レベルの救いに限定された、私たちの「涅槃」に関するイメージどおりの「有余涅槃」「無余涅槃」に対し、それも含んでいながら、ある意味でフェーズが違うというか、まるで異なるスケールの話が語られるのが、この大乗の涅槃論である。
③一つは、瞑想の徹底した深まりによって、全宇宙が悪も不浄も含んですべてオーケー、つまり善も悪も清浄も不浄もない=全肯定、そういう意味で「世界全体は清浄そのものである」という気づきを体得した、「本来清浄涅槃(ほんらいしょうじょうねはん)」という涅槃である。
いわば、「全宇宙の絶対肯定の覚り」とでもすべきものであり、たしかに「大乗」を名乗るだけあって壮大なスケールである。
①②のどこかはかなげでさびしい(=無力な)涅槃をはるかに超え、現代的な意味のあるより妥当な宇宙認識として、かつ社会問題に対するアクティブで有効な力を生み出す源泉としての、「世界変革につながるような涅槃」ということになるだろう。
④そして最後が「無住処涅槃」である。これは概念の上では、上記の「本来清浄涅槃」と区別されているが、おそらく実際にはそれと一体で、本来清浄という宇宙の真の姿を覚ったなら、生死(仏教的には現代語の生死(せいし)と異なり永遠の輪廻を含んでいる)も涅槃も一体になる、という菩薩の境地ないし生き様を現したものであるとのことである。
講師によれば、それは一切衆生の救いのために、覚りの世界に安住することなく、あえて繰り返し覚りの世界と生死輪廻を往還しつつ衆生のために働くという、至り着いた菩薩の生き方そのものである。
その典型が、福音書に描かれたイエスの、祈り・働き・救う姿であり、それはもちろん宗教的伝統こそ違え、まさに菩薩の姿であると語られていた。
確かにそう読むと、宗教的伝統を共有していないままでは神話的イメージの向こうにあって読み取ることが難しかったイエス伝の意味が、片端なりともわかるように感じられた。
こうして、涅槃とは涼しげでありながら、同時にじつに熱いのである。
さて、最終の第十章は仏の「三身説(さんじんせつ)」についてである。
「仏の」とあるが、これは「覚り」と言い替えても、現代的に「宇宙の」と言い替えても、ことによれば「神の」と言い替えても、それらいずれの本質をも裏切らない、すぐれて超時代的な概念であると見える。
もちろん、修行の書としての『摂大乗論』のメッセージからすれば、単なる概念理解にとどめてははなはだ片手落ちであるが、ともかく、同じ「仏教」という言葉で語られながら、私たちがふつうイメージする祈祷仏教・呪術仏教・教派仏教とは全く異なり、神話性のかけらも無い形で、すでに古代の時代にこうした哲理が語られていること自体が驚きである。
それ以上に、これが単なる哲理ではない「修行的実践の方法論」であり、私たち生身の人間において実現可能であってその方法もある、というメッセージとしての哲理だと読むべきものなのだ。
①三身のうち、いわばいちばん大きな、全体・一体としての仏である「法身(ほっしん)」ないし「自性身(じしょうしん)」とは、言葉でいってしまえば「覚り」「宇宙」「空」等々ということになるだろう。
「大乗仏教では、そういう覚った人・仏を生み出す源泉・根源そのものこそ、より本質的な『仏』であると考え、それを〈法身仏〉と呼んでいる」という。
②そして、そうした仏が修行者のためにイメージとして現れるのが「受用身(じゅようしん)」であり、これは仏像のようなイメージを想像すればよいのだろうか。
「ユング心理学ふうにいえば集合的無意識の中に潜む『元形・アーキタイプとしての仏』と言えるだろう」と語られていたが、これは修行や瞑想をしていない私たちには少々わかりにくい。
とりあえず、古代の修行者が仏のイメージにどういう意味を込めていたかが感じ取れればよいのだろう。
③こうして修行の結果、実際の歴史上の人・ゴータマ・ブッダのように、人間として世界に現れた仏が「化身」「変化身(へんげしん)」であるという。
この三身説によって、同じ「仏」として語られて、私たちの中でごちゃごちゃになっていることが、クールにすっきりと整理することができる気がする。もちろんここでも、より正しく真理と向かい合い生きる、つまり修行するための整理でなければならないのだが。
さて、重要なことは、「仏教にはもともとこうした包括的な論理があったために、古代日本に入ってきた時、神仏習合さらには神仏儒習合が日本人のいわば霊性に関する国民的合意となったのではないか」という講義の結論だと思われる。
つまりこうした大乗仏教のエッセンスこそが、私たち日本人の「国のかたち」、言い替えれば精神的なバックボーンとしてあったものだと、講師・岡野氏は語っていた。
実際、これは日本人のアイデンティティを考える時、常に見落されてきた視点なのは間違いない。
先日、別シリーズの講座の紹介でもお伝えしたように、「大乗仏教を学ぶこと」は「日本の心を学ぶこと」に直結するのだ。それをいまわれわれ日本人は見失いつつある。
選挙シーズンとなっているが、いわゆる「保守」というのであれば、こうしたほんとうの意味での日本の心を「保守」するのでなければ、一体何を守るというのだろうか。
講師が強調されていた、唯識が「人類の英知の遺伝子である」ということが、今回の3回シリーズを聴講しただけでも、たとえ片端だけでも理解することができた(それを「真理に似たもの」=「意言分別」というのであった)。
また、個人レベルでも、実際に「人生をさわやかに生きるガイド」になると感じられた。修行の人生とは意味深いものなのである。
次回から、回数を定めず、最低2年にわたり『摂大乗論』全巻講読が行なわれる予定である、とのアナウンスがあった。
講師の岡野氏にとって、思想の核心を語る、いわばライフワークの総決算ともいうべき内容を構想されているとのことである。
及ぶ限り参加していきたいと思う。
読者もぜひお気軽に御参加いただければ幸いである。
*それはそうと、以上の用語は古めかしい漢訳から来ている仏教用語である。対応するサンスクリット系の原語があると思われるが、日本の伝統に属する私たちが仏教をほんとうの意味で修行的に学ぶためには、先祖たちがそうしたようにあえて、漢文から入る必要があるという、講義冒頭での断りがあった。アタマにとどまらない精神の学びであればそれは当然だと思う。実際、朗読される漢文の格調は、現代日本語とは位相の異なる格調、言い替えれば言葉の力=言霊が感じられる。
続いて、第九章の大乗における涅槃というものが語られている箇所である。
上述の、いわゆる小乗における個人レベルの救いに限定された、私たちの「涅槃」に関するイメージどおりの「有余涅槃」「無余涅槃」に対し、それも含んでいながら、ある意味でフェーズが違うというか、まるで異なるスケールの話が語られるのが、この大乗の涅槃論である。
③一つは、瞑想の徹底した深まりによって、全宇宙が悪も不浄も含んですべてオーケー、つまり善も悪も清浄も不浄もない=全肯定、そういう意味で「世界全体は清浄そのものである」という気づきを体得した、「本来清浄涅槃(ほんらいしょうじょうねはん)」という涅槃である。
いわば、「全宇宙の絶対肯定の覚り」とでもすべきものであり、たしかに「大乗」を名乗るだけあって壮大なスケールである。
①②のどこかはかなげでさびしい(=無力な)涅槃をはるかに超え、現代的な意味のあるより妥当な宇宙認識として、かつ社会問題に対するアクティブで有効な力を生み出す源泉としての、「世界変革につながるような涅槃」ということになるだろう。
④そして最後が「無住処涅槃」である。これは概念の上では、上記の「本来清浄涅槃」と区別されているが、おそらく実際にはそれと一体で、本来清浄という宇宙の真の姿を覚ったなら、生死(仏教的には現代語の生死(せいし)と異なり永遠の輪廻を含んでいる)も涅槃も一体になる、という菩薩の境地ないし生き様を現したものであるとのことである。
講師によれば、それは一切衆生の救いのために、覚りの世界に安住することなく、あえて繰り返し覚りの世界と生死輪廻を往還しつつ衆生のために働くという、至り着いた菩薩の生き方そのものである。
その典型が、福音書に描かれたイエスの、祈り・働き・救う姿であり、それはもちろん宗教的伝統こそ違え、まさに菩薩の姿であると語られていた。
確かにそう読むと、宗教的伝統を共有していないままでは神話的イメージの向こうにあって読み取ることが難しかったイエス伝の意味が、片端なりともわかるように感じられた。
こうして、涅槃とは涼しげでありながら、同時にじつに熱いのである。
さて、最終の第十章は仏の「三身説(さんじんせつ)」についてである。
「仏の」とあるが、これは「覚り」と言い替えても、現代的に「宇宙の」と言い替えても、ことによれば「神の」と言い替えても、それらいずれの本質をも裏切らない、すぐれて超時代的な概念であると見える。
もちろん、修行の書としての『摂大乗論』のメッセージからすれば、単なる概念理解にとどめてははなはだ片手落ちであるが、ともかく、同じ「仏教」という言葉で語られながら、私たちがふつうイメージする祈祷仏教・呪術仏教・教派仏教とは全く異なり、神話性のかけらも無い形で、すでに古代の時代にこうした哲理が語られていること自体が驚きである。
それ以上に、これが単なる哲理ではない「修行的実践の方法論」であり、私たち生身の人間において実現可能であってその方法もある、というメッセージとしての哲理だと読むべきものなのだ。
①三身のうち、いわばいちばん大きな、全体・一体としての仏である「法身(ほっしん)」ないし「自性身(じしょうしん)」とは、言葉でいってしまえば「覚り」「宇宙」「空」等々ということになるだろう。
「大乗仏教では、そういう覚った人・仏を生み出す源泉・根源そのものこそ、より本質的な『仏』であると考え、それを〈法身仏〉と呼んでいる」という。
②そして、そうした仏が修行者のためにイメージとして現れるのが「受用身(じゅようしん)」であり、これは仏像のようなイメージを想像すればよいのだろうか。
「ユング心理学ふうにいえば集合的無意識の中に潜む『元形・アーキタイプとしての仏』と言えるだろう」と語られていたが、これは修行や瞑想をしていない私たちには少々わかりにくい。
とりあえず、古代の修行者が仏のイメージにどういう意味を込めていたかが感じ取れればよいのだろう。
③こうして修行の結果、実際の歴史上の人・ゴータマ・ブッダのように、人間として世界に現れた仏が「化身」「変化身(へんげしん)」であるという。
この三身説によって、同じ「仏」として語られて、私たちの中でごちゃごちゃになっていることが、クールにすっきりと整理することができる気がする。もちろんここでも、より正しく真理と向かい合い生きる、つまり修行するための整理でなければならないのだが。
さて、重要なことは、「仏教にはもともとこうした包括的な論理があったために、古代日本に入ってきた時、神仏習合さらには神仏儒習合が日本人のいわば霊性に関する国民的合意となったのではないか」という講義の結論だと思われる。
つまりこうした大乗仏教のエッセンスこそが、私たち日本人の「国のかたち」、言い替えれば精神的なバックボーンとしてあったものだと、講師・岡野氏は語っていた。
実際、これは日本人のアイデンティティを考える時、常に見落されてきた視点なのは間違いない。
先日、別シリーズの講座の紹介でもお伝えしたように、「大乗仏教を学ぶこと」は「日本の心を学ぶこと」に直結するのだ。それをいまわれわれ日本人は見失いつつある。
選挙シーズンとなっているが、いわゆる「保守」というのであれば、こうしたほんとうの意味での日本の心を「保守」するのでなければ、一体何を守るというのだろうか。
講師が強調されていた、唯識が「人類の英知の遺伝子である」ということが、今回の3回シリーズを聴講しただけでも、たとえ片端だけでも理解することができた(それを「真理に似たもの」=「意言分別」というのであった)。
また、個人レベルでも、実際に「人生をさわやかに生きるガイド」になると感じられた。修行の人生とは意味深いものなのである。
次回から、回数を定めず、最低2年にわたり『摂大乗論』全巻講読が行なわれる予定である、とのアナウンスがあった。
講師の岡野氏にとって、思想の核心を語る、いわばライフワークの総決算ともいうべき内容を構想されているとのことである。
及ぶ限り参加していきたいと思う。
読者もぜひお気軽に御参加いただければ幸いである。
*それはそうと、以上の用語は古めかしい漢訳から来ている仏教用語である。対応するサンスクリット系の原語があると思われるが、日本の伝統に属する私たちが仏教をほんとうの意味で修行的に学ぶためには、先祖たちがそうしたようにあえて、漢文から入る必要があるという、講義冒頭での断りがあった。アタマにとどまらない精神の学びであればそれは当然だと思う。実際、朗読される漢文の格調は、現代日本語とは位相の異なる格調、言い替えれば言葉の力=言霊が感じられる。
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