〈私〉はどこにいるか?

私たちは宇宙にいる――それこそがほんとうの「リアル」のはずである。この世界には意味も秩序も希望もあるのだ。

“本音”など完全に放っておこう

2006-05-06 | Weblog
関東南部は強風の日が続いていますが、春らしくいい陽気ですね。

「軍歌」聞いてノリノリです。きょうは一日、これが耳について離れませんでした。
とくに短調というのでしょうか、哀愁帯びた旋律の曲のほうが、日本人としての心の琴線というやつに触れるような気がして好きです。音楽的センスにはあまり自信がありませんが…
ふつうに言えば趣味悪すぎな気がしますが、ま、好きなものはしょうがない。

これには心情を鼓舞するっていう機能があったのだろうなと思われます。
しかし心情を鼓舞されて戦場に出撃し、たくさんの敵、どころか民間人を、むごく殺害して(せざるを得ず)、自分も大陸や南方や太平洋で無意味としかいいようのない無名の死を遂げた無数の兵隊さんのことを思うと、手放しにいいものだとはもちろん言いかねます。

しかし、その心情・理想(「軍歌」はあきらかにそれを歌っている)と、歴史の“事実”(その認定の問題はあるにせよ、巨視的には惨禍・罪悪そのもの)の落差にこそ、日本人としてしかありえないはずなのに、すなおにそうあることにすごいブレーキがかかっているという、ぼくらの集団的な心情のねじれ・ゆがみの淵源があるように思うのです。

そこに無自覚なままいくら戦争責任だとか愛国心だとかを論じても、現に歴史論争に見られるとおり、イラショナルなビリーフにもとづく感情論理の応酬に終わってしまい実りはないような気がします。
ここは事実と心情、結果と理想、内面と外面のそれぞれの事実をいったんわけて捉えたほうがいいように思われてなりません。まずは気持ちの整理が必要、ということで。

たとえば病んだ人に治療的に接するのも、「お前なんてバカなことをしたんだ!」と愚行をあげつらうのはまったく意味がない、どころか逆にますます病に追い込んでしまうと思われます。
心の病気に対処するには、他人に対しても自分に対しても、まず受容的・肯定的に共感し聴くことが大切だと学びました。

「病んだ人」とはこの場合、こじれにこじれきった日本人としてのアイデンティティのこと、つまり日本人としてのぼくらのことであり、戦争-敗北で終わるようにどうしても読めてしまう日本史のことです。
そうイメージすることもあながち外れていないように思えてきました。


それはそうと、きっかけがあり(きっかけがなければならなかったというところに、ちょっと“慚愧”でありますが…)、ブログ当初に紹介した『生きる自信の心理学―コスモス・セラピー入門』(岡野守也著、PHP新書)を学びなおしています。いや~、原点を、見失ってましたね。
というか、歯磨きを忘れていたかのようで、じつにすっきりしません。

で、たとえば「心の視点変更のワーク」とか「自分の能力・長所を書き出す」とか、やってみました。
あまりそうなれない気分の中であえてやったので、効果あるのかな、なんて正直思いながらやったのですが、思いもよらず翌日のきょう、とても元気でポジティブにやることができたように感じます。

セラピーというのは、やったそのとき即時に効果がなければ意味がない、というビリーフがあるのですが、どうもそのときの思惑とか感情にかかわらず、実行したいわば“種子”は、しっかり心に届いているようですね。そう感じました。

例の『完全自殺マニュアル』の鶴見済さんが、著作で「社会のことなんて完全に放っておいて」というような言い回しをしていて、強がってるよなあ、と思わず苦笑だったのですが(なにせそう発言すること自体が著作という社会的活動ですから(笑))、なんかその言い回しが微妙に面白いなと思ったものです。
ここでそれを使わせてもらうと、「マナ識的な感情の“本音”など完全に放っておいて」やったほうがいいことはやっておこう、ということになるでしょうか。

これは学んでいたと思うのですが、実感的にはけっこう意外な体験でした。
日々の継続的な実践がいかに大切か、ということになると思います。

…いかんいかん、こう書いている間にも勉強しなきゃならんのだが、「試験前の部屋の整理」みたいに、些事が奇妙にはかどります。

いやいや、勉強と自己改善がパラレルのなのだから、勉強したい、と思おう。うん。

お読みいただきありがとうございました
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